第八章 魂呼ばいの夜
月のない夜は怖ろしい。
頭上にどれだけ星が瞬こうとも、足下を照らすには足りない。都会と違って電燈がほとんどない田舎の夜道は、ほんの数メートル先ですら何も見えない漆黒の闇だ。
月は地球の周りを約二十七・三日間かけて一周する。自ら発光しているのではなく、太陽の光を受けて輝いている。
太陽と月と地球が一直線に並ぶと、地球が月に対して完全な影となって、月がまったく見えなくなってしまう。公転周期のうち、一日だけ月が闇に消える。これが新月であり、また日本では昔から
水戸へ来る途中の停車場で事故があって大洗への到着が大幅に遅れ、千鶴の自宅前に辿り着いたときには、時刻はすでに夜の九時近くになっていた。
玄関先に吊された提灯がぼんやりと辺りを照らしている。
何故か開け放してある戸口の敷居を跨いで声を掛けると、奥座敷から千鶴が現れ、土間まで降りて出迎えてくれた。
「遅れて申し訳ありません」
「いいえ、儀式はまだこれからだそうですから。間に合ってようございました」
安堵の表情を浮かべる千鶴に、私は気になったことを尋ねた。
「ところで玄関の提灯は何ですか?」
「四津森先生の指示です。奥村さんの魂が此処を見つけやすいようにするのだとか。玄関の戸も開け放しておくよう言われました。さあ、中へどうぞ」
千鶴はそのまま私の傍らを通り抜けると、玄関の敷居の前で立ち止まり、胸の前で両手を組んで祈るような仕草をした。
「見上げるものは満ちゆき、感ずるものは消え失せん」
そして私の視線に気付くと、恥じらうように少しだけ微笑んだ。
「これは病気の子供を持った母親が、新月の晩に唱えた西洋の
奥座敷へ入ると、千景の枕元にはすでに小さな祭壇のようなものが拵えられていた。香が焚かれ、祭壇の両端には蝋燭の炎が赤々と燃えている。雨戸が閉め切られた真っ暗闇の室内で、光源はこの二本の蝋燭のみだ。
その祭壇の向こうに四津森志乃が静かに端座していた。蝋燭の灯りに照らされた顔は左側が痣で覆われており、またその召し物も竜胆色の着物であるために、顔の右半分のみが暗闇の中にぼんやりと浮かんでいるようだった。その傍らには助手の鳥口という男が、彼女の影の如く控えている。
四津森も鳥口も、先日会ったときと同じ格好であった。霊術の儀式なら特別な扮装をするものだと思い込んでいた私は、いささか拍子抜けの気分である。
遅れて申し訳ありません、と正座して四津森に挨拶し、それから部屋の隅で畏まっている塚本の隣に腰を下ろした。
「遅かったじゃないか」と、塚本が私を睨み付ける。彼と四津森らは一つ早い汽車で帝都を出ていたので、事故に巻き込まれずに済んだのだった。
「途中で汽車が人身事故に遭ったのさ」
「縁起でもないな。こんなときに」
「ただの偶然だ。よくある事だよ」
塚本は柄にもなく緊張したような面持ちであった。いつも人当たりの良い笑顔を絶やさないこの男にしては、少し意外である。
私の左隣に千鶴が正座して居住まいを正した。彼女もまた緊張しているようであった。
屋内がしんと静まり返って、鈴虫の鳴く声が耳にうるさいほどだ。
四津森がずいと一膝進み出て、畳に手を付き深々と一礼した。
「ではこれより、魂呼ばいの儀を執り行います。なお儀式の最中は絶対に物音や声を出さぬようお願い申し上げます」
甲高く鋭い音が、いきなり室内に響いた。
四津森の手には、いつの間にか柄の付いた鉦が握られており、それが振り鳴らされたのであった。もう片方の手には数珠が握られ、口元にかざした指は独特の印を結んでいる。
すうっと鼻から息を吸い、堅く結ばれた唇がそっと開いて、そこから低く囁くような声で呪文が滔々と流れ始めた。
その文言をここに書き記せないのが残念である。何を言っているのか私にはとうてい理解の及ばない異国の言語のようで、それはお経や祝詞などとは違う独特の抑揚と
蝋燭の炎が、四津森の影を壁に映して妖しく揺らめく。
香の匂いが一段と強くなり、部屋の四隅にわだかまる闇は一層その深さを増した。
いつの間にか虫の鳴く声が一切聴こえなくなった。耳に痛いほどの静寂が辺りを包み、その中でただ四津森の唱える呪文だけが陰々と地の底を這うようである。
ふいに屋外で轟と唸りを上げたのは風であろうか。それは徐々に勢いを増し、草木を揺さぶって
朗々と詠唱される呪文はいつしか渦を巻いて屋内に谺し、それは私たちの身体を取り巻いて、次第に意識に絡みつき幻惑されるような心持ちであった。現世と異界の境界線がいつしか溶け合い、心はこのまま幽玄の彼方に誘われるかとも思われる。
蝋燭の炎はまるで蛇の舌のようにちろちろと動いて、壁に映る影を絶えずめまぐるしく踊らせる。
四津森の手でまた一つ鉦が鳴らされ、呪文を唱える声に力が込められるのが分かった。
全身にじっとりと嫌な汗が滲んだ。そっと隣の千鶴の顔を窺うと、表情は色を失っているものの、ただ一心に四津森の行う霊術の様子を見つめている。
右隣で塚本の切迫したような息遣いが聞こえた。座敷に充満する見えない気の圧力のせいか、私も胸の辺りがひどく息苦しく感じられてならなかった。
ゾワゾワと背筋を虫の這うような気配がして、全身に一気に鳥肌が立つ。
───何かこの世ならぬモノが近付いている。
ゆっくりと、だが確実に。小刻みに震える身体を抑えつつ、その確信だけが刻一刻と高まってゆく。
そのときふいに、四津森が呪文を唱えるのをぴたりと止めた。
「・・・・・如何されましたか、太夫?」
そのまま蝋人形のように固まって動かない四津森に、助手の鳥口が訝しげに声を掛けた。
「───おかしい。何かが違う」
そう彼女が呟いた瞬間、まるでそれに応えるように建物全体が大きく揺れ始めた。屋根や柱が音を立てて震え出し、風は轟々と耳を聾する唸りを上げて激しく壁を打つ。
異様な事態に驚いて思わず皆が腰を浮かせると、雨戸と障子戸がいきなり勝手に開いて、蝋燭の炎が一瞬で掻き消された。
開け放たれた室内に、光が射し込む。
建物の震えも激しい風も、嘘のように止んだ。
そして縁側の向こうに広がる光景に、私たちは息を飲み、声を発することも出来ず、その場に釘付けとなった。
───それは満月であった。蒼く巨大な満月が、漆黒の闇を照らして天上高く輝いていたのである。
私は自分の目を疑った。
今宵は新月の晩であり、月はまったく見えないはずだ。それが何故、こんなにも巨大な満月が煌々と浮かんでいるのか。
放射状に差し込む透明な光が、蝋燭の消えた室内をひそやかに照らしている。
私たちはただ唖然として、突然現れたおよそこの世のものとも思われぬ巨大な満月に、心を奪われたように見入っていた。
するとその光の中に、何か蠢くものの気配があった。光が突然、何者かの手で撓められたように不自然に屈曲し、やがて小さな渦を巻いて人の形へと変化したのである。
銀の輝きで編んだような衣を纏い、黄金の線で描いたような繊細で透き通った姿を持つ人々の群れ。それが次々と光の中から現れて、満月を背に屋内でふわりと身を翻し、私たちを取り囲んだ。
───天女、という言葉がふいに私の脳裏を過った。
「全員、頭を下げて控えなさい!」
突然、四津森が悲鳴のような声で叫んで、その場に平伏した。私たちは呆気に取られ、それから慌てて彼女に従った。
そのときの心持ちを、私は何と書き記せば良いであろう。
それはあまりに幻想的で美しく、かつ恐るべき光景であった。私の心を捉えたのは確かに恐怖には違いなかったが、不吉で禍々しく忌まわしいそれとは明らかに異なるものだと断言できる。
その薄い銀の衣を纏った黄金の人々から発せられていたのは、
今思えば、あのときよく発狂しなかったものだと不思議である。あとで聞くと、塚本ですら私の背後でガタガタと震えていたのだという。
ふと縁側の向こうの庭先に、誰かの立つ気配があった。
平伏したままそっと頭を傾けておそるおそる覗き見ると、蒼く輝く満月を背に、闇を塗り固めて人型に鋳抜いたような影が静かに佇んでいる。
それは紛れもなく千景から脱け出した影であると、私は直観的に確信した。
影は何も言わず、こちらをじっと見つめている。満月を背にした蒼い暗がりの中で、その表情を読み取ることは不可能であったし、そもそも影に目や鼻や口があるのかすら分からなかったが、しかし彼がこちらを見つめていることだけははっきりと分かった。
私はハッと気付いて傍らに目を向けた。
そこには千鶴が平伏もせず、毅然として背筋を真っ直ぐに伸ばし、堂々と正面を向いて端座していたのである。
彼女はただ、千景であるはずの影法師を一心に見つめていた。
不可思議な満月も銀の衣を纏う黄金の人々の姿も、彼女には一切眼中にないのが、その張り詰めた表情と、瞬き一つ許さないひたむきな眼差しからも窺えた。影法師もまた、千鶴だけを静かに見つめているようであった。
時が停止したような光景のなかで、どれほどの間そうしていたか。
影法師がふと天を仰いだ。そしてこちらに背を向け、ゆっくりと歩き出す。庭先を通り過ぎ、そのまま蒼く仄暗い闇の奥へと、そっと溶け入るように消えて行ったのだった。
気付くと、あれほどはっきりと夜空にあったはずの満月がどこにもない。薄い銀の衣を纏った黄金の人々も幻のように消えていた。
辺りは再び、漆黒の闇に包まれている。
まるで狐に摘ままれたようだった。私は立ち上がろうとして、足にまったく力が入らず、思わずその場にへたり込んでしまった。傍らでは腰を抜かした塚本が、「何てものを見ちまったんだ・・・・」と、呆然とした面持ちで呟いている。
鳥口はさすがに霊術家の助手として不測の事態にも馴れているのか、先に立ち上がって吊り
とりあえず場が収まると、四津森が千鶴の正面に正座して畳に手を付き、深々と頭を下げた。
「私が思い違いをしておりました。これは明らかに神霊の成すところに依るもの。その意図を窺い知ることすら、私如きに出来るものではございません」
力になれず申し訳ない、と謝罪する四津森に、千鶴は静かに
「いいえ、お顔を上げてください。先生はよくやってくださいました」
ありがとうございました、と彼女もまた畳に手を付いて深々と一礼する。
顔を上げ、もう良いのです、と呟く千鶴の表情は、微笑んでいるようにも、また泣いているようでもあった。
(つづく)
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