第1話 覚醒
「姉さま、姉さま」
柔らかな心配そうな声。
頬をなでる指の感触で、ジャネットは目を覚ました。
「私?」
栗毛の髪の少女が、ほっとしたように微笑んだ。
「ああ、姉さま。良かった。気がついたのですね」
ジャネットは横たわった体を起こす。ズキンと左手に痛みが走った。
見慣れたはずの自分の部屋であることは瞬時に理解した。
暖かな炎が暖炉に燃えている。
「私、死んだはず……」
ジャネットは、自らの身体を調べていく。
手足は痛むが火傷の痛みとは違う感じだ。左手に包帯。
しかし、これはおそらく切り傷だ。何より剣を突き立てたはずの喉には傷一つない。
「銀龍との戦いで、崖から落ちてしまわれたのです──幸い、大きなけがはなかったみたいですけど、ずっと意識が戻らなくて……」
ジャネットは、もう一度ゆっくりと辺りを見回す──自分の部屋であることは間違いない。
自分は、聖なる炎に焼かれていたのではないだろうか?
目の前にいるのは、妹のフローラ。
おそらく心配で眠れなかったのであろう。大きな青い瞳は、やや落ちくぼみ、目の下にクマがみえる。
「何か、お飲みになりますか?」
フローラは、ベッドサイドに置かれた水差しに手をかけた。
そのやわらかな仕草に既視感を覚える。
目の前に差し出されたカップの中の水が、静かに波紋を描く。
ここは、ジャネットとフローラに、帝王から与えられた屋敷だ。
『聖なる炎』を維持するのに必要な、紅蓮石(ぐれんせき)を採掘するのが、ふたりの役目。
帝都から遠いことをのぞけば、その役目もこの屋敷も、下級貴族出身のふたりには、『厚遇』とささやくものもいる。
もっとも。
ジャネットたちにとっては、ここは牢獄と同じだ。
強制的に集められた人に採掘を指示し、強いる役どころなど、父を人質に取られていなければ、やりたくなどない。
「銀龍」
ジャネットは呟く。
銀龍というのは、採掘場で苦しむ人々を救うべく、たびたび現れる反帝国派の首領だ。
建国伝説の龍、『銀龍』を旗印にしており、自らをその化身と名乗っている。
まっすぐな瞳を持つ男で、絶対的なカリスマを持つ男だ。
さながら、民衆に非常に人気のある正義の味方と言ったところか。
「崖から?」
ジャネットは混乱する記憶に額を押さえる。
銀龍と戦い、崖から落ちたことはあった──しかし、それは半年以上も前のことではなかったのか?
「今は、いつなの?」
「レグルス月の十五日ですわ。お姉さまはもう、七日も眠っておられたのです」
「レグルス月……」
ジャネットの記憶によれば、レグルス月は半年も前のことだ。
どういうことだろう。
自分が自害して果てるまでのここから半年間は、長い夢だったのだろうか?
「……ひょっとして、私が眠っている間に、帝都から皇子が訪ねてきたかしら?」
「あら、どうしてご存知なのですか?」
フローラが不思議そうにジャネットを見上げる。
「そう……」
ジャネットは自らの手に視線を落とした。
──時が、戻っている?
そうとしか思えなかった。
ここから死に至るまでの半年間の『記憶』はあまりにも鮮明で、とても夢とは思えない。
ジャネットの記憶が確かなら、このあと屋敷に皇子が訪ねてきて……招きもしないのに、部屋に入ってきたはずだ。
そして、この程度のけがで済んだことで、銀龍との内通を疑われる。
もちろん、銀龍がジャネットを本気で殺そうとしたわけでないのは事実だ。
『聖なる炎』の研究者で、現在、帝王に囚われている父デニスの本心が反ザネスであることは、銀龍もよく知っている。
ジャネットとフローラが本心から、帝国に忠誠を誓ってはいないことも。
これから数か月後──。
妹のフローラは、銀龍の率いる反乱軍に身を投じることになる。
心優しいフローラは、帝王ザネスの圧政に加担することに耐えられなくなったからだ。
しかし、ジャネット自身は人質である父を助けるため、権力にすり寄った。
皇子に近寄り、父を救出しようと、民衆の敵を演じながらチャンスを待ち続けた。
しかし、父は皇子に処刑され、ジャネット自身も追い詰められて、炎の中で自害した──はずであった。
「ダメです、まだ、ご面会は!」
階下で、女中の声がとんだ。
ドタバタという足音。
何の躊躇もなく、バタンと扉が開く。入ってきたのは長身の男だ。
冷ややかな眼光。なまじ端正なだけに、余計に鋭く感じる。
「……レディの寝室に、随分ですわね。ハリス皇子」
最初からわかっていれば、動揺はない。そのぶん、デリカシーのない男への怒りが込み上げた。ジャネットは、男の顔を睨みつける。
「お、皇子といえど、未婚の女性の寝室に無断で入るなんて失礼ですわ!」
フローラが、ジャネットを庇うように前に出た。
「いいだろう? ジャネットは俺の婚約者候補なのだから」
「あくまで候補ですわ。そもそも、皇子は私を望んでもいらっしゃらないでしょうに」
「ほう? 今日はいつもとは違うな」
いぶかし気にハリスがジャネットを見る。
──しまった。
ジャネットは、唇をかんだ。
記憶が混乱していたせいで、つい本音が漏れた。
「俺の嫁になりたいのではなかったのか?」
ニヤリと、ハリスは笑った。
「そうでしたわね」
ジャネットは、開き直った。
父のためにこの男に取り入ろうとしていたのは事実だ。
帝王ザネスに比べれば、ハリス皇子はまだ、マトモだと思えた。
ハリスの目には、民衆の苦悩が見えているように感じていた──だからこそ、ハリスに賭けた。
だが、半年後、父デニスは帝王の命でこの男に処刑される。
そして、ジャネットは業火に焼かれた。
この男のご機嫌を取って得た未来は、最悪だったと言っていい。
思えば、皇子にはジャネットを信じる気など最初からなかったのだ。そこに愛も恋もない。
ほんの少しだけ、この男を信じていた自分が情けない。
「怪我をした私を嘲笑いにいらっしゃるような方では、百年の恋も冷めます」
「お、お姉さま」
ジャネットの物言いに、フローラの顔が青くなる。
「皇子、姉はさきほど意識が戻ったばかりなのです。どうか、日を改めて……」
「いいのよ、フローラ」
ジャネットは、にこりと笑った。
「私は、もともと皇子に好かれてはいないの。でも大丈夫。殿下は『寛大な』お方でいらっしゃるから、この程度のことでお怒りにはならないはずよ」
「好いていないと言った覚えはない」
ハリスの眉がひくりとあがった。
「好きと言われた覚えもございません」
ぴしゃりと返して、ジャネットは息をついた。
「フローラ、席を外して。皇子は私にご用なのでしょうから」
「お姉さま」
心配そうなフローラに大丈夫、と微笑みかける。
「何かあったら、お呼びください」
フローラはそう言って、扉を少し開けたまま出て行った。
皇子に椅子に座るように言って、ジャネットは足音が階下に消えていくのを待った。
「それで、ご用件は?」
ジャネットは、皇子に向き直る。
「ずいぶんだな。見舞いにきた婚約者に言う言葉じゃないだろう?」
「候補ですわ。そもそも、お見舞いなんて可愛らしい理由ではないのでしょう?」
ジャネットは苦笑した。
「私が銀龍と通じていると思っているのでしょう?」
「ジャネット?」
ハリスは明らかに困惑の表情を浮かべている。
「信じてくださいと言っても、無駄ですもの。好きにお調べになるといいですわ。婚約者候補から外して下さっても構いません」
「候補から外す?」
ハリスは驚いたように目を見開く。
人脈と金銀を使い、強引にハリスの縁談相手に名乗り出たのは、ジャネットだ。
もっとも、ジャネットの身分では、反対するものが多く、まだ、『候補』でしかない。
ただ、ジャネットが『紅蓮の魔術師』である以上、誰も無下にはできない。
今にして思えば、ハリスは、まもなく宰相の娘と婚約するはずであった。
政略結婚だったとはいえ、帝国でも指折りの美姫である。今思えば、ジャネットの申し出は、迷惑だったに違いない。
「俺の嫁になって、父親を救いたいと思っていたのではないのか?」
「それがわかっていて、なぜ私を疑いますの?」
ジャネットはハリスを睨みつける。
「銀龍が、わざと急所を外したという報告がある……」
「銀龍が、私に止めを刺すことをためらって、何の不思議があるのです?」
ジャネットはくすりと笑った。
「父デニスの研究を欲しいのは、銀龍も同じこと。皇子が私を婚約者候補から外さないのも、それが理由では?」
「……どうした? 今日はずいぶん歯に衣を着せぬ言動だが」
ハリスは、ジャネットの意図をはかりかねているようだった。
ジャネットは、傷一つないのどに手を当てる。突き立てた痛みの記憶は夢や幻とはとても思えない。
きっと、あれは『現実』になるのだろう。
運命に抗うことはおそらく、できない。ならばせめて自分の心に嘘をつかずに生きたい。
どうせ自分は捨て駒だ。捨てられるのが、早いか遅くなるかそれだけだ。
「これほどの傷を負って、疑われるのであれば、何を言っても無駄だと悟っただけですわ」
「……痛むのか?」
ハリスの手が、包帯の巻かれた手にわずかに触れそうになり、ジャネットは手を引いた。
「茶番で、七日も寝込むほど暇ではありません」
「……そうだな」
ハリスは伸ばした手に視線を落とす。
「非礼を許せ。俺が悪かった」
ジャネットは驚いた。ハリスがこんなふうに自分に謝罪するのは初めてだ。
「珍しいこともあるのですわね」
「お前を銀龍に奪われるわけにはいかない」
ハリスの手が、ジャネットの頬に触れる。
ジャネットは、自分を見つめるハリスから視線をそらした。
「養生しろよ」
いつになく優しい言葉をかけると、ハリスは帰っていった。
「私にはまだ、利用価値がある……ということですね」
小さく呟いた言葉は、ハリスの背には届かなかった。
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