大人の飲み物
鹿頭和英(ししずかずひで)
『大人の飲み物』
カチッという音がした。
その音がいつもよりも大仰に鼓膜を揺さぶるような気がした翔平は、思わずびくつく。
急いで辺りを矯めつ眇めつ静観しようとするが、思うように目を開けられない。
久しい光にまだ瞳孔が慣れていなかったのだ。
翔平は辛気臭い顔をしてぐちぐちと目を擦った。
ーーよかった。
翔平は、やっとこさ目を開ける。
どうやら今の音では、誰も起きてはないみたいだった。
夜。
それも小学生なんかは起きているだけでも大罪とされる程の深い夜だった。
窓の外にはいつも以上に閑静な町並と、それを覆うかのようにして遍満する闇という危険物質。
耳を澄ませてみても、聞こえてくるのはコオロギなんかが羽を擦り合わせる自然音、
布団に
ーーそろそろだ。
ぱちっと目を開けた翔平は、眼球だけを動かし辺りを確認した後、これから初陣する
立ち上がって一度伸びをするーー暇もなく。
貧血の身体をいたわって翔平は膝に手をやり、待った。
そうして身体中に十分な量の血液が回ったのを感じると、今度は喉の当たりを摩って吹き出た
ーー乾き切った喉が、あれを求めている。
カチッ。
背伸びをして押した電気のスイッチ。
翔平の瞳孔が驚き、目を細める。
寝室から出た彼が、そして最初に受け取めたのは光だった。
古い電球から放たれる、暖かい光。
木目調の天井に羽虫が嬉嬉として
だがしかしそれは、翔平の瞳孔には眩しすぎた。
ーーうう……。
急いで目を擦り、目の前を確認する。
するとその光は、奥へと続く冷たい廊下を現出させていた。
翔平はその先の闇に一瞬慄くも、また
ーー早く、あれを、喉に。
焦る気持ちを抑え、翔平は念を押して台所へ向かうための安全な道を選んだ。
カチチッ。
翔平の前に洗面台が現出する。
そうして先程まで辿ってきた廊下の明かりを同時に消し、動きを止めて静観する。
ーーよし。
自分以外の生音はしない。
順調だ。
期せずして出た翔平の不遜な笑みが、鏡の下の方に僅かに写る。
翔平はそれを見上げて殊更に大きく、だけれど音は立てずに嘆息をついた。
ーー気持ち悪いよ。
あれを喉に流す準備段階として、洗面台でうがいをすることも考えたのだが、だがしかしそれは翔平にとって困難を極める。
果たして仮にも音を立てて失敗したーーなんてことはあってはならないのだ。
加えてこんなことをしたと知れたら、この先親に立てる顔がない。
況や担任の白鳥先生をや、だ。
あの人だけは裏切っちゃいけない。
猛る拍動をもう一度だけ手で抑え、そうしてまた一歩、二歩と前進した。
ーー着いた。
翔平はここに来るまでに
だから今、翔平が立つ場所は一切光源のない闇である。
光源といえば唯一、リビングの奥に潜むテレビの赤いライトだけが翔平を睨んでいる。
ーーうしろはみちゃいけない、うしろは……
翔平はすぅはぁと呼吸を整えた。
目前には冷蔵庫があった。
大きくて背の高いそれは傲然と翔平の前に立ち塞がっている。
今、彼が共にいるのは、だがしかしこれくらいである。
そしてそれすらも、上に登るにつれてなけなしの残滓の光が闇に沈み、もはやその天を覗くことは叶わなくなっている。
ーーゴクリ。
構わず翔平は冷蔵庫と向き合う。
上から四段目の引き出しを徐に開け、そして幾度か辺りを確認したあと、中から一本の缶を取り出した。
ーーこ、これだ。
母があれだけ念を押して僕を制止させて来た念願のブツ。
まるで笑わない般若のように皺が寄った父でさえ高揚し、猛るようにして喉に流した大人の飲み物。
桃色のアルミの体にヌルヌルと感じる水滴。
手に伝わる冷ややかな感触が彼の喉に伝わると思うと、翔平はまたしても堪えられずに喉を鳴らした。
プシュカッ。
震える手で缶を開ける。
痛いほどに猛る拍動と、全身を伝う冷や汗。
荒がる吐息は彼を激しく縦に揺らす。
ーーいくぞ。
翔平は腹を括り、一気呵成にそれを煽る。
そして彼の喉元に躊躇なくゴクゴクとそれが流し込まれていく。
それは幼くも父の真似であった。
ーー……っくぅ〜〜!!!
乾ききった口腔に先程の冷たい感触が波涛のように押し寄せる。
美味い。
確かにこれはーー
「っ!」
しかし次の瞬間には、翔平は思わず缶を落としていた。
翔平もその後を追いかけるようにして、その場に喉元を抑えて蹲る。
「かはっ……!」
息が、できなかった。
「あ、あつい……?」
彼の喉元を通ったその液体は、確かに寒冷を帯びていた。
だがしかし追従するようにして押し寄せるこの感触は紛れもない、熱。
「な……なんでこんな……」
翔平は訳が分からなかった。
ピリピリと彼の身体を内側から蝕むその液体。
そしてその時、翔平はふと、母のあの言葉を思い出した。
『これは大人の飲み物だからね、翔平、絶対に飲んではダメよ』
なんでこんなことをしてしまったのだろうか。
翔平は後悔と同時に自分の不肖さに気づき、そうして眦に涙を浮かばせる。
ーーああ、僕は死ぬのか……?
いつの間にか身体中に広がった疼痛の元に、彼は死を覚悟した。
今や口と食道いっぱいに広がった鈍痛が細かく伝搬し、意識が淀みに沈んでいく。
その時だったーー
カチッ。
翔平の眼睛に光が指した。
「あんた、何してんのよ!」
そして翔平の鼓膜を大仰に震わす、懐かしい声。
翔平の母だった。
「お、お母さん……」
「ちょっとそれ……あれだけダメって言ったのに何してんのよ……」
「お母さん……僕……死ぬの?」
すると翔平の母は暫く翔平の辺りを見回して、笑った。
「お、お母さん……?」
「はははっ。あんた馬鹿ねぇ。それはお父さんのだからって言ったでしょう?まったくもう。……はぁ、大丈夫よ、死なないわ」
翔平のいじましいまでの潤んだ瞳に、母はそう答えた。
そうして彼を優しく抱きしめる。
「心配しなくても大丈夫よ。お父さんには内緒にしておいてあげるから」
それから数日間、翔平はお父さんの『大人の飲み物』を勝手に飲んでしまったことを黙っていた。
いくら母にご寛恕を頂いたからと言って、だがしかしその罪が消える訳では無い。
彼は真綿で首を締め付けられるような心の痛みを抱えていた。
そうして何日かしてーー
「お父さん」
翔平は意を決してその罪を彼の父に告白した。
洗いざらい、その倒錯的な魂胆まで披瀝した。
すると父は、
「はっはっはっ!翔平もかぶれたようなことしやがって!一丁前になったもんだなぁ!」
と、声高らかに笑った。
翔平はその一年後、小学二年生の誕生日に貰った炭酸飲料の蓋を開けることは無かった。
大人の飲み物 鹿頭和英(ししずかずひで) @Nupepe_87
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