第5話 漢と海神
そんなある日、私に中国出張の話が舞い込んできた。勤務している会社の工場が中国の上海にあり、新商品の生産立上げの支援を要請されたのである。私は、中国の文化にも触れることができる絶好のチャンスとばかり、喜んで引き受けることにした。
上海へは、飛行機で東京羽田空港から上海虹橋(シャンハイホンチャオ)空港へ飛び、空港からホテルへはタクシーで向かう。私は、十月の爽やかな日に、上海の街に居た。高層ビルが立ち並ぶ通りを少し歩き、ホテルの近くのカジュアルなレストランで夕食を取ることにした。メニューは火鍋である。一人鍋だが、青島ビールを片手に、白湯(パイタン)と麻辣(マーラー)のスープに海鮮や肉や野菜などを入れていただくと、とても幸せ気分になった。
明くる朝、ホテルで朝食を済ませると、私は工場に出社し、先輩の中村さんに挨拶に行った。中村さんは、以前同じプロジェクトで仕事をさせてもらい、お世話になった先輩である。現在は、上海の工場で生産技術部長として、現地社員の育成と指導に尽力されている。
「中村さん、お久しぶりです。今回、車載電装品Aシリーズの生産立ち上げ支援に伺いました。一週間ほど御厄介になります。よろしくお願いします。」
「やあ、小出さんか、お久しぶり。君が来てくれたら、安心だ。車載電装品Aシリーズは、工場でも注力している商品だし、よろしく頼むよ。立ち上がったら、一緒に飲みに行こう!上海の街を案内するよ。」
「ありがとうございます。品質優先で取り組みますが、納期のほうも何とか前倒しで終わらせたいですね。」
私は、中村さんにお礼を言って、現場のほうに向かった。
製造ラインでは、既に量産試作が始まっていた。工程の不良品置き場を見ると、まだ、ポツリポツリと不良が発生しているようだ。工程管理の王さんに確認すると、樹脂成形の工程と、最終検査工程で、不良が発生していることがわかった。樹脂成形の不良はバリが出ることによる問題である。成形用金型の精度は国内で試作ラインを通して確認済みである。後は成形材料と、温度・圧力などの管理に課題が残っていると思われる。温度・圧力のプロファイルは、国内と同様だが、成形材料は、中国で別途調達しており、基本成分は同じだが、温度による可塑(かそ)特性が国内品に比べ幾分低温側に振れることがわかった。成形機の金型温度を基準値より5℃と10℃下げて、試し打ちをしてみる。その結果、5℃下げることで、不良が発生しなくなることがわかった。一方、最終検査工程での不良は、嵌合不良によるものだった。そして、実は樹脂成形部品の少量のバリが検査で撥ねられずに流出したことによる組立不良であることがわかった。私は、成形部品の検査基準を是正して、明くる日に量産試作を再開してもらうことにした。
そこで、取り敢えず今日のところは、中村さんに状況を報告して、ホテルに戻ることにする。
「現地調達の樹脂成型でバリが出ていました。成形機の金型温度を調整して、バリの検査基準を見直したので、もう不良は発生しないと思います。明日の量産試作の状況を見て最終判断したいと思います。」
「そうか、原因がわかって何よりだ。小出君、君が居てくれて助かったよ。」
「いいえ、今回は原因が一つだけだったので、ラッキーでした。明日、何も起きないといいんですけどね。取り敢えず、今日はこれで失礼しようかと思いますが、いいですか?」
「ありがとう。今日は帰ってゆっくり休んでくれよ。」
「それじゃあ、これで失礼します。」
私は、工場を後にタクシーでホテルに帰った。今日の夕飯は、日本食が食べたくなって、ホテルの近くの焼き鳥居酒屋に入った。ここは、日本人のサラリーマンが多く、日本語も通じるから安心だ。私は、枝豆と串焼きとサラダ、それににぎり寿司と日本のビールを注文した。旨い焼き鳥に酒も進む。
私は、製造ラインの不良原因が解明できてほんとうによかったとビールを飲みながら、改めて思った。製造工程の安定を保つには、4M変動(MAN、MACHINE、MATERIAL、METHOD)による変化を捉えて、是正することが重要である。今回の問題は、MATERIALの変動が原因だった。やはり、品質理論は大切だ。
ひとしきり飲んで、私はカードで勘定を済ませ、ホテルに戻った。少し喉が渇いていたので、無糖のペットボトルのお茶を飲もうとした時、ふと気になっていたことが頭をよぎった。
「国家の安定も品質理論と同じではないのか?」
南の越の国力増強という変化を捉えられず北へ勢力拡大したことにより国家が不安定になった呉や、秦の強大化という変化を捉えられず斉や趙との対抗のみに熱心だったために国家が不安定になった燕などからの避難民が古朝鮮を建てた。海神(わだつみ)が倭建国に関わっていたとすれば、徐福と出会った海神(わだつみ)は紀元前219年頃には日本にいたので、古朝鮮から分かれて倭国を建てた系統もその数十年前には日本に居たはずである。そして、その系統が同様に避難民とすれば、黄海や東シナ海に面していて、呉滅亡の紀元前473年前後から倭建国の最も遅い想定時期の紀元前230年頃までに変動があり国家が不安定になった王朝を調べれば倭国を建てた系統がわかるかも知れない。
私は、ネットで中国の古代地図を調べてみた。すると、燕と呉を除くと、残るのは、斉と越と楚くらいであることがわかった。越は、呉越同舟という故事があるとおり、呉と相容れない関係なので古朝鮮建国の候補からは省き、斉と楚を調べてみた。斉では、紀元前672年に陳から亡命して来た田氏が、他の有力貴族たちを次々に抗争で脱落させ、遂に紀元前386年には主君の呂氏の座を乗っ取るという政変が起きている。楚では、逆に紀元前334年に越を滅ぼし東シナ海に面する土地を手に入れるという事件は起きているが、国家が不安定になるような事件は、紀元前4世紀には起きていない。紀元前3世紀に入ると秦の侵攻を受けるようになるが幾度かの遷都により持ちこたえる。しかし、春申君亡き後、国政を執る者がいなくなり、遂に紀元前223年に滅亡するのである。とは言え、楚の滅亡は想定する倭建国より後となるので、対象外となる。そして、呉の系統も夫余を興したとすると、対象外となる。越の系統が直接日本に渡来したことも考えられるが、日本には越前・越後など『越』の字が付く明示的な地名があるので、暗示的に伝わる倭国の基礎を築いた民族とは考えにくい。したがって、倭国のルーツは斉であった可能性が高い。
『不安定発生年代』 『倭建国の可能性』
紀元前473年滅亡 呉× 中国東海の国
紀元前386年政変 斉○ 中国東海の国
紀元前334年滅亡 越× 中国東海の国
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紀元前300年頃~紀元前230年頃
海神が関わって倭を建国する
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紀元前223年滅亡 楚× 中国東海の国
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紀元前219年頃
秦の徐福が蓬莱山のある日本で海神と出会う
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紀元前195年亡命 燕× 中国東海の国
『倭建国可否の理由』
呉× 古朝鮮滅亡後夫余を建国
斉○ 古朝鮮から分かれて倭へ?
越× 呉と相容れない、明示的地名
楚× 倭建国以降
燕× 倭建国以降
しかし、斉の呂氏系統の最後の君主である康公は、酒色に耽り政治を顧みなかったようである。そのような人物が国を脱出して古朝鮮や倭を建国するだろうか?
私は、まずウィキペディアで斉の田氏のことが記された史記の田敬仲完世家の原文を確認してみた。すると、景公の子の晏孺子(あんじゅし)が太子として立った頃(紀元前490年)に政変があり、田氏が晏孺子(あんじゅし)とそれを支える国氏と高氏を攻めたことが記されていた。そして、国氏は莒(きょ)に亡命し、高氏は殺されたが、晏孺子(あんじゅし)[晏圉(あんぎょ)]は魯(ろ)に亡命したと記されている。なお、晏圉(あんぎょ)とは、斉の功名な政治家 晏嬰(あんえい)の子とされているが、ここでは、晏孺子(あんじゅし)と晏圉(あんぎょ)が混同されている。
『田敬仲完世家』
田乞之眾追國惠子,惠子奔莒,遂返殺高昭子。晏(孺子)[圉]奔魯。
次に呉太伯世家を調べてみた。以前に呉のことを調べていたときに、呉の話なのに、ここには斉の政治家の晏嬰(あんえい)の話が載っているのを不思議に思ったことがあったからである。すると、晏子の話が載っていて、晏子因や陳桓子が登場する。
『呉太伯世家』
故晏子因陳桓子以納政與邑 是以免於欒高之難
一般的には『斉の政治家の晏嬰(あんえい)が親の晏桓子を介して国政と領地を返納したので欒施(らんし)・高彊(こうきょう)の災難を免れた』とされているが、晏桓子が陳桓子になっている点、晏嬰を単に晏子としている点を踏まえ、因を単に助字と捉えずに固有名詞とも捉えて、晏子を晏孺子、陳桓子を陳系統の田斉と解釈すると、『故に晏孺子因は、田斉の系統に国政と領地を返納したので仲間の高の災難を免れた』と捉えることもできそうだ。田敬仲完世家の記述とは違って、高氏は殺されずに難を逃れたのかも知れない。そして、斉の政変が呉につながるということではないだろうか。
私は、古朝鮮の伝説を思い出した。政変で田氏と呂氏が入れ替わったので『晏子因』と『桓子』を入れ替えると、『桓子因』となる。『子』は単に尊称などの意味なので『桓子因』=『桓因』となる。
つまり、古朝鮮の伝説に登場する天帝桓因とは、呉の最後の王夫差に加え、景公死後の政変で斉から魯に亡命した晏孺子(あんじゅし):呂荼(りょと)をも意味しているのではないだろうか。それらを踏まえて、★印で示すように倭建国の可能性を次のように再検討した。
『不安定発生年代』 『倭建国の可能性』
紀元前490年亡命 斉○ 中国東海の国★
紀元前473年滅亡 呉× 中国東海の国
紀元前334年滅亡 越× 中国東海の国
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紀元前300年頃~紀元前230年頃
海神が関わって倭を建国する
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紀元前223年滅亡 楚× 中国東海の国
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紀元前219年頃
秦の徐福が蓬莱山のある日本で海神と出会う
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紀元前195年亡命 燕× 中国東海の国
『倭建国可否の理由』
斉○ 海神で古朝鮮建国に関り倭も建国★
呉× 古朝鮮滅亡後夫余を建国
越× 呉と相容れない、明示的地名
楚× 倭建国以降
燕× 倭建国以降
倭建国に関わった避難民の出身国は、確かに斉かもしれないが、その中心人物は、最後の呂氏系統の康公ではなく、紀元前490年の政変で魯に亡命した晏孺子(あんじゅし):呂荼(りょと)と高氏に違いないとの確信を得た。これにより、他の避難民より最も早い紀元前490年が、古朝鮮建国に携わったことと、他の避難民の渡海を支援した海神自身である可能性をも物語っているように思われる。そして、燕の勢力が拡大し、古朝鮮が燕に服属した頃、海神は古朝鮮を離れ、倭を建国したということではないだろうか。
もう一つ調べてみたいことがあった。柳花(ユファ)が言ったように、漢=史記に戻ると、史記には、暗号が隠されていることが見えてきた。著者の司馬遷は、漢に都合の悪いことを暗号に隠して示したのではないだろうか。
田敬仲完世家には、古朝鮮に加担した晏孺子(あんじゅし)を晏圉(あんぎょ)と混同してわざと曖昧にしているように見える。
呉太伯世家には、呉の事象に対して表向きには斉の晏嬰(あんえい)の話を裏で晏孺子(あんじゅし)の話として載せているように見える。
そして、以前に調べた淮南衡山列伝で、臣下が王を諌めるために話した徐福と海神の比喩話も、漢の高祖劉邦の末子である淮南王劉長とその子劉安らの事象として載せているが、実は古朝鮮や海神の話をしているのではないかと思えて来たのである。そこで、再度原文を調べてみると、王の后として晏孺子(あんじゅし):呂荼(りょと)と同じ『荼』が登場する。そういえば漢の高祖劉邦の后で悪名高い呂后も呂の付く人である。そして、劉邦も劉長と同じ末っ子なのである。これは、単なる偶然と思えない。漢王と淮南王を重ね合わせているのではないだろうか。また、呂后は秦で繁栄した呂不韋(りょふい)の一族である可能性があるという。呂不韋(りょふい)も斉から亡命した呂荼(りょと)と同じ系統で海神として商売に成功したということではないだろうか。晏孺子(あんじゅし):呂荼(りょと)と高氏が亡命した魯(ろ)からは淮河(わいが)にも近く、淮南王として君臨したことは十分想定できる。
『劉邦と劉安の比較』
【地位】 【名前】 【后】
漢高祖 劉邦 呂后
淮南王 劉安 荼
呂后:劉邦死後は悪名高い、呂不韋一族
劉安:海神の話、武帝のとき自害
荼:晏孺子(呂荼)で古朝鮮と倭を建国?
これを私なりに解釈してみると次のとおりである。
『漢のよき女房役だった海神は、淮南と倭を拠点に漢の各地や古朝鮮などと大々的に交易を行って多大な利益を得ていたが、武帝の頃に漢と対立し、古朝鮮は滅亡し、淮南も追われ、倭と朝鮮半島南岸で細々と交易するのみとなる。』
夢中になって調べていたら何時の間にか12時を回っていた。私は、室内照明を消して布団に入った。
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