第三章 月光症(其の一)
女は名前を、
千景と千鶴。名前が少し似ているのは偶然の悪戯であろうか。すぐ近所に住んでいるということもあり、千景とは親しく話をする間柄だという。
「奥村さんは昨夜、この近くの海岸で倒れているところを地元の漁師たちに発見され、それからすぐ戸板に乗せられて、村の診療所に運ばれたんです」
狭い田舎では噂はすぐに広まる。翌朝、千景が運ばれたと耳にした千鶴は、すぐさま診療所に駆け付けたのだと話した。
「倒れた原因はいったい何でしょうか。病気、あるいは事故?」
「それは私もよく分かりません。特に怪我などはないと聞いているのですが・・・」
千鶴に案内され、入り組んだ路地をしばらく歩いてようやく辿り着いたのは、一軒の古びた診療所であった。すっかり日が暮れて辺りは真っ暗になっていたが、幸い診療所の窓からはまだ明かりが洩れている。
玄関扉を開いて訪ないを告げると、出て来たのは妙に痩せて顔色の悪い看護婦であった。
昨夜、ここへ運ばれた患者の親族であることを話し、病室へと案内して貰う。特に何も言わなかったが、千鶴はごく当然のように私の後を付いて来た。
薄暗い廊下を照らす白熱電球の周りを、小さな羽虫が飛び回っている。
看護婦が廊下の突き当たりで立ち止まり、ノックして引き戸の扉を開いた。消毒臭い殺風景な病室のベッドに、誰かが横たわっているのが見える。
病室に入り、その顔を覗き込む。間違いない。失踪した三歳上の叔父、千景である。
千景は木製の簡素なベッドに仰向けに寝かせられ、首から下は薄手の毛布で覆われていた。半年ぶりに見た顔はいささか面やつれし、色白の肌はさらに白さを増して、なんだか変に作り物めいて見える。
目蓋を閉じ、寝息を立てることもなく、その姿はまるで死人のように感じられて、私は千景に声を掛けることさえ躊躇われた。
そのとき、私はある妙な違和感を覚えた。
静かに眠る千景の顔には、何かが決定的に欠けている。しかしそれが何なのか、私にははっきりと認識することが出来ず、しばらくは穴が空くほど千景の顔をジロジロと眺めた。
「その患者の親戚というのはキミかね?」
出し抜けに声を掛けられ顔を上げると、ベッドの向こうに白衣を着た五十がらみの恰幅の良い男が立っていた。
男は自分を、この診療所の医師であると名乗った。薄くなった頭髪の半分以上を白いものが占め、あまり手入れされていない口髭を鼻の下に蓄えている。
私は医師に、自分の学生証を見せ、それから素姓を明かした。
「ほう、男爵さまのお家柄とは驚いた」
医師が声を上げ、妙に顔色の悪い看護婦と傍らに立つ千鶴も目を丸くする。
「この患者は間違いなく、叔父の奥村千景です。詳しいことは話せませんが、実は半年ほど前から行方不明になっていました。彼に一体何があったのか、教えて頂けませんか」
医師はすっかり信用したようで、私に対する態度や口調が急に丁寧になった。
「あなたの叔父上を運んで来た漁師たちと一緒に、警官も来たので確認して貰いましたが、身体のどこにも特に外傷はありません。事件、事故に巻き込まれた可能性はおそらくないでしょう。脈や呼吸はいささか弱いものの正常です。しかし当院に運び込まれてから、一度も目を覚ます様子はない。皮膚への痛み刺激にもまったく反応を示さないことから、分類的には深昏睡に当たると思われます」
医師の説明に私は首を捻った。
「すると叔父は何かの病気なのでしょうか。まさかこのまま意識を取り戻さない、などということはありますまいね」
もし何か重大な病気であれば、こんな田舎の診療所では治療もままならないであろう。帝都の立派な大病院に移送する必要がある。
私の質問に対し、医師はひどく当惑した様子を見せた。
「・・・・・実を言うと、症例はもうはっきりしているのです。しかし大変申し上げ難いことですが、近代医学ではそれを病気とは認めておりません」
私は彼が何を言っているのか分からなかった。症例ははっきりしているが近代医学では病気と認めていない、とはどういう意味か。
無言で見返す私に、医師はこう言葉を継いだ。
「ところで叔父上の顔を見て、何かおかしいと感じませんか?」
それは先刻、私が千景の顔を見て、何か言いようのない違和感を覚えたことを指摘しているように思われた。そして医師に促され改めて千景の顔に目を向けたが、しかしやはりその違和感の正体を掴めずにいた。
医師は私の様子を見ると、「では、これなら如何ですか」と言って、千景の首から下を覆う毛布に手を掛け、それをゆっくり捲り上げた。
そこには白い入院着に着替えさせられた千景が横たわるだけであったが、しばらくしげしげと見つめるうちに、あることに気が付いて私は「あっ」と声を上げた。
「影が、───影がない!」
それは実に不思議な光景であった。
白熱電球の明かりに照らされ、ベッドの白いシーツの上には千景の身体の輪郭に沿って影が落ちているのだが、頭、手足など入院着に覆われていない剥き出しの部分はまったく影が映っていなかった。
それどころか目鼻立ちや耳の窪みにも、手足の指と指の間にも、本来なら表れうるべき影が存在しないのだ。おそらくシーツに映っているのは入院着の影のみで、仮に入院着を脱がせて素っ裸にしても、千景の影はどこにも映らないであろうことが、それを見ただけで容易に推察された。
あまりにも非現実的な光景に私は思考力を奪われ、唖然としたまま一言も発することさえ出来ず、まるで死人のように横たわる影を失った若き叔父の姿を、しばらくはただ見つめていたのであった。
「───
「・・・・・月光症?」
医師の問いに鸚鵡返しに答える私の声は、僅かに震えていた。
「西洋や支那の文献に極めて少数ながら、その例が記載されています。しかしあまりにも特殊に過ぎる症例であるため、近代医学の分野では病と認められず、あくまで伝説や迷信の類としか考えられておりません。私の医学生時代の恩師が
医師はそこで言葉を区切ると、こんな非科学的な話をするのは近代医学の徒として極めて不本意であるとでも言いたげに、わずかに渋面をしてみせた。
「月光症というのは・・・・・つまり月の光による何らかの作用によって、人間の身体から影が分離する現象を言います。古い文献によると、それは必ず満月の晩にのみ発症するそうです。そして昨日、十月六日の晩は月齢十四・九の満月でした」
私は息を飲み、再びベッドに横たわる千景に目を向けた。
「この月光症を発症する者としない者の間に、どのような条件の違いが存在するのか分かりません。何らかの先天的な体質に依るものか、あるいは未知の病原菌などが関係しているのか・・・・・。そして信じがたいことですが、文献に依ると人間の身体から分離した影は、満月の光に導かれて上空へと昇って行くのだそうです。一方、影を失った肉体はというと、これも具体的な原因は分かりませんが、そのまま死を迎えると伝えられております。」
おとなしく医師の説明を聞いていた私は、そこである疑問にぶつかった。
「ちょっと待ってください。いま影を失った肉体は死を迎えると仰いましたが、しかし叔父はこうして生きていますよ」
医師は黙って頷くと腕を組みしばらく無言で考えていたが、やがておもむろに口を開いた。
「これはあくまで推測なので、そのつもりで聞いて頂きたい。・・・・・昨日、十月六日の晩は満月だったと先ほどお話しましたが、しかし朝から雲が多く曇りがちな天気でありました。あなたの叔父上は海岸にて月光症を発症し、影が身体を離れたものの、そのとき偶然にも流れて来た雲が満月を隠してしまったため、月の導きを失った影は上空に昇ることが出来ず、現在も地上のどこかに留まっているのではないか。そしてそのために彼の肉体は未だ死に至らず、昏睡状態に陥っているのではないか。それが私の見解です」
(つづく)
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