1年C組 雨の嘘

 雨は、三限目が終わる頃の昼前から降り始めた。

 

 放課後になっても止まない雨に、私たちは足止めされた。二人して日直の仕事があったから、帰りは必然的に一緒になった。

 昇降口から傘をしていく生徒に追い抜かれながら、屋根が無くなる階段の手前で隣の彼を見上げる。


「なんでこういうときに限って忘れるかなぁ」


 綺麗に切り整えられた短髪を撫でながら、彼は苦笑して空を見上げる。言うのは、傘を忘れたことに対する自分への後悔だ。

 頑丈そうな首に浮かんだ喉ぼとけが、上下に動いた。


「まだまだ梅雨なのに、油断するから」


 私はおちょくるように苦笑して見せる。すると彼はこちらを見下げて、同じような表情を浮かべた。


「お前だって、傘持ってねえじゃん」


 責めるというよりも、戯れるような口ぶりだった。

 悪戯好きな子供のような笑みから、私はつい視線を外して下を向く。視界に入ったスクールバッグの底部分を眺める。


「今日だけ、たまたま忘れたのよ」


 バッグの端に付いた、友達と揃って買ったトイ・ストーリーのぬいぐるみキーホルダーをいじりながら答える。ミスター・ポテトヘッドの細い腕を彼に向けて振って見せた。


「ついてねえな」


 ズボンのポケットから手を出さないまま、彼はまた空を見上げた。


 その横顔を見詰める。雨で帰れないと言うのに、その顔には常に楽観的な笑みが浮かんでいる。彼はいつだって、呑気な態度ばかりを取った。


「どっかに傘落ちてねえかな」

「あっても誰かの物よ」

「一本ありゃ、二人で帰れるのにな」


 その不意の提案は、私の顔を熱くした。


「やめてよ、変な噂が流れるでしょ」

「噂って?」


 つい張った声に、彼は真顔を向けてくる。その反応は信じられない。男女の相合傘を何とも思わない神経を疑う。校内でそんなことをして仮にクラスメイトに見られでもしたら、良いネタにされるに違いない。冷やかされるのは、誰だって避けたいことなのに。

 

「何でもない」


 説明する気になれなかったのは、その内容を彼に言うのが気恥ずかしかったからだ。彼に対してあまりそう言った話題は振りたくなかった。


「んだよ」


 子供の笑顔。

 その柔らかい笑みが、こんな気持ちにさせるのだ。昔はただの坊主で、私よりもチビだったくせに。


 小、中学と一緒で、同じ高校の同じクラスになったのは偶然だった。知り合いのいない新しいクラスで、彼と頻繁に話すようになるのは当然の流れだっただろう。元々わだかまりもなく小中を共にした仲間が側にいてくれるのは心強いことだ。


 入学してひと月が経ったころ、特別な理由なんて何も無くて、彼に対する自分の気持ちに変化があった。ドラマみたいなロマンチックなきっかけは、現実ではなかなか起こらないものだ。

 

 意識し始めてから、周りの景色が全く別のものに見えるようになった。彼を取り巻く環境が目につくようになった。

 ふと気づいたのは、彼は私が思っているよりも、女子に好印象だということ。友達を作るのが上手な彼の周りには、入学後ひと月も経たない内に男女の束ができていた。クラスの女子は積極的に彼に話しかけに行っていた。

 

 その光景を遠目に眺めて、私はつい、クラスの女子達に彼の昔の写真でも見せたい気持ちになった。チビで坊主の彼は、今とは容姿も雰囲気もまったく違う。それを知っているのは私だけだ。私は変なところに優越感を抱いていた。

 

 受験シーズンに急に来たらしい成長期は彼の体をグングンと変えていった。中学まで続けた野球部で培った筋肉質な体は、部活を引退した今でも維持していて、丸坊主だった髪も中学を卒業する頃にはきちんと生え揃っていた。今では流行りのスタイルに短く整えている始末である。

 まったく、色気づいちゃって。

 

 引退のきっかけは、母子家庭を少しでも支えたいという、これまた何ともいイケメンな理由からだ。ヤサメンだ。故に彼は入学初日から担任へ相談し、親との三者面談を経て、学業との両立を条件に早々にアルバイトを始めていた。つまり勉強もそこそこできた。

 私なんて親からお小遣いをもらって、家に帰ったら洗濯物も畳まずにファッション雑誌を読み老け録り溜めたドラマを観るだけの生活を送っているというのに。


 それらを踏まえ、ふむ確かに、彼はモテてもおかしくない人間だとここ最近やっと気づいた。見慣れた顔は特別イケメンというわけではない気はするけれど、高身長や体格、内面でいくらでもカバーできる。女子達からすれば彼氏にするには申し分ない物件だった。


 そんな彼を好きになると、いろいろと苦労事が増えた。私は自分にそこまでの自信を持っていない。クラスの誰よりも付き合いが長いという事実はあっても、そんなもの何の役にも立たない気がした。


 かれこれ、片思いを続けて一ヶ月以上が経つ。彼も、そして私もクラスでできた友達との付き合いが増え始め、だんだんと会話をする機会は少なくなってきている。このまま時が経ってしまえば、もう彼と関わる時間が無くなるのではないかと、そんな不安まで良し寄せることもある。


 だから今、この時間に私はドキドキしていた。

 たまたまとは言え彼と二人で話せている。もう木曜日。一週間の内、彼とこんな風に話すのはこれが始めてのことだった。


 私はもう一度、スクールバッグを見詰めた。閉ざされたファスナーを開けるか悩んだあげく、またキーホルダーをいじってしまう。なかなかその先に手が伸びてくれない。


「しゃーない、濡れて帰るか」


 不意に呟かれた声が、私の心拍数を上げた。

 思わず咄嗟に彼を見上げる。


「マジで言ってるの?」


 確認の為に訊くと、彼は相変わらず楽しそうに笑う。


「マジ」

「風邪引くよ」

「じゃねえとバイトに遅れるんだよ。帰って速攻着替えりゃ大丈夫だ」

「そういう問題じゃないよ」

「お前こそ止めとけよ。細いし、俺より風邪引きやすそうだから」


 そうこう言い合う内に、彼が自分のバッグを頭に乗せた。足が半歩動く。片足が階段の一段目にかかった。


「ちょっと待って」


 考えるよりも先にそう言っていた。「ん?」と止まり振り返る彼に説明することを後回しにして、私は触っていたキーホルダーから手を離すと、勢い任せにバッグのファスナーを全開にする。整頓されていないごちゃごちゃした荷物の一番底部分を探り、手間取りながら握ったそれを引き抜いた。


 水玉模様の折り畳み傘。

 梅雨時期は、常にバッグの底に忍ばせている。


「傘、あるから」


 視線を落としたまま、不器用に握ったそれを彼に見せつける。渡し方が、隣のトトロに出てくる『カンタ』みたいになる。


「あ? 忘れたんじゃなかったのか?」


 彼が階段からこっちに戻った。ズボンが雨粒で既に濡れていた。顔を上げると、掲げたバッグも、肩も、濡れてしまっている。

 もっと早く出せばよかったと、申し訳なさと後悔に包まれる。


「い、今、思い出したのっ」


 苦しい言い訳。でも本当のことなんて言えるわけがない。

 傘を持ってきていたけれど、相合傘は恥ずかしくて、でもしばらく二人でいたかったから、嘘をついてしまったことなんて。


「忘れるか、普通?」


 苦笑。こういうときでも笑顔を絶やさない彼。


「うるさい。入れてあげないわよ」


 素直になれない私。


「わりぃわりぃ、怒んなって。ありがとな」


 素直にお礼を言ってくれる、好きな人。

 

 ため息が出そうになって、我慢する。口を堅く閉じて、顔を熱くしながら、両手で小さな傘を開く。安いレディース物の傘は、二人入るには窮屈な空間だ。


「ほら、行こ」


 歩き始めたタイミングで、不意に手から重さが抜ける。遅れて、傘が離れる。見上げれば、彼が左手に傘の柄を握り、こちらに笑いかけていた。

 水玉模様の布を引っ張る、細く脆そうな骨組みの下の彼の笑顔は、とても近いところにあった。階段を下り、校内を抜け、正門をくぐるまで、私はうつむき続けてしまった。


 小さな傘に対して、自分があまり濡れていないことに気付いたのは、学校前の赤信号で立ち止まったときだ。


「ちょっと、ちゃんと入ってる?」


 違和感を覚えて頭を上げる。彼の広い肩が側にある。その逆側の肩が、ずいぶん雨に濡れているのが見えた。握られた傘の柄は、明らかに二人の間ではなく、私の方へ寄っていた。


「ん? いや、俺体でかいからさ。お前濡らすわけにはいかねえだろ」

「っ……」


 急激に、体の温度が上がっていく。

 ああ、もう、だからあんたは、だからあんたはっ!

 

「そんなん、相合傘の意味無いし!」

「ちょっ、お前引っ張んなって!」

「うるさい! さし方下手くそ!」


 雨の中、一本の小さな傘が左右に揺れる。けっきょくお互いの服は半分くらい濡れてしまい、相合傘の意味なんてほとんどなくなってしまった。

 それでも私は、責任を持って彼を家まで送ってあげた。気恥ずかしさは、最初のひと悶着でとっくに消失していた。


 ただ、一人で歩く帰り道に、傘を奪い合ったときに触れた彼の手の感触を思い出すと、また顔が熱くなった。

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