第2話 部下

 ハリスが帰った後、ジャネットは、ゆっくりと立ち上がる。

 まだ、頭が痛む。

 窓の外を見れば、真っ白な氷雪山脈(ひょうせつさんみゃく)の尾根が連なっている。

 建国神話の龍がもたらしたという聖なる炎がなければ、この地はあっという間に凍てついてしまうだろう。

 父の研究は、聖なる炎の研究だ。もっとも、それに頼らず氷雪山脈から降りてくる冷気を和らげる方法を模索していたところがある。だが、それは帝王の権力のゆらぎを意味する研究でもある。

 それ故に、父は捕らえられた。

 半年後。

 父が殺されるのは、父の研究が帝王に利することがなくなったからだろう──そして、ジャネットの能力も必要がなくなる、ということだ。半年の間に何があったのか、ジャネットにはわからない。

 わかっているのは、『聖なる炎』はジャネットに御することは不可能で……たぶん、あのままであれば、反乱軍も敗れてしまうだろう。

 『聖なる炎』を、消すことはできないのだから。

 ジャネットは、窓辺に座り、ため息をついた。

 自分の命はともかく、父は救わなくてはならない──この国のためにも。

「ジャネット様、お加減は?」

 ドアの向こうからの声に、ジャネットは、ガウンを引き寄せた。

「悪くないわ。いいわ。入って」

 一礼して入ってきたのは、目のぎろりとした恰幅の良い男と、ひょろ長い狡猾そうな笑みを口元に張り付けた男だ。

 目のぎろりとした方は、グルマス。もうひとりの狡猾そうな男は、ラニアス。

 名目上は、ジャネットの部下だが、実際にはふたりとも、ジャネットの監視役である。

 表向きジャネットの命令に逆らったりはしないが、忠誠心などかけらも持ち合わせていない。とはいえ、ふたりはそれぞれ主義主張は相いれず、仲が良いわけではない。

 グルマスは皇子派、ラニアスは帝王派。帝国の微妙な勢力の縮図が、ここにもある。

 なんとも心温まる職場だ。

 『銀龍』とジャネットの戦いを皇子に報告したのは、おそらく、このグルマスのほうだろう。

 この男は、ジャネットに仕えながらも、ジャネットを危険視しているのを隠そうともしていない。嘘のつけない男だ。そういう面で、ジャネットはこの男を信頼している。

「皇子は、お帰りになったのかしら?」

 ガウンを羽織り、ジャネットはグルマスに問う。

「はい。こちらをお渡しするようにと」

 グルマスはそう言って、おずおずと木箱をジャネットに差し出した。

 既視感を覚えながら、ジャネットは、それを手にする。

 中に入っていたのは、建国記念行事の招待状と、透き通る赤い宝玉のネックレス。

 記憶とたがわぬ中身だ。

「これは?」

「ジャネット様に、ぜひお付けいただきたいと、皇子がおっしゃっておられました」

「そう……」

 ジャネットは頷く。

 内通を疑っていたくせに、思わせぶりな贈り物ね、と思う。

 そもそも招待といっても、ジャネットから見れば、召集だ。

 ジャネットに少しでも反抗の意思が見えたら、父に危険が及ぶ。

 前回は、まだ痛む身体に無理をして、絢爛豪華な建国祭に参列をしたことを思い出した。

 その力ゆえ、公の場で、ジャネットが冷遇されることはない。

 だが、積極的に関わろうとする者もいない。

 華やかな式典、華やかな夜会。ジャネットは常に孤独だった。

──ひどい男。

 ジャネットは苦笑する。

 結局、ハリスはジャネットを選ぶことも拒絶することもせず。

 時に、こうやって、思わせぶりなことをする。

──賢い皇子さまだわ。

 少しだけ嬉しいと感じていた自分は、なんて愚かであったのだろう。

 贈られたネックレスをつけていても、皇子は遠く、皇子を取り巻く輪の端に立っていただけ。皇子のそばには、美しい宰相の娘がいた。

 婚約は、形だけ。欲しいのは皇子の心ではないと、自分で割り切った関係のはずだったのに、寂しさを感じていたのは、ジャネットの勝手でしかない。

 ジャネットは、宝玉の中に映る自分の姿を見て、ため息をついた。

「お返しする、と言ったら、私は反逆罪になるのかしら」

 小さく呟いた声に、グルマスの表情が驚きに変わる。

 そんな言葉が返ってくるのは、完全に想定外だったのだろう。

「冗談よ」

 ジャネットはそう言って、箱を閉じた。

 少なくとも、皇子はジャネットとの関係を今は切るつもりがない。これはその証であって、それ以上ではないのだ──そう割り切れば、心に波風は立たない。

「採掘場の様子はどう?」

「入り口の岩盤に亀裂が発見されましたので、補強工事を指揮しております」

 ラニアスが歩み出て、そう述べた。

 油断のならない眼光。

 ジャネットはこの男の、この目が嫌いだった。

 変な話だが、ジャネットの前で恭順な態度をとるラニアスのほうが、グルマスより信用できない。

 ラニアスの言葉には、誠がないのだ。

「そう。採掘場の安全確保は、最優先事項だから、しっかりやって」

 そう言ってから、同じことを前にも言ったな、と、思う。そして、この男に『安全』を託すのは、無謀だな、と思い直した。

「やっぱり、その仕事はグルマスがやって。ラニアスは、採掘済みの紅蓮石の運搬処理の指揮を任せるわ」

 ジャネットは、本心を悟られぬように笑ってみせる。その程度の腹芸は、ジャネットにもできる。

「ラニアスには、建国祭についてきてもらおうと思っているの。ラニアスは、儀式に詳しそうだし」

「……わかりました」

 ラニアスがグルマスのほうを見て、にやりと笑う。

 自分のほうが厚遇されているぞ、と言う満足げな笑みだ。

「ほかに、変わったことは?」

「特には。おそらく銀龍のほうも手傷を負ったと思われます。しばらく襲撃はないかと」

「そう」

 ジャネットは、頷いた。

「引き続き、警戒はしておいて。もういいわ」

 ジャネットの言葉に、二人は頭を下げて部屋を出ようとした。

「待って。グルマスには、まだ話があるわ」

「私に?」

 立ち止まったグルマスを横目に、ラニアスが扉から出て行った。

 ジャネットは くすり、と笑った。

「一応、話しておこうと思って」

 ジャネットは、手にした箱をサイドテーブルに載せた。

「何を、で、ございましょうか」

 グルマスはじっと、ジャネットを見ている。どうやら、何を言われるか、予想がつかないようだ。

「仕事をあなたに頼んだ理由よ」 

 くすり、とジャネットは笑う。

「あなたのほうが、まだ、採掘場の安全を気にしてくれそうだからよ」

 グルマスの目がびっくりしたように見開かれた。その言葉は、想定外だったようだ。

「あなたは、私はともかく、鉱夫たちの安全は守るでしょう?」

 仕事、という面では、帝王の犬であるラニアスより、グルマスのほうが信頼できる。

 いずれ、この採掘場は不要となるだろう。ジャネットの力も……でも、まだ、しばらくは、紅蓮石は必要なのだ。

「ジャネット様?」

 ジャネットは、木箱に目をやる。

「グルマスは、私と皇子の婚約は反対だったわよね」

 ジャネットの問いに、グルマスは答えない。

 グルマスが、皇子の忠臣であるのは、間違いない──それは、前からわかっていたことだ。

 皇子にとって、ジャネットは、帝王ザネスとの関係を危うくしかねない火種だ。この男が、ジャネットと皇子の関係を切ろうとするのは当たり前のことだろう。

「安心して。私、もう無理はしないことにしたから」

「ジャネット様?」

「愛もなく、政治的メリットもないのに、皇子が私を選ぶわけがないと悟ったの。帝都に行ったら、そのむね、陛下に申し出るわ」

 父を救うのに、皇子の力を借りようとしたのは間違いだった。

 婚約を確固たるものにしようとした努力を、もっと別の方角に向けるべきだった、と思う。

 どうしたらいいかはまだ、わからない──わからないけれど、このままでは、父は救えない。

「……それでは、陛下へのお立場が、悪くなるのでは?」

「陛下は私の力が必要なのよ。そう簡単に切り捨てたりはしないわ」

 ジャネットは笑った。

──今は、ね。

 いずれ、父も自分も必要とされなくなるのだけど、と、胸の内で呟きながら。

「皇子から手を引くから、採掘場の安全確保はあなたの責任でしっかりやって。仕事に関しては、私、あなたを信用しているのよ」

「どうなさったのです?」

 グルマスが怪訝そうに、ジャネットを見る。

「いつだって、あきらめないジャネット様らしくない」

「あなたにそんなふうに見られていたとは、意外ね」

 ジャネットはそう言って笑うと、グルマスは戸惑った表情を見せた。

「大けがをしたのに、疑われて、弱気にならないほど図太くはないのよ」

 そういえば、前の時は、その気持ちを必死で隠そうとしていたわね、と、ジャネットは思う。

 弱みを見せることは、負けることだと気を張っていた。

 何をやっても、何を耐えても、結局、無駄だったのだけど。

「あなたに言っても埒もないことね。忘れて」

「ジャネット様……」

 グルマスの大きな目がジャネットを凝視している。

 それほどまでに、弱気なジャネットは意外だったのだろうか。

「皇子には、お礼を言っていたと伝えて。どんな理由があるとしても、お見舞いに来てくださったことには違いないもの」

 反乱軍との内通を疑うにしろ、わざわざ帝都から、その目で様子を確かめに来る程度には、ジャネットを気にしていたのだから。

「それは……ジャネット様から直接おっしゃっていただいた方が」

「無理よ」

 ジャネットはそう言って、木箱をなでた。

「私、もう、自分に嘘をつかないと決めたの」

 帰り際。

 ジャネットを扱いかねていたハリスの姿を思い出す。

「嫌味の一つも言いたくなってしまうから。でも、皇子と喧嘩したいわけではないのよ」

 味方にしようとするのは諦めたが、敵にしたいわけではない。

「……誤解なさっているようですので、申し上げますが、私は、ジャネット様が怪我をしたという報告以外はしておりません」

 グルマスは意を決したように、ジャネットに目を向けた。

「ジャネット様を陥れたいのは、私ではなく、ラニアスのほうです」

「そうなの?」

 それは意外だった。

「そう……」

 もっとも、意外ではあっても、納得はできた。

「私を失脚させ、フローラを後釜に据えるつもりかしら」

 眉をしかめた。

 フローラもジャネットほどではないが、紅蓮石の声を聴くことはできる。

 ジャネットより、フローラのほうが御しやすいとラニアスが考えたとしても不思議はない。

 そうはさせない。

 フローラに、ジャネットと同じ思いをさせるなんて、冗談ではない。

「この際、申し上げますが、宰相の小娘より、ジャネット様のほうが皇子とはお似合いだとは思います。賛成は、やはりいたしかねますがね」

 そう言って、グルマスは頭を下げる。

「複雑ね、あなたも。私におもねても、何一つ良いことはないわ。無理して、持ち上げなくてもいいのよ」

 婉曲なグルマスの言葉に、不器用な優しさを感じて、ジャネットの胸は熱くなった。さりげなく宰相の娘を小娘呼ばわりするとはいい度胸ねと、笑う。

 グルマスの目が眩しげに細められた。

「その表情(かお)……あなたは、ずるいひとだ」

 グルマスは、呟く。

 その目の鋭さがゆるんだ。

「採掘場のほうはお任せください。仕事であなたを裏切るようなことは致しません」

「ええ。期待しているわ」

 ジャネットが頷くと、グルマスは丁寧に頭を下げた。




 

 

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