第六章 影の病
翌朝、私は水戸の
兄は書斎にいた。そして私の報告を聞き終えると、なんとも形容しがたい表情でしばらく黙り込んだ。さすがの兄も月光症なる奇病には面食らったようである。
「それで・・・・身体から脱け出した影が元に戻れば、千景は目を覚ます可能性があるんだな?」
しかしどうやって・・・・と考え込む兄に、私は昨夜からずっと思案していたことを口にした。
「近代医学で無理だというのなら、霊術はどうでしょう」
「霊術?」
兄が怪訝な表情を浮かべる。
「元々は医学的に認められていない、迷信や伝承の類のようなものです。それなら霊術やら呪術やらの世界に、何か対処法があるやも知れません」
「なるほど、蛇の道は蛇って訳か。しかし霊術家に知り合いなんかいないぞ」
「それについては少し心当たりがあります。僕に任せてもらえませんか」
そうして私は兄の了承を取り付け、ある人物に相談することにしたのであった。
翌日の月曜、放課後を迎えると、私は校門を出て向かいの通りにある
そういう場所で学生たちのやることなど、今も昔もたいして変わらない。教師の悪口や異性のこと、または先輩と後輩の同性愛の噂で盛り上がり、エロ・グロ写真やグラビアの切り抜きを見せ合って騒いでいた。
店の玄関ドアを開けると、煙草の煙とざわめきが一気に押し寄せて来た。私は気管支があまり丈夫ではないので、ここに来ることは滅多にない。
黒い詰め襟姿の学生たちがたむろする店内を見渡すと、一番奥の二人掛けの席で目当ての顔が手を振っている。私は頷いて近付くと、彼の正面に腰を下ろした。
彼の名前は
休み時間に「少し相談があるのだが」と持ち掛けると、彼に「では放課後、
学習院は主に華族の子弟の教育機関として設立されたが、少ないながら平民の子も受け入れている。塚本は商社勤めの
大正期は若者の間で文学や哲学、芸術などの熱が高まった時代だと先述したが、それらと同じく流行したものに宗教があった。
日露戦争後、あらゆる宗教の根底に「永遠の生命」への祈りを見るトルストイの思想が広まり、若い世代を中心に宗教熱が盛んになったのである。大本教や天理教を始め、大小様々な新興宗教が各地に雨後の筍の如く誕生し、多数の信者を獲得していた。
この塚本良雄という男は、そうした宗教や霊術といった怪しげな世界に異様なほど詳しく、熱を入れ過ぎて病膏肓に至るという有り様であった。
書物を漁るだけでは飽きたらず、あちこちの教団に出入りし、霊術家と称する人物に直接会いに行って話を聞き、独自に研究を行うなどしている変人である。つい先日も学内で有志を募って降霊会を開き、それが学校に発覚して問題になったばかりだ。
「貴様が僕に相談事とは珍しいじゃないか。で、どんな話だい?」
人当たりが良く闊達な様子は、およそ降霊会などの怪しげな印象からは程遠い。二重瞼の大きな目玉をグリグリ動かして、彼は私にそう尋ねた。
私は女給に珈琲を頼むと、内緒話をするように少し声を低めた。店内にはジャズのレコードが流れ、学生たちのざわめきに満ちていたが、あまり他人に聞かれたい話ではない。
「・・・・ほう、月光症ねぇ。それはまた美しい名前の奇病もあったものだ」
案の条、塚本は私の話に興味を示した。
「だが近代医学が頼りにならないなら、霊術を頼ろうという貴様の考えは正しいよ。かの空海も“四大の病気は医薬に依るべく、鬼神のわずらいは
「こういう問題に有効な対処法を会得した人物を知らないか。貴様はその分野に詳しいのだろう?」
店内に充満する煙草の煙に咳き込みながら、私は塚本の返答に期待した。しかし塚本が寄越したのは、それとは別の話だった。
「それは影の病の一種だな。いわゆる“離魂病”というやつだよ」
「りこんびょう・・・・?」
「魂が離れる病、と書くのさ。例えば江戸時代にこんな話がある」
テーブルの上に指で漢字をなぞりつつ、塚本は話を始めた。
「ある男が帰宅して居間の戸を開くと、机の前に誰かが座っている。誰だろうと見ると、姿勢から着ているものまで全て自分とそっくりだ。驚いていると、そのもう一人の自分は障子の隙間から外へ出て行ってしまった。慌てて後を追ったが誰もいない。母親にその話をすると、彼女は押し黙った。それから間もなく男は病気になり、その年のうちに死んでしまった。実は男の祖父や父親までもが、同じくもう一人の自分の姿を見てから死んでいるんだ。──
塚本はとにかく博識な男で、どうかするとその知識を開陳せずにはおかない癖がある。下手に遮って機嫌を損ねられても困るので、私は彼の講釈を黙って拝聴することにした。
「これは二重身とも呼ばれる現象だ。影とは魂の暗喩であり、それが身体から脱け出すことは死を意味する。この“もう一人の自分”には、かのゲーテも出会ったことがあるそうだよ。もっとも彼は長生きしたがね」
と、塚本は西洋人のように肩を竦めて笑った。
「人間にとって影がいかに重要な存在であるか、古今東西のあらゆる伝承や説話の中に見ることができる。昔の人々は影を霊魂と同じように考えていたんだ。例えば
塚本はそこで珈琲を啜って一息入れた。
「それから
そう語る塚本は実に愉快そうである。
「ことほど左様に、影という存在は洋の東西を問わず、人間の生命や魂と深い繋がりを持つものだと信じられて来た。この共通性は、果たして単なる偶然や迷信の一言のみで片付けられるものだろうか?」
塚本に正面から見据えられ、私は答えに窮した。非常に興味深い話ではあったが、しかし私は彼が話に夢中になる余り、肝心なことを忘れているのではないかと危惧した。
「とりあえず貴様の話は分かった。相変わらずの博識ぶりに驚かされるよ。・・・・ところで、霊術家の心当たりの件なんだが」
さり気なく話を本題に戻そうとすると、彼は分かっているとばかり片手で私を制した。
「むろん心当たりはある。
「信頼できるのか?」
「僕が知る限り能力は本物だよ。心配しなくて良い」
「どういう人物なんだ?」
「高知の出身でね。先祖代々、陰陽道や修験道を修めた霊術家の家系で、地元では有名な存在らしい。彼女はそこの次女として生まれたが、現在は帝都に出て、霊障などに関するよろず相談事をやっているよ」
自信あり気な表情を浮かべる塚本に、私はある気懸かりなことを尋ねた。
「ところでその四津森という女霊術家、警察と揉め事なんか起こしていないだろうね?」
この当時、「弱者救済」や「世直し」のスローガンを掲げて大衆の心を掴み、さらに政治運動や知識人などを巻き込んで信者の拡大を画策する教団が後を絶たず、警察はそれらの動向に神経を尖らせていた。大正十年、かの出口王仁三郎率いる大本教に対する当局の弾圧はまだ記憶に新しい。
高倉の一族としての体面や兄への迷惑を考えると、官憲に睨まれるのはどうしても避けたかった。
「それなら心配ない。ここだけの話だが、彼女の顧客には政治家や財閥の関係者もいるからね」
社会的地位の高い人物ほど意外に信心深く、表向きの建前とは裏腹に、霊術や占いなどに傾倒するのは実はそう珍しいことではないのだと、塚本は話した。すると私の兄のように、霊術など顧みない性格の者は少数派であるのかも知れない。
店に充満する煙草の煙がいい加減苦しくなって来たので、そろそろ話を切り上げようとしたが、塚本は私をまだ解放する気はないようだった。
「ところでこんな話を知っているかい。西洋の学者が、ある未開の部族の長老にこう質問をした。君たちは影を失うことを非常に怖れるが、それなら夜は怖ろしくないのか、とね。何故なら夜はあらゆる影が一つに溶けてなくなってしまうではないか。するとその長老は答えた。“夜には全ての影が大いなる神のもとに憩い、生命の力を取り戻す。だから何も怖くないのだ”」
また講釈が始まったかと、私はいささかうんざりした心持ちで塚本を見返した。
するといつの間に日が翳ったのか、斜めに差した建物の影が、私の正面に座る塚本の顔を覆い隠した。
ふいに背筋が、ぞくりとした。
「荘子の中に『
先ほどまで機嫌良く、にこやかに喋っていた塚本ではなかった。その口振りはひどく怜悧で、まるで外見だけはそのままに、中身だけが得体の知れない何かと入れ替わってしまったかのようであった。
「かの哲人プラトンはこう言っている。我々が普段見ているこの現象世界は、真の実在世界の影に過ぎない。つまり僕たちが現実と呼ぶこの世界は仮のもので、影が暗示する向こう側こそが真実の世界だと言うんだ。さて、貴様はこの話をどう思う?」
十月のひそやかな影のなかで静かに語るこの男は、果たして本当に私の知る塚本良雄だろうか。それともその薄皮を内側から切り裂いて、ひょっこり現れた塚本の影だろうか。
ふと、そんな妄想じみた疑念が頭を過り、私はとうとう我慢出来なくなって伝票を掴み取った。
「・・・・そんなこと、僕が知るものか」
ともかく霊術家の件はよろしく頼むと言い捨てるように席を立ち、そのままレジ打ちをする女給の元へと向かった。
ふいに高らかな哄笑が辺りに響き、店中の学生たちがその発生源である塚本を胡乱な表情で振り返った。
(つづく)
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