第九章 月の子供



 それから半月が過ぎた十一月四日の土曜、私は四度よたび、大洗の地を訪れた。

 この日の夜はついに満月である。月齢は十四・六。千景の身体から脱け出した影が、いよいよ天に昇る日であった。


 いつものように大洗磯前神社の近くで乗合自動車を下車し、その日は俥を頼まず自分の足で歩いた。

 半農半漁という土地柄のためか、至る所に小さな社や祠が佇んでいる。道端にアザミが可憐な紫の花を咲かせていた。秋の空はどこまでも高く澄んで、微かな潮風がここまで匂った。

 

 千鶴の家に辿り着いたのは、遥かな水平線にもうじき日が沈まんとする頃であった。

 彼女は縁側に一人座って、ぼんやりと暮れゆく空を眺めていた。声を掛けると、まるで夢から覚めた童女のように微笑む。

 「まあ、来てくださったのですね」

 「はい、今宵はとうとう、叔父とのお別れですから」

 私は千鶴の装いに目を留めた。着物は大きな牡丹の花をあしらった、落ち着いた藍染めの京友禅。帯は鮮やかな梔色くちなしいろである。

 私の視線に気付いた千鶴が、はにかんだように少し俯いた。

 「父が元気だった頃に作って貰ったものです。たいていのものは処分してしまいましたが、どうしてもこれだけは手放せなくて」

 「とてもよくお似合いです」

 お世辞ではなく、私は本心からそう述べた。今宵を以て千景とは今生のお別れなのだ。一等良い装いで見送りたいと思うのは、ごく自然な女心であろうと、私は単純にそう考えていた。このときは、まだ───。


 戸を開け放った奥座敷に敷かれた布団には、相も変わらず千景が死人のように横たわっている。いや、彼はもはや死人と同然であった。そして今宵、自身の影の昇天を以て本当に死んでしまうのだ。

 そう思うと、私の胸の内に言葉にならない感情が湧き上がって来た。それは果たして悲しみであったろうか。私は千景が嫌いだったはずだ。この名状し難き感情を、私はただ徒に持て余していた。

 私は縁側の、千鶴から少し離れた場所に腰を下ろした。すぐ隣に座るのは、さすがに憚られるように思われた。

 「兄を連れて来れば良かったのですが、あいにく手を離せない用件を抱えていまして・・・・」



 千景の身体に影を戻す試みが失敗に終わったことを告げると、兄は「そうか、なら葬式の準備が必要だな」と、言葉少なに応じただけだった。

 私はそれを意外に感じた。千景は一族において日陰者ではあったが、兄は彼を弟のように思っていたのではなかったのか。

 私の沈黙を非難だと捉えたのか、兄は手にしていた書類から目を離すと、こちらに顔を向けた。

 「正直に言うと、今度の試みが上手く行くとは最初から思っていなかった。覚悟はしていたさ」

 それから安楽椅子に背中を預け、遠くを見るような眼差しで天井を仰いだ。

 「世の中には生まれ付き、死の側に近い人間というのがいるんだ。そもそもこの世界で生きることに向いていない、何かの間違いで生まれてしまったような人間が。俺が見る限り、千景はどうしようもなく死の側に近い性分だった。そもそも魂と肉体が一致していなかったのさ。だから月の光に魂が吸い寄せられたって、別に不思議じゃあるまいよ」

 兄の言葉はひどく冷たく感じられたが、しかしその反面、千景という人間の本質を衝いているようにも思われた。

 「十一月四日の土曜は満月ですが、一緒に大洗に行かれますか?」

 私の問いに、兄は少し寂しげな表情で静かに首を横に振った。

 「すまないがお前に任せるよ。その代わり、後の事は俺が引き受ける」

 私は無言で一礼すると、そのまま兄の書斎を退出したのだった。


 

 「仕方がありません。でもあなただけでも来てくださって本当に良かった」

 千鶴はそう言って私を慰めたが、しかしたった二人きりの寂しい見送りには違いない。

 いつしか夕日の最後の残照が西の稜線に沈み、東の空の彼方に月が掛かっていた。遮る雲とてない、澄んだ晩秋の夜空を照らす満月である。

 「旧暦の十五夜の晩、ここで千景さんと一緒にお月見をしました」

 満月を見上げながら、千鶴がそっと口を開いた。今までのように「奥村さん」と姓ではなく、はっきりと名を呼んで。

 「月を眺めていると、どうしてかいつも懐かしいような気持ちになります、と私が言うと、千景さんはこう尋ねたんです。“千鶴さん、地球がどうして誕生したかご存知ですか”って。それで私、小学校の先生なんだからそれぐらい知っています。四十六億年以上も前、星屑がたくさん寄り集まって出来たんですって答えました。すると彼は今度はこう言いました。“月と地球は元々、一つの天体だったという説があるのですよ。かつて地球の自転が不安定だった頃、地球表面の一部が千切れて宇宙空間に飛び出し、それが月になったというのです”」

 満月を仰ぎながら語る千鶴の眼差しは、どこか遠い夢を見るようであった。

 「“宇宙の星屑が集まって地球が誕生したとき、そこには人間の魂の素になるものも存在したはずだと思うのです。そして地球の一部が分離したとき、その魂の素になるものも離れ離れになってしまった。だから地球で生命が誕生し人間が生まれたように、月にもひょっとしたら、目には見えなくても独自に進化した魂が存在しているのかも知れない。だから僕たちが月を見上げて懐かしいと思うのは、ずっと遠い昔に離れ離れになってしまった、魂の同胞はらからがそこにいることを、無意識のうちに感じ取っているからではないでしょうか”」

 なんて、そんなおとぎ話みたいなことを真面目な顔で言うのですよ、と千鶴は懐かしそうに微笑んだのだった。

 「だから私、思うのです。千景さんはもしかしたら、本当は月に生まれるはずの魂だったのかも知れないって。ほら、かぐや姫のお話があるでしょう。あんな風にきっと何かの間違いでこの地上に生まれてしまって、だから故郷を懐かしんで、毎晩のように月夜の下を歩いていたのではないかしら。なんだか、そんな気がするのです」


 月は人の魂が向かう場所だとする神話や伝承は世界中にある。例えば羅馬ローマ帝国の哲学者プルタルコスによれば、かつて希臘ギリシャでは月の側面に理想郷エーリュシオンがあると考えられていたという。そこは常に天の方角を向いており、人間には決して見えず、死後に魂が憩う場所であるのだと。

 

 「昔から満月に影を引き寄せられたのは、きっとそのような人たちだったのかも知れませんわね。千景さんは今夜、生まれるはずだった故郷に還るのです。だからこれはちっとも悲しいことなんかじゃないのだと、そう思うのです」

 蒼い月明かりが射す庭先に、千鶴の話す声が密やかに響く。それは彼女の内側からの声、影の言葉であるように、私には思われた。

 

 それからおもむろに、千鶴は縁側から立ち上がった。

 「そろそろ参りましょうか。千景さんは、きっとあの海岸にいらっしゃるはずですから」


                (つづく)


 

 

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