紫陽花

西人

第1話紫陽花

梅雨の季節。

うねる髪。ジメジメとした空気。靴の中の居心地の悪さ。

外に出れば片手は傘でふさがり、満員電車の中に入れば別の人の傘で濡れるスーツ。

朝さしてきたはずの傘が帰る頃には誰かに取られていたり、強風で壊されたり。

傘をさしていても、勢いよく水溜りに飛び込んだ車でずぶ濡れになったり。

そうゆう時は、教習所でスピードを落として水を跳ねさせないように習っただろうなどと心の中で注意をしたくなる。

最近は減ってはきたが、傘をさしながら自転車を乗るのも注意したくなる。

でも、まぁ、実際に注意したらいい子ぶりやがってとか正義感がどうたらこうのだとか突っかかってくる人もいるからやらないのだけれど、そうすると自分の中に何かが行き場をなくしてどんどん増えていく。

頭痛。時には吐き気。それらを全部低気圧のせいにし、痛み止めで押さえ込んで教室へと向かう毎日。

自分の後ろからパタパタとチャイムの音を合図に走り出した音が近づいてくる。


「新米、おはよ!」

「はい、おはよう」


廊下を走るんじゃない!と実際に注意していたのは昨年の4月、つまりは新米教師として就職した最初の一ヶ月間だけ。

あと、教師をあだ名で呼ぶんじゃないとも言っていた気がする。

あまりにしつこく注意していたらしく、ほら、今色々あるから、ね。と先輩教師に遠回しに言われる。

その場ではなんだこいつ。と苛立ったけれど新人は先輩の言うことは聞いとかなければならないみたいなところもあるから嫌味かってぐらいの笑顔をつくってはい!気をつけますと返事をした。

おかげで素直で明るいいい人だって喜ばれる。

その日の夜は大量に買い込んだチューハイをがぶ飲みして、酔いつぶれて、次の日の休日は朝から夜までトイレの中にいた気がする。あまり、覚えていないけれど。

大学時代からの彼女とのデートなんてできるわけもなく、3日間連絡をくれなかった。

まぁ向こうも新社会人だし、忙しいんだろうとこっちも連絡しないでいたら4日目にクレームの電話。

女ってよくわからない。仕事と私、どっちが大事なのって、そんなセリフを聞くのはテレビとか、小説とか現実じゃないところだけだと思っていた。


「何やってんだ。あいつ」


その声に、現実へ意識を戻す。

自分が副担任としてついた教室の前。何人かの男子生徒が廊下の窓から外を見ている。

目は興味津々。なのだけれど、見下しているような感じ。

事故が目の前であって、動画とか写真を撮る人はきっとあんな感じなんだろうと思ってるところから、ポケットに手が伸びている。


「何してんだ」

「あっ、やっべ」


ポケットの伸ばした手を不自然に体の横に伸ばす。ポケットの形が不自然に四角い。

まぁギリセーフということで、と自分を納得させる。


「あいつ、こんな雨降ってるのにあそこに突っ立ってるんだけど」


生徒に言われた方向へ目をやると、半球を描いたような大きな紫陽花の群が目に入る。

その前にずぶ濡れになった女子生徒がいた。

足元にはビニール傘が転がっている。壊れた様子はなく、ただ手から離れて転がっていったようだ。

気づいてしまったからには、さすがに放っておくこともできない。

生徒に何かあっては、生徒自身に原因があっても教師が怒られるもんなのだ。今の学校は。


「ちょっと話聞いてくるから、教室の中で待っているようにみんなに伝えて。5分待っても戻ってこなかったら1限目の準備しとくように」


少し笑顔を見せ元気よくうなづいて教室へと入った。

朝礼がなくなるだけでそんなに嬉しがることなのかと思いつつ、外へと向かう。


「こんなところでどうした?」


傘を女子生徒の頭の上にかざすと、その影でようやくこちらの存在に気づいたのか振り向く。

その顔に、見覚えがあった。


「叶井さん?」

「あっ…はい。おはようございます」


副担任を任されたクラスの女の子だ。

少し、大人しいというよりクールな子でいつももう一人の女子生徒と一緒に話しているイメージ。

成績は申し分ないし、問題は起こさない。礼儀も失礼なことはない。

大人からみたら、手のかからないいい子。そんな感じ。

そんな子が、こないだの進路希望用紙を白紙のまま提出し呼び出しをされていた。

それがとても珍しく感じた。


「どうしたの?何かあった?」


保健室から持ち出したタオルを渡すと頭からかぶった。

タオルは一気に水分を吸い取り始め、柔らかさをなくしていく。


「え?なんでですか?」

「なんでって。こんな雨の中立ってたら誰だってそう思うよ」


正直、あまり話したことがない。

いい子すぎる印象だから、普段は問題児とか調子に乗っているような生徒との会話が多くなり、手がかからない子ほど気が回らなくなる。

というより、全体に気が回るほどの器量も余裕も今の自分にはない。

だから、いい子には無意識に甘えてしまうのだ。それでいざこうゆう想定外のことがあった時どう対応していいかがわからない。経験を積めば、対応できるようになるのだろうか。


「あっ、もしかしてこないだの進路のことか?」

「違いますよ。それは…えっと、家族会議をしてなんとなく決まってきました」

「そ、そうか。じゃぁ、友達と喧嘩でもしたのか?それで教室に入りづらいのか?」

「夢野のことですか?喧嘩なんてしてないですよ」


質問にしっかりと答えながら体をさすっているのに気がついて、とりあえず保健室へと彼女の傘を拾い上げてから誘導する。

少しでも早く室内へ案内しようと、普段生徒には使わせない裏道へと進んだ。

そこには先代の校長の趣味なのか、観光スポットにでもなりそうなほどの紫陽花が道の両脇に植えられている。

少しずつ形の違う紫陽花が美しさを競うかのように咲いている。詳しいことはわからない。正直、花には興味がない。

育ちが良すぎて道が狭くなってきているのが悩みだがこの道の存在を知ってから用事もないのによく通るようになっていた。

今日もまた雨に打たれて一段と気持ちよさそうに咲いている。


「こんな道があったんですね」

「普段は生徒は通れないようにしてるからな」

「なんでですか?」

「なんで…だろうな」

「あっ、そうか!こんな立派な紫陽花に囲まれてしゃがみこんじゃえば何してるかわから」

「絶対、他の生徒には教えるなよ?」

「はぁい」


やっぱり、高校生ともなればませてる子がほとんどなのかとため息がでる。

自分の時もそうゆうことには興味があったが、まだ高校生。そんなことへの興味は早すぎるときっと体力も何もかもが有り余っているからだと勉強や部活に打ち込んでいた…ような気がする。

いや、時々はまぁ、そりゃぁ、年頃だしな。うん。と思い返せば恥ずかしいこともある。

そしてなぜ今こんなことを思い返しているのだと頭を振って紫陽花へと目をやる。


「紫陽花の花って綺麗ですよね」


顔を紫陽花の近くまで近づけてじっくりと見つめている横顔。

キラキラとした目に紫陽花が映り込む。


「そうだな」

「先生の推しってどれですか?」

「推し?紫陽花の?」

「そうです。同じ品種でも色違うのもあるし、だから、推し紫陽花あるのかなって思ったんですけど」


女子高生の新しい単語を生み出す能力とこんなに喋る子だったのかと二重に驚きつつ白い紫陽花を指す。

少し小柄らで大人しく、それで周りを邪魔しないよう隅っこにいながらも凛とした存在感を出している。


「先生っぽいかも」

「そうか?」

「これだけ真っ白だと、花の形は似てますけど品種が違うかも、ですね」

「そうかもな。あと、さっきから気になってたんだがこれは花じゃない、ガクだ。花はこれ」

「え?そうなんですか?」

「小学校で習ったはずだぞ」

「えー…、例えば、他にどんなことやりましたっけ?」

「アルカリ性と酸性」

「ん?」

「…紫陽花は、同じような場所もしくはずっと同じ場所に植えられていたとしても土がアルカリ性か酸性かで色が変わる。アルカリ性ならピンクになるし酸性なら青になる。だから、半分がアルカリ性、もう半分が酸性の土地に植えられた紫陽花はピンクと青、両方の色の花を持つこともある」

「何それ、面白い!!」


すっかり忘れていただけのはずなのに、彼女はキラキラさせて、時々、ほーだとかへーとかつぶやきながら聞いている。

その様子に少しだけ口角が上がる。


「なんだか、紫陽花って人間と同じですね」

「どこか。植物と哺乳類だぞ」

「そうゆうことじゃなくてー」


詩的なことを口にした彼女は、そっと紫陽花を撫でるように片手を添える。

不思議ちゃんというやつなんだろうか。いや、マイペースなだけかもしれない。

優しい目を花に向けていたかと思えばあぁ寒くなってきたぁと早く保健室に行きましょうと促す。

一言、ごめんと謝って前を向く。一瞬だけ見た足元はすっかり泥だらけになっている。


「こないだ言われちゃったんですよね。親に。私の育て方が悪かったからこう育っちゃったんだーて」


あっ歩きながら聞いてもらっていいですかと振り向こうとしたのを止められて、戸惑いながらも歩き続けた。


「進路希望、白紙で出したことがばれちゃってどうして何も書かなかったのか何回も聞くから、本当はあるけど恥ずかしくて書けなかったって言ったんです」

「恥ずかしい夢なんてないだろう?」

「親にも言われました。それとも人に言えないような変な職業なのか?って。でも、口にするにはすごく私には恥ずかしくて、でももういうしかない雰囲気になってしまったから言いましたよ」

「何になりたいんだ?」


彼女の声はそこで少しだけ詰まって小さくなる。

雨の音にかき消されないように耳だけを後ろに集中させる。


「…女優」


あぁ、今振り向いたら顔真っ赤になってそうだなぁと思いながらそうかとだけまずは答える。


「そうか。女優になる方法ってなんだろうな」

「え?」

「なんだ?」

「あっ、いや。親にはため息つかれたから。一生食っていけるかもわからないし、そもそもなれるかもわからないものに就こうとするんじゃないって」


ほとんどの親が、彼女の両親と同じ反応をするだろう。

もし、自分に子供ができて高校生にもなって突拍子もなく女優になりたいなんて言い出したらおそらく同じようなことを言うに違いない。

だけれど自分の子でもないし、自分は教師だ。現実を教える必要はあるが、時には夢を持たせることの重要性も新米ながらに考えている。

だから否定する必要性はないように感じた。だから否定しなかった。それだけだった。

人によってはこの反応を無責任とでもいうのかもしれない。

でも今の彼女にとって、恥ずかしながら伝えた夢を否定することはやっぱり誰にも認めてもらえないのかと蓋を閉じてしまうような気がして。それだけは、避けたいと咄嗟に思った。


保健室の扉を開けると、保険医はいなかったが机に置いてあったメモにはすぐ戻りますとだけ書いてあった。

ひとまず、椅子につき少しだけ暖房を入れてみる。

ジャージを取りにいきたい気持ちはあるが、さすがに一限目が始まっている。

終わりのチャイムがなるまでは待ってもらうしかないだろう。


「なんで、なりたいと思ったんだ?」


保健室に二人だけというのも気まずくなり先ほどの話を続けることにした。


「小さい頃から、おばあちゃんに劇に連れて行ってもらうことが多くて。それで、ですかね」

「俺は見たことがないけど、そんなにすごいのか」

「すごいですよ。すごく、面白いです。演技ってすごいなっていろんな人になれるんだって感動しました」

「なるほど」

「それで、そんな将来性が見えないような夢を持たせちゃったのはおばあちゃんにすべて任せて共働きを続けた自分たちに責任があるって、それが悪かったってなっちゃったみたいです」


暖かい空気が横から当たる。

まだ乾ききっていないおでこにくっついた彼女の前髪の先っぽがふらふらと揺れている。


「先生は、なんで先生になりたいって思ったんですか?」


こうゆうセリフもよくドラマとかで聞くよなと思いながら思い出す振りをする。


「いろんなことを沢山知っていて、それを教えてくれる先生がいたんだ。面倒見がよくて、ダメなことはダメって注意してくれて、でも熱血なわけじゃなくて、みんな大好きだった先生。その人に憧れたんだ」

「そうだったんですね」

「いや、今のは嘘だ」


すぐに出てきた否定の言葉にどう反応をしていいかがわからない、そんな顔をしている。


「実は、成り行きだ。なんとなく入った大学が教師免許がとれるところで、それでなんとなく免許だけでもとっておくかって取って、じゃぁせっかく取ったから教師にでもなるかって」

「はぁ」

「周りも教師になろうって奴ばっかりだったから、その流れに任せてじゃぁ自分もって」


彼女は夢も何もない話に目をパチパチとさせている。

どう反応を返したらいいかわからないのかもしれない。

でも、現実ってほとんどこうなんじゃないかと我ながら虚しいながらに思う。

テレビでは、熱い想いを描いて夢に向かって頑張る人たちの特集を毎週のようにやっている番組もあるけれどそんなかっこいい生き方をしている人間は一握りだろう。

その一握りをわざわざテレビで特集するから、世の中はこうゆう人で溢れているんだなと錯覚する人もいるはずだ。

そして、自分には何もないと絶望する子もいるだろう。でも実際は何もないのがほとんどだよと言ってやりたい。

お前の周りの奴らも何もないぞと。何かすごい考えているような顔をしていても何もないぞと。


「だからな、夢を持っていることはいいことだと思う。それを恥ずかしがる必要はないんじゃないか」

「はい。ありがとうございます」


なんのお礼だ。と思わず心で突っ込むと同時にチャイムがタイミングよく響く。

そして、保険医が帰ってくる。手にはジャージを持っている。

わざわざ教室まで取りに行っていたようで、彼女と一緒にお礼をいう。

彼女は仕切られたベットの中でごそごそと動く音だけをさせながら、話を続けた。

いつのまにか、少しだけ打ち解けられている気がする。


「先生。やっぱり私たちって紫陽花と同じだと思う」


そう言えば、どうしてそう思うかをちゃんと聞いていなかった。

保険医もなんの話だと興味津々に聞いてくる。


「土の性質で色が変わるように、周りの雰囲気で自分の考えが変わったりとかしちゃうところ」


シャッと軽快な音をさせて、着替え終わった彼女が出てくる。

胸に刺繍された名前には夢野幸と書かれている。


「…え?ジャージ、借りたんですか?」


保険医に思わずぽかんとした顔を尋ねると、クスクスと笑われる。


「いえいえ。教室にいた叶井さんって子から夢野さんのジャージを預かりましたから、彼女のものですよ」

「新米せんせーい。しっかり自分のクラスの生徒の名前と顔覚えてくださいよ。いつになったら気づくかなぁって思ってたのに全然気がつかないんだもの」


自分の顔が赤くなるのがわかる。

ずっと夢野と叶井のセットでいたからちゃんとどっちがどっちかを認識できていなかった。

確かに、名簿を見ながら名前を読み上げて返事があるかどうかで存在を確認していた。

返事をした相手がどんな顔をしているかを見ている気でいたのだ。


「ちなみに、雨の中突っ立ってたのは告白されて無理って断った瞬間に走り出した相手の荷物ががぁんって手に当たって傘飛んじゃったからなんですよ。突然の告白だったからこの後相手にどんな顔して会えばいいかわからないし、手は痛いしでどうしようか悩んでたんです」


フリフリと振られた右手の甲が確かに赤くなっている。

なんでそれを言わないのと保険医に手を掴まれるとちょっと痛いですとおいおいと下手な嘘泣きをする。

女優が夢だと言った奴がそんな下手でどうすると突っ込みたくなる。


「ねぇ来原先生」


突然呼ばれた名前に顔をあげるしかない。

少しは赤みは取れているといいなという願いは届かず、顔赤いと笑われる。さらに顔が赤くなる。


「私、進路希望書き換えるから返却希望します。親に言われて四年制大学の福祉系にしちゃったけど全然希望じゃないから」


あとで職員室から持ってくるとだけ答えて両頬を2回パンパンと叩く。

これで赤みはごまかせる。ごまかせる、はずだ。


「よし、先生も今から小さい夢…というか目標を決めた」


声がなくてもキラキラとした目が向いたのがわかる。


「クラス全員の名前と顔を一ヶ月で一致させる」


きりっとしたかっこいい顔で決めたつもりだった。

だが、ぶっと吹き出した笑い声が響く。


「そうですよーほんと、早く覚えてくださいよー。

こっちは、幸福ってからかわれて嫌な思いをしてたのを人の名前で遊ぶんじゃないって唯一注意してくれた先生だって1年の時から認識してたんですから」


彼女の笑い声で思わずこっちもつられて笑ってしまう。

保険医もつられて笑っている。いや、少しそこに自分に対して呆れた笑いも入っている気もしたが。


すでに2限目のチャイムが聞こえてきた。気もする。

教師としてはよくないが、彼女を教室に戻すのはまぁ次の授業からでもいいだろう。

今はまだもう少しだけ夢野幸という生徒と話したいと思っている自分がいたからだ。

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