第4話 古朝鮮の謎
韓国から戻った私は、さっそく古朝鮮のことをネットで調べてみることにした。それによると、古朝鮮とは、前漢の武帝による漢四郡設置以前の古代朝鮮(紀元前108年以前)の総称で、檀君(だんくん)朝鮮・箕子(きし)朝鮮・衛氏(えいし)朝鮮の三朝鮮を指すようである。ウィキペディアによると、この三朝鮮は以下のとおりである。
檀君朝鮮(紀元前2333年)は、存在したという物的証拠が何一つ発見されていないため史実的な根拠は極めて薄弱。
箕子朝鮮(~紀元前194年)は、伝説上の創作された国家とする説と、そのまま史実ではないものの実在した王朝が反映された伝承とする説、史実とする説など見解がわかれている。
衛氏朝鮮(~紀元前108年)は、その実在について確定しているが、衛氏朝鮮を「朝鮮」とよぶのは司馬遷の『史記』が最初であるが、これは国名が忘れられていたため便宜的に楽浪郡朝鮮県(現在の平壌)の名を用いたにすぎず、実際の国名ではないとする説もある。
以上のことから、檀君朝鮮については、紀元前2333年頃に実在した可能性は極めて低いが、その伝説には、何らかのヒントが隠されているかも知れない。なお、箕子朝鮮と衛氏朝鮮については、『史記』に記述があり、実在していた可能性がある。
私は、まず、檀君朝鮮について『三国遺事』の引用による記述を調べることにした。
『桓因(かんいん)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下と共に降り、そこに神市という国を興すと、人間の地を360年余り治めた。』
この記述の中の太伯山とは、北朝鮮中部にある妙香山のこととされているが、この『太伯』が、中国春秋時代の呉王朝の始祖である太伯に因んで命名されたとすれば、呉からの移民が興したと考えらえないだろうか?王朝の滅亡期に多くの難民が出るということは、よく聞く話である。私は、呉の最後の王を調べてみた。すると、紀元前473年に呉の第七代王である『夫差(ふさ)』が越に滅ぼされ、最後の王となったことがわかった。もし、夫差が生き延びて、部下を連れて朝鮮半島に渡り、古朝鮮を建国したとすれば、紀元前473年から360年経過した紀元前113年頃とは、渡海や古朝鮮建国までの準備に要した歳月を加味すると、古朝鮮が滅ぼされ漢四郡が置かれた紀元前108年にほぼ等しい頃となる。つまり、檀君朝鮮の伝説は、2333年という建国年の信憑性には欠けるが、伝説の内容としては古朝鮮のことを言い表しているのではないだろうか。
紀元前473年 呉滅亡 5年↑
(夫差らが黄海を渡り朝鮮半島へ?) |
↓
紀元前468年 古朝鮮建国? 建国
↑
紀元前108年 古朝鮮滅亡 360年|
(漢四郡設置) ↓
私は、越王勾践の前で、呉王夫差が自害する場面を、史記の『越王勾踐世家』で確認した。すると、越王が呉王を部下として処遇すると申し出たが、呉王はもう老齢なので仕えることができないと言って自殺したが、死に臨んで顔を蔽っていたとある。したがって、死に臨んだ呉王は、実は身代わりで、夫差ではなかったとも考えられる。
『越王勾踐世家』
吳王謝曰:「吾老矣,不能事君王!」遂自殺。乃蔽其面
そして、それ以前に呉王夫差の庶子である公孫雄が越王勾践に対して、許しを請う場面がある。この公孫雄=桓雄、夫差=桓因とすると、夫差と公孫雄は、滅亡の渕から逃れ、古朝鮮を興した可能性が十分あるように思われる。
柳花(ユファ)は、『漢に戻れ』と言った。また、『漢は始まりであり終わりである』とも言った。漢とは、呉をも指しているのだろうか?柳花(ユファ)は、漢の頃に生きた人だから、そう言ったのだろうか?いや、『古朝鮮を再建=古朝鮮の歴史を再構築』としたら、『漢に戻る=漢の歴史に立ち戻って再構築』ということではないだろうか?
私は、『史記』をもう一度調べてみた。史記は、中国の正史である二十四史の中で最も古く、正史が作成されるようになった最初の正史である。そして、その発行時期は、漢の時代に遡る。史記には、伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までの歴史が記されている。つまり、漢の時代に発刊され、中国の始まりから漢の時代までが記されているということは、漢に始まり漢に終わることを物語っているのではないだろうか。そして、漢の時代に記されたということは、漢を貶める記述は避けられるのである。
柳花(ユファ)は、史記に立ち戻れと言っているのだろうか?そして、漢に都合の悪いことは書かれていないということだろうか?
私は、箕子朝鮮のことが記された史記の『宋微子世家』を調べてみることにした。
『宋微子世家』
箕子對曰:「在昔鯀陻鴻水,汨陳其五行,帝乃震怒,不從鴻範九等,常倫所斁。鯀則殛死,禹乃嗣興。天乃錫禹鴻範九等,常倫所序。・・・
於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也
そこには、周の武王が箕子を訪ねて行った際、箕子が語った『鴻範九等:洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)に同じ』が記されていた。洪範九疇とは、儒家の経典である『書経』の一編にもなっており、政治道徳の九原則である。儒教の始祖である孔子は、宋(春秋)の初代宋公となった微子啓(びしけい)とその弟の微仲衍(びちゅうえん)の直系の子孫になるようだ。したがって、ここでは箕子=其子(その先生)と言う架空の人物を使って、後の紀元前500年頃に活躍した孔子の教えを説いているのではないだろうか。
そして、それに続いて、武王はそのような尊い先生を部下にするのは忍びないと憚ったのか、確かに箕子を朝鮮に封じたと記されている。しかし、檀君朝鮮の紀元前2333年が誤りなら、周の武王(~紀元前1043年)の頃にはまだ朝鮮という地は無かったわけで、例えば「燕の東夷に封じその地を朝鮮と名付けた」などの表現になるべきかと思われる。また、年代は別としても、先に述べた檀君朝鮮の伝説の内容が正しいとすれば、朝鮮に封じたのは周の武王ではなく漢の武帝で、箕子ではなく漢四郡の太守を漢四郡に封じたことを暗に表現しているのかも知れない。やはり、史記は、漢四郡を正当化するために、昔から朝鮮が中国の支配下にあったことを伝えようとしているように見える。
次に、衛氏朝鮮のことが記された史記の『朝鮮列伝』を調べてみることにした。
『朝鮮列伝』
朝鮮王滿者,故燕人也。自始全燕時嘗略屬真番、朝鮮,為置吏,筑鄣塞。秦滅燕,屬遼東外徼。漢興,為其遠難守,復修遼東故塞,至浿水為界,屬燕。燕王盧綰反,入匈奴,滿亡命,聚黨千餘人,魋結蠻夷服而東走出塞,渡浿水,居秦故空地上下鄣,稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之,都王險。・・・上許之,以故滿得兵威財物侵降其旁小邑,真番、臨屯皆來服屬,方數千里。傳子至孫右渠・・・左將軍使右渠子長降、相路人之子最告諭其民,誅成巳,以故遂定朝鮮,為四郡。
概略は以下のとおりである。
『朝鮮王の『満(まん)』は燕の国の人である。燕の最盛期には、真番・朝鮮を服属させていた。燕が秦に滅ぼされた後、漢が興ると燕王が漢に背いて匈奴に逃亡し、満は朝鮮に亡命した。そして、千余人の徒党や真番・朝鮮の蛮夷、燕・斉からの亡命者などを集めて王となり、王険(平壌)を都とした。そして、漢の外臣となり、朝鮮の最盛期は数千里四方に及んだ。満の孫の右渠(うきょ)の代になると、さらに拡大し、漢に横柄な対応を行ったので、右渠(うきょ)を責めて諭したが、聞き入れず、漢が攻め遂に朝鮮を平定し、漢四郡を置くことになった。』
つまり、古朝鮮は、途中から燕に属し、その後、燕からの亡命者『満』を王としたことが窺われる。そして、孫の『右渠(うきょ)』の代になると、領土拡大し横柄になったので、漢に攻められ遂に滅亡して漢四郡が置かれることになるのである。
一見筋は通っているが、これも漢四郡を置くための口実と取れなくもない。しかし、朝鮮は燕と隣接していたのだから、燕に朝貢していた可能性も十分考えられるし、燕から亡命したとしても不思議ではない。そして、360年続いたという檀君朝鮮の伝説を否定することにもならない。
柳花(ユファ)は、漢に古朝鮮を追われ、北や南に逃れ、東に海を渡ったと言った。北に逃れて夫余を建国し、南に逃れて馬韓を建国したとすれば、夫余を建国したのは、『夫』に象徴される呉の夫差の系統で、馬韓を建国したのは韓の系統かも知れない。そして、東に海を渡った先が日本(倭)とすれば、日本は古朝鮮から分かれたということになる。そして、倭の建国に海神(わだつみ)が関わっていたとすれば、紀元前3世紀頃には倭が存在していたことになる。これまでの情報を基に私が出した結論は以下のようなものである。
紀元前473年に呉王朝を追われた夫差らは、多くの部下と共に、黄海を渡り朝鮮半島に辿り着き、古朝鮮を建国する。古朝鮮は、箕子朝鮮のごとく、孔子の教える儒教などの倫理哲学をも踏まえた徳による政治で土着部族や、中国からの亡命者なども積極的に受け入れ、教化し、緩やかな連合国家となる。紀元前4世紀頃になると、燕が強大化し、古朝鮮は燕に服属することになる。一部の部族は、新天地を求め日本の九州に移住し、倭を建国する。燕滅亡後の紀元前2世紀に入ると燕からの亡命者の満が王となり燕の間接支配から逃れて古朝鮮をさらに拡大する。しかし、秦に替わって誕生した漢の支配が広がると、漢四郡が設置され、遂に古朝鮮は滅亡する。北に逃れた夫差の系統は夫余を建国し、南に逃れた韓の系統は馬韓を建国する。そして、倭の系統は、一部を朝鮮半島南岸に残し、東に海を渡り、九州に逃れた。
つまり、日本の王朝のルーツは、古朝鮮にあり、そのまたルーツは中国江南地方にあったというものである。しかし、燕に服属した古朝鮮から離れ、倭を建国した日本は、満の率いる古朝鮮と決別したのかも知れない。朝鮮から満州へと大陸侵攻した旧日本陸軍のシンボルは三足烏(さんそくう)ではなく、二本足の烏(からす)だったのである。三足烏の三本の足は、「天」「地」「人」を表すらしいが、日本の大陸侵攻は、「天」と「地」のみで、「人」が欠落していたのかも知れない。日本と韓国がなぜ相容れない関係になったのかが、少しずつ解ってきたような気がする。
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