第6話 夜会 後編

「今のは誰だ」

 ハリスの声に不機嫌さがにじむ。

「知りません」

 ジャネットは答え、ハリスの腕から逃れようとした。

 しかし。

 酔いが更にまわったのか、足がもつれてうまく動かない。

「俺に挨拶にも来ずに、知らぬ男に抱かれ、歩けないほどに酔っぱらうとは……」

「ならば、醜態をさらしたということで、私のことは捨て置いてくださればいいのに」

 ジャネットは呟く。

「ずいぶん、捨て鉢な言いぐさだな」

 ハリスは、眉をしかめた。

「こんな私なんかに構っていては、お立場が悪くなります」

「……それは、おかしいだろう。お前は俺の婚約者だろうが」

 ハリスの腕に拘束されて、身動きが取れない。

 しかし、声はいらだっているのに、身体にまわされている腕は思いのほか優しくて、ジャネットは戸惑う。

「この前から、お前はおかしい」

「そうかもしれません」

 ハリスの言葉をジャネットは否定しない。

「あれほどまでに、俺の婚約者であることにこだわっていたのに」

「私がこだわるほど、皇子は、こだわっておられませんでしたでしょう? お気になさることではありません」

 ジャネットはハリスの戸惑いに苦笑した。

 これは、あれだろうか。自分に常につきまとっていたジャネットが突然、そのこだわりを捨てたことに対しての疑問なのだろう。

「俺から先ほどの男に乗り換える、というわけか?」

「まさか」

 ハリスに頼っているだけでは、父を助けることはできない。だが、銀龍を頼ったところで、事態が良くなるものでもないだろう。誰かに頼っていれば、何かが変わるというものではないのだ。

「何をするのも、自分で決めたいと思っただけです」

 自由に動けぬように拘束されているのに、ジャネットの負傷した腕の傷に痛みは全くない。真綿で縛られているかのようだ。

「あの……離していただけませんか?」

「お前の婚約者は、あの男ではなく、俺だろう?」

「それはそうですが」

「ならば、俺から逃げる必要はないはずだ」

 よくわからない理論ではある。

 しかし、酔いのまわった頭はふわふわして、常ならば反発してしまうであろう皇子の言葉にもかかわらず、なんとなく身をゆだねてしまう。

「逃げる女は、そんなに惜しいものですか?」

「逃げているのか?」

「……逃げているわけではありませんけど」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 ハリスに抱きしめられたまま、ジャネットはソファに腰をおろす。

 酔いもあるのだろう。触れているハリスの体温が心地よい。

 不思議な安らぎが心を満たす。それでも、口からこぼれる言葉は素直でなかった。

「婚約者としてのご心配なら、充分に義理は果たしていらっしゃるかと思いますわ」

「義理で心配するほど、暇じゃない」

 いくぶん、ハリスの声に怒気が混じる。

「ですから、お構いなくと申し上げております。私は、皇子の邪魔をしたいわけではありません」

「俺の邪魔? ずいぶんとしおらしい。らしくないな。どんな闇でも、強引に光を灯そうとするくせに」

 ジャネットは苦笑する。その通りだ。前は、皇子の都合など、全く見えていなかったし、考えてもいなかった。自分が正しいと信じて突き進むだけだった。そして、追い詰められた。

「私と父は、諸刃の剣。選ぶことも、捨ててしまうのも良策ではありません。だから皇子は、私を選ばない。捨てることもない……でも、それを責めることはできません。皇子には皇子のお立場があります。やっとそれに気が付いただけですわ」

「何故、勝手に決めつける? どちらにせよ、決めるのは、俺だろう。お前が結論を出すのは、おかしい」

 でも、結局は、皇子が自分を選ばず、そして父を殺すことを知っている、と言いたいのをジャネットはこらえる。

「私はもともと勝手な女です。よくご存知では?」

 ジャネットは、自分の指先に視線を落とした。

 ハリスはなぜ、父を殺すのか。

 おそらく、父の研究かジャネットのどちらか、もしくは両方が、帝王ザネスの邪魔になることが確定したからだ。

 ハリスはザネスに逆らえない。

 少なくとも、ジャネットのために、逆らうようなことはしない。でも、それは、ハリスが責められることではないとも、今なら思う。皇子には、皇子の立場も人生もある。

 たとえ、帝王ザネスの治世に不満があったとしても、ハリスはいずれ『跡を継ぐ』立場だ。

 時間をかけて、ゆっくりと根回ししていくほうが自然で確実なのだ。ジャネットや父の都合に合わせる必要はない。

「それに、私との婚約は、皇子が『得』になるものは何もないではありませんか」

 帝国で並ぶものがないほどの力を持っても、『聖なる炎』を操れないなら、帝王に逆らえない。帝王がいらぬというなら、切り捨てられる……それだけだ。二人の間に愛も恋もないなら、それは当たり前だ。

「グルマスか?」

 ハリスの顔が曇る。

「いえ……グルマスには、反対はされておりますけど、違いますわ」

 グルマスが冷静にハリスの立場に立って、婚約を反対しているのは確かだ。ムファナ将軍の話を聞いて、それが個人的な好き嫌いではないということがよく分かった。

 ジャネットの持つ危険要素は、簡単にハリスを破滅に導くものなのだ。

「お前は……女の笑顔のためだけに、男が命を懸けるという話を聞いたことはないのか」

 ハリスの指が、ジャネットの頬を撫でた。胸がドキリと音をたて、身体が震える。

 甘いその言葉に酔いそうになる──でも。

「……私のせいで命を落とすひとがいるのは事実ですね」

 そんな騎士を夢見てどうするのだ。採掘場で、危険な作業を命じて、人々の怨嗟をあびている立場の女だ。

 ジャネットは、おとぎ話の姫ではない。力で成り上がった魔術師であり、その手は血濡れている。

 甘い雰囲気をジャネットは振り払う。視界のすみにリアナの姿が映った。

 あきらかに、皇子を見つけて、こちらにやってくるようだ。

 おとぎ話の姫の役は、彼女の方が相応しい。彼女の手は、雪のように白いのだから。

「ハリスさま」

 鈴が鳴るような可愛らしい呼び声。

 もっとも。

 ハリスが他の女を腕に抱いているのは見えているだろうに、と考えると、見た目のか弱さとは裏腹にかなり図太い精神を持っているのかもしれない。

 しかし、紅蓮の魔術師のジャネットなど、魔力以外、彼女の敵ではない。

 だからこそ、帝王の許可を得た今でも、ジャネットはハリスの『婚約者候補』でしかないのだ。

「ハリスさま、父にぜひご紹介したい方があるそうです」

 にこやかな笑み。ジャネットなど存在しないかのような表情。そして、ハリスが、自分の誘いを断らないと確信している。

「どうぞ、お構いなく」

 ジャネットは皇子に笑んで見せる。

「おかげさまで、だいぶ良くなりましたわ」

「ジャネット」

「宰相閣下によろしくお伝えを。私、お見舞いに来ていただけただけで、もう充分ですのよ」

 ジャネットは、さりげなくネックレスに目を落とす。

「あれを、怒っているのか?」

 あれ、というのは、ケガをしたジャネットの内通を疑ったことだろう。

「いいえ。むしろ感謝を。グルマスからも、そう伝えてもらったはず」

 嫌味ではなく。

 疑いでもなんでも、ジャネットを気にかけていることは間違いではない。

「少し時間をくれ」

 ジャネットの耳もとにハリスが、ささやく。

「俺にはまだ、薪が足らない」

「え?」

 ハリスは、ゆっくりと立ち上がった。

「……得になるかならないかは、俺が決める。炎は俺が制する」

 ハリスは、にこやかな笑みで、リアナのほうへと歩いていく。

 ジャネットのほうを振り返ることはない。

「お願いだから、私に都合の良い夢を見せないで」

 ネックレスに手を触れながら、ジャネットは呟く。

 ハリスの身体から離れた肌が、ぬくもりの喪失を感じる。

──私は、もう、期待したくはないの。

 リアナと共に去るハリスの背は、遠い。

 赤い宝玉が、炎のようにきらめいていた。

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