第十章 影の昇天
細く入り組んだ迷路のような路地を辿り、千景が月に魅入られ影を失った海岸へと、私と千鶴はやがて足を踏み入れた。
湿り気を帯びた砂浜は、なだらかな起伏を描いてどこまでも続いている。
私たちは東の方角へ向かって歩き、やがて立ち止まった。干からびた海藻や流木があちこちに散らばり、砂に埋もれたサイダーの空き瓶が月光を跳ね返して、まるで宝石のように輝いている。
海に突き出した大きな岩礁の上には石造りの鳥居が建ち、現世と異界の境界がここにあることを指し示すようであった。
引き潮の海は穏やかに凪いでいる。振り返ると黒松の林の向こうに、宿場の灯りが今宵も賑やかな様子だ。
見上げれば、白銀に輝く見事な満月であった。晴れた夜空には叢雲とてなく、星々の瞬きすら煌々たる月明かりに霞んで、恥入り姿を隠してしまったかに思われた。
あまねく地上に降り注ぐ銀の光が、まるで燎原の火のように世界を仄かに輝かせている。
「叔父は本当にここに来るのでしょうか?」
「──来ます。必ず」
私の問いに答える千鶴の声は、不思議と静かな確信に満ちていた。
十一月にしては少し温暖な陽気であったが、それでも夜はやはり冷える。
私は外套を脱ぐと、それを千鶴の両肩を包み込むように掛けた。しかし千鶴はそれに気付いた様子もなく、ただ一心に祈るような眼差しで、波打ち際の向こうの暗闇をじっと見つめ続けているのであった。
繰り返す単調な波音が、徐々に時間の感覚を奪ってゆく。透き通った月明かりは氷の刃の如く怜悧で、黒々とした影の輪郭を私の足元に刻み付けている。
その影をじっと見つめていると、そこに何やら得体の知れぬ相貌が蠢くようであった。
これが
私は再び満月を見上げ、そのあまりに幻想的な輝きに何だかひどく怖ろしくなった。
この透き通った薄刃の如き光の奔流から、私の盾となり守ってくれるものは何もないのだ。身分や階級などの社会的属性は全て意味を成さず、実存を露わにした無力な個人として、私はこの月光の下に投げ出されている。
「太陽と死は見つめることが出来ない」とはラ・ロシュフーコーの言葉だが、いまは反対に「死」が私を見つめているのであった。
あらゆる
「───来ました」
千鶴の小さな呟きにハッと我に返り、私は彼女が見つめるその視線の先を辿った。
月に照らされた蒼い闇の向こう、何か動くものの気配がある。
それは暗闇の奥から、滲んで溶け出すようにひっそりと現れた。
闇を塗り固めて人型に鋳抜いたような、紛れもなく千景の身体から脱け出した影であった。
影法師は白い砂浜の上を、一歩ずつこちらに近付いて来る。全身が一気に総毛立ち、私は慄きと共にそれが来るのを待ち構えた。
影法師はやがて、私たちから十数メートルほど離れた場所で立ち止まった。
月明かりを背に、こちらをじっと見据えているのが分かる。それは何かを訴え掛けているようでもあり、また別れを告げているようにも思われた。
「・・・・雅広さん」
千鶴が唐突に私の名を呼んだ。
「ごめんなさいね。面倒をお掛けして」
何が、と問おうとしたそのときである。
「───千景さん!」
いきなり大声で叫んだかと思うと、千鶴が砂地を蹴り付け、千景に向かって駆け出した。
私は咄嗟に手を伸ばしたが、宙に残された外套を掴み損ねただけに終わった。最初に呆気に取られ、それから千鶴の意図に気付き、背筋がさっと冷えるのを感じた。
「駄目だ。行ってはいけない!」
あとを追おうと駆け出して地面に落ちた自分の外套に足を取られ、私は無様にも転倒した。視界の端に、不自由な着物の裾を絡げて懸命に走る千鶴の背中が映った。
あのとき医師は何と言ったか。千景の影法師に出会っても決して触れてはならないと言ったのだ。万が一にも触れてしまえば、同じように影が身体から脱け出して死を迎えるのだと。
あの着物は千景を見送るためのものではない。共に旅立つための死装束なのだ。
私は慌てて立ち上がった。しかしすべてはもう手遅れであった。千鶴はすでに千景のすぐ目前まで迫っている。
千鶴が千景に手を伸ばす。千景もまた手を差し出した。そして互いに伸ばした手の指先が触れ合ったと思った刹那、不思議なことが起きた。
まるで蛹の背中を内側から切り裂いて蝶が羽を広げるように、千鶴の身体からすうっと音もなく影が脱け出したのである。
二つの影が砂浜の上で抱き合った。そして影を失った千鶴の身体は、糸の切れた人形のようにその場にうつ伏せに倒れたのであった。
抱き合う二つの影の頭上に、妖しい銀の輝きを放つ満月が、女王の如き威厳を以て鎮座している。
そのとき目に見えない巨人の手に抱かれたように、二つの影がふわりと浮き上がった。
そしてゆっくりと地上を離れ、天上を目指して昇ってゆく。
私はわっと叫んで駆け出した。今さら間に合うはずもなく、二人を地上に引き戻す手立てもない。それでも私は全力で駆けた。
そのときの私の心境を言葉にするのは難しい。あえて言うなら、それはたった一人で置き去りにされて泣き出しそうな、子供のそれに近かったのかも知れない。
私は絶望的な叫びを上げて二人を追ったが、しかし二人の影はすでに私の手の届かない遥か頭上にあった。
天上から流れ落ちる光の清流を遡るように、二つの影法師は手を取り合い抱き合って、ゆっくりと回転しながら静かに昇ってゆく。
二つの影は一つに重なり合い、次第に遠ざかってやがて小さな黒い点となり、そして白銀に輝く満月の海へと、まるで溶け入るように消えて行ったのであった。
───何事もなかったように、波は静かに打ち寄せる。
魂を失い、もはや亡骸となった千鶴の傍らに、私は崩れるように膝を着いた。
そして唖然としたまま声もなく、千景と千鶴が抱き合って辿った月光の軌跡を、ただいつまでも見つめていたのであった。
(つづく)
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