青春高等学校 ~あの日、僕と私たちは~

一 雅

2年A組 ルートビア

 ルートビアとは、バニラ、糖蜜、ナツメグ、その他何かしらの植物の樹皮や根などをブレンドしたアメリカ生まれの炭酸飲料。『A&Wレストラン』という店では主力として取り扱われ、日本では沖縄のどこかしこで売っているのだとか。一部コアユーザーに絶大な人気を誇っているらしいが、興味半分に飲んだ人々は口を揃えてその味をこう表現する。

 

 まるで、シップみたいだと。


「というわけで買ってみました」


 GWに家族と行った沖縄旅行の土産をクラス中に渡し終えた彼女は、最後に堂々、そのひと缶を自分の机の上にコン、と置いた。クラス中がどよめく中、反応はそれぞれで知っている者と知らない者とで別れる。

 

 僕は知らない者の中に交じって、彼女の目の前に置かれたそれを物珍し気に眺め、ついでに彼女の隣を陣取った。十日ぶりに会う彼女の肌は少し陽に焼けていて、それでもやはり、可愛い。


「今から試飲しようと思うけど、気になる人は飲んでいいよー。ちなみに私のお父さんはベッドでのたうち回るくらい、不味いって言ってた」

「うっそ! 気になる」

「あたしパス。友達がマジで気分悪くしてたし」

「俺いく!」

「実はオレ飲んだことある。んで、けっこう好きな派」


 それぞれが自己主張し、六人ほどのグループの輪が形成された。僕は少し躊躇ったけれど、この場を離れたくない一心で輪の中に残った。


「君も飲むんだ? マジで覚悟しててね」


 悪戯な笑みが向けられ、僕は「おう、ドンとこい」と意気込んで見せた。


「んじゃ、早速」


 プシュッ、とプルトップを開けた彼女は、それを持ち上げ一同に掲げて見せてから、そっと口に付けて数度傾ける。一秒ほどで口に含み、缶から口を離した瞬間、表情がみるみる変わっていく。

 

 眉間にしわを寄せ、眉を八の字に傾け泣きそうに瞳を潤ませると、口を堅く閉じたまま首を横にブンブン振りだす。やっとの思いで飲み込むが、口内にある味の余韻にまだ苦しめられているみたいで、口許に手を当て額を机にゴンゴンと打ち付けた。

 

 悶絶する彼女を前に、野次馬たちは余計に興味をそそられている様子だ。


 彼女は机に突っ伏したまま、震える手でルードビアを僕に渡してくる。回し飲みの二番手は、どうやら僕のようだ。


「おい、早く飲め。俺もう気になって仕方ねえ」

「え、次うちだからね!」

「順番だろ。さあ、グビっといけ!」


 僕は缶を片手に、その飲み口をジッと眺めた。中にはまだたっぷりの液体が入っていて、指ほどの穴からでも独特な臭いが漂ってくる。香りはまさに、シップそのものだ。


 躊躇っているのは、味に怖気づいているからではない。少し濡れた飲み口を凝視すると、意識して仕方がないのだ。それがルートビアの液体なのか、別の何かなのか。


 ふと視線を上げると、いつの間にか回復した彼女が僕を眺めている。目と目が合う。彼女は淡いサクランボ色の舌を出して、不味いという表情を顔いっぱいに作った。


「想像以上だったー」


 べー、と僕に向けた仕草がたまらなく可愛くて、もっと意識してしまい、もうこれに口を付ける勇気はなくなった。


「僕、パス」


 右隣の女子に渡す。周りはそんな僕の選択に特別野次を飛ばすことなく、迷いなく飲む彼女の反応を窺っていた。みんな、ルートビアの味ばかりを気にしているみたいだった。


「意気地なし」


 ただ一人、左隣の彼女だけが僕の行動を批判してきた。


 僕は自分の行動を後悔しながら、飲みまわされていくルートビアの茶色い缶を眺めた。考えすぎだという自覚はあった。もう十七になる歳のクセに、今さらこんなことで意識するなんてガキみたいだ。


 気にしないフリをして飲めば、不味い不味いと盛り上がるこの輪の中に混ざることも出来たし、もっと彼女と絡むことだってできただろうに。今ではすっかり蚊帳の外で、彼女からも意気地なしだと言われてしまった。


 こんなだから、僕はいつまでも片思いを続けてしまっているのだ。


 春に転校してきて、体育の授業で顔面にボールをくらって倒れた僕を、彼女は率先して介護してくれた。鼻血用のティッシュをくれたし、保健室に僕の制服を届けてもくれた。


 その日の内に惚れてしまったけれど、彼女は人望が厚くて周りには常に友達がいた。僕の入る隙はなく、こうして皆に交じらなければ会話もできない。本当の意気地なしだから、一か月以上が過ぎても僕と彼女の仲は一向に進展なんかしなかった。


 高根の花だったのかもしれない。そろそろこんな意味の無いことを繰り返すのはやめようと、不意に思った。僕に恋愛は向いていなかったのだ。


ルートビアは一周し、男子の手から彼女の許へと戻る。中身はまだたっぷり余っているみたいで、もう一巡、飲み回すことができそうだ。


 スタートはやはり彼女からだったが、どうしてか彼女は一向にそれに口を付けようとはしない。さっきまでの潔さはどこへやら、飲み口を見詰めると、チラと僕を一瞥した。


「やっぱ、一人だけ飲まないのはズルいよねー」


 まるで賛同を促すような言葉に、周りも乗って「そうだそうだ」と囃し立ててくる。それは紛れもなく僕に向けた煽りだった。


 戸惑う僕の意思など聞かず、彼女が手を伸ばし、缶を握らせてきた。重なった手は少し冷たく、柔らかい。


「ほら、観念して飲め飲め」


 悪戯な笑み。「一気、一気」と誰かがコールする。皆が僕に注目している。


 元々、僕はこの味を知っていた。飲んだ経験があったのに、彼女と話したいが為に知らないフリをしただけだ。だから、今ならこのルートビアを飲むことに躊躇う必要はない。


 口を付けて、一気に液体を含む。勢いよく飲み込むと、口内に衝撃的な香りが広がる。まるで、シップを溶かした水に、チョコレートを一欠片加えたような、薬っぽさと甘さが交じった味。いつ飲んでも、こんなに不味い炭酸飲料は他に無いと思ってしまう。


 周りが、ドッと笑いに包まれた。僕は自分でも分からないほど、酷い顔になっているみたいだ。指を差され、手を叩かれ、大声で笑われても不思議と嫌な気分にいはならない。むしろ、自分が取った笑いなのだと思えば優越感にさえ浸れた。


「……激マズ」

「だよね。ヤバイよねこれ! うわー、これ飲み干すのキツイー」


 言いながら僕の手から缶を取った彼女は、また躊躇いもなく一口飲んだ。そして顔をしかめて舌を出す。


 あ、間接キス。思い、見詰めてしまう。


「もういいや、これ誰かあげる」

「あ、じゃあうちが貰お」


 物好きな女子が引き受けると、後は仲の良いグループで飲み回しがまた始まった。じゃんけんで買った奴が飲む、などと変なゲームで盛り上がり出した。


「ひぃー。ずーっと口の中に味が残ってるよ」

 

 彼女の言葉に答える人は、僕以外にいなかった。いつの間にか、自然に、二人だけで話すような形が出来上がる。僕はできるだけ平然を装った。

 

「ははは、僕も初めて飲んだときはかなり衝撃的だったよ」

「ん? 飲むの今回が初めてじゃなかったの?」

「あ、いや……まあ実は」


 つい零したことで嘘がばれる。でも彼女は大して気にしない様子で、なんだ、と詰まらなそうな表情を作った。


「あ、そういえばさ、私まだ君にお礼言ってなかったよね」

「お礼?」


 身に覚えがなかったから、正直に首を傾げる。彼女は迷いなく頷く。


「ほら、君が転校してきてすぐ、体育の授業で鼻血出したでしょ? あのときのお礼だよ」

「え、それならお礼を言うのは僕の方じゃ」

「ううん。私の方だよ。だって庇ってくれたじゃん、男子が蹴ったボールが私に当たりそうになって」


 僕は唖然となった。まさか気付いているとは思わなかった。確かにあのとき、ボールを顔面キャッチしたのには理由があったのだ。もっと格好良く手で受け止めるつもりだったのが、つい踏み誤ってタイミングがずれてしまい、あんな結果になってしまった。


 格好悪いと思って隠したことだ。気付かれていたことに、僕は顔を熱くする。


「だから、あのときはありがとうね」


 少し陽に焼けた彼女の肌は健康的で、焼けていない箇所は色白く透き通っている。零れる笑みに、僕の心はもう、どうしようもなく高鳴っていた。


 口の中のルートビアの味は、とっくに消えて無くなっていた。喉が渇いて仕方が無いから、もう一口だけ頂こうかと考える。


「ねえ、僕らもゲームに参加しない?」

「え、君まさか味音痴なの」

「違う、皆と一緒に楽しみたいだけだよ」


 皆の中には、もちろん君もいるのが大前提。


 今度はもう少し、大胆になってみようと思った。

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