第10話

「そろそろ帰れよ。ほら、烏の親子も山に帰っていくぞー?」


 陽春は社の屋根に腰を下ろし、暗くなっていく空を眺めながら、ポメラニアンサイズになった銀狼を見下ろした。


「……どの面下げて帰れと言うんだ。俺は、緋鞠の友人を傷つけてしまったんだぞ」

「謝ればいいだけだろ」

「それが出来たら苦労しない」

「だよねー」


 陽春はうつろな視線を空へと向けた。


 ――そろそろ箒で吐き出そうかな。


 そんなことを考え始めたときだった。

 軽やかに石段を上ってくる足音が聞こえてきた。陽春はほっと胸を撫でおろし、やってきた人物を迎える。


「やあ、いらっしゃい」

「陽春さん、こんばんは!」


 現れたのは銀狼の主人だった。


「来てくれてよかった。こいつをさっさと連れ帰ってくれ」

「ああ、やっぱりここでしたか」


 そういって陽春の示した先には、小さな銀色毛玉が転がっている。


「銀狼」


 呼びかけると、毛玉がびくっと身体を震わせる。

 緋鞠は毛玉に近づくと、そばに膝を落とした。


「ごめんね」


 まぶたを閉じ、深く息を吸い込むと、桜の香りがした。


 幼い緋鞠が傷だらけの銀狼を見つけたときも、桜が咲き誇っている季節だった。

 身体中が血と埃で薄汚れていたけれど、彼の命の輝きは強く眩しいほどだった。その輝きに似た光を、緋鞠は見たことがあったから、思わず手を伸ばした。


 ──私がどんなに焦がれても、手が届かないものだから……。


 瞳をゆっくりと開き、銀狼を見つめる。


「銀狼をだましてまで病院を抜け出したのは、早く怪我を治したかったから……なんて言うのは嘘。――本当は、貴方に失望されるのが怖かったんだ」


 鬼狩り試験の日、銀狼は緋鞠に何があったのかたずねなかった。ただ緋鞠を心配して側にいてくれた。

 有り難いはずなのに、月鬼との闘いを止められるのではないかと恐れていた。


「私の傷……誰に付けられたのか、銀狼は知っていたんだよね」


 知っていて見守ってくれていたのだ。

 涙がこぼれそうになるけれど、口を引き結んで堪える。


「……ありがとう」


 銀狼の三角の耳が立ち上がる。

 けれども、まだ緋鞠を向いてはくれない。


「あの夜ね、月鬼──四鬼と闘って、死ぬほど怖い思いをしたんだ」


 骸になった仲間たち。翼が助けてくれたから、どうにかあきらめずに頑張ることが出来たけれど、今だって不安はある。次は自分の番かもしれないと――。


「それでも月鬼と闘いを選んだこと、今でも後悔してない」


 月鬼によって苦しめられている人がたくさんいる。

 きっとみんなも様々な理由で戦場に立っているはずだ。琴音も、翼も、そして自分も……。


 銀狼を緋鞠の事情で巻き込むのは間違ってるのかもしれない。


「……銀狼。私と一緒に闘ってくれるの?」


(……首を振ってくれないかな?)


 銀狼に契約を解除してくれ、と言われたら、別れる覚悟だってある。


 目の前でぼふんと煙が上がる。

 顔をあげると、人の姿へと変化した銀狼がいた。銀狼はそっと緋鞠の頬に手を伸ばした。



『――行かないで! ワンちゃんまで、私の前からいなくならないで!』


 わんわん泣いて銀狼から離れなかった少女。振りきることは簡単だったが、出来なかった。


『……それなら、おまえは俺に何を望む?』


 銀狼にしがみついていた少女の手が離れた。


『元気でいて。死なないで。……一緒に、いて』


 懇願の言葉は、少女がおさえてきていた望みのようだった。


 だから、俺は──。


 この少女も、銀狼と同じように月鬼に復讐を望むかもしれない。そしたら、こんなにちっぽけな命の灯火など、たやすく吹き消されてしまうに違いない。


 それなら、ひと時でも少女の望むようにそばにいて、少女を守ってやればいい――。



「あの日、おまえの望みは叶えると言ったろう? どんなときでもおまえのそばにいると……」


 それは契約。否、誓いだった。


「おまえが戦場に行くなら、俺も行く。その相手が月鬼なら、俺にとっても好都合だ」


 緋鞠に月鬼と闘う理由があるなら、銀狼にもある。月鬼への憎しみは、今もなお続いている。

 大事なものを壊していった月鬼を、命のある限り許すつもりなどない。


 今回、銀狼が恐ろしくなったのは別のことだ。


 緋鞠を引き寄せ、自身の額を緋鞠の額にこつんと寄せる。緋鞠の温かさに安心感を覚えながら瞳を閉じた。


「だから、勝手にいなくなるな」


 病室に戻れば、窓は開いたままで緋鞠の姿がなく、半世紀ぶりに焦ったのだ。事件に巻き込まれたのでないか、月鬼が連れ去ったのではないか、と。


 緋鞠は猛省する。基本、銀狼は緋鞠に甘く、緋鞠が望むなら、その願いを無下にしたことなどないのだ。


「……うん。これからは気をつけるよ」


 自然と笑みがこぼれた。


「ありがとう、銀狼」




 緋鞠は陽春に向かって頭を下げた。


「お騒がせしました」

「いや、いいんだよ。どうせこいつが話も聞かずに、頭から否定したんだろう。すっかり口うるさい頑固親父だな」

「口うるさくなんかない!」

「いや、いつだっておまえが原因だ。四百年前を忘れたか?」

「あれはおまえが……」

「はいはい、ストップストップ!」


 口喧嘩に発展しそうだったので、慌てた緋鞠はふたりの間に割って入る。


「ありがとうございました。また来ますね! 今度は何か美味しいものでも持ってきます」

「じゃあ、団子か饅頭がいいな」

「おまえ、図々しいぞ!」

「こら、銀! お世話になっておいて、その言い方はないでしょ!」


(おやおや……)


 今度は主従の口喧嘩が始まってしまった。

 けれども、その様子は近しい者だけが発する他愛のないやり取りで、とても楽しそうに見える。


 ふたりが並んで帰る姿に遠い昔を思い出させる。


 数百年前、銀狼が守護していた村が、月鬼の襲撃を受けた。

 唯一助けられたのは、ひとりの幼い少女だけ。


 月鬼への復讐だけで生きていた彼に、心のよりどころが出来たのだ。


「……頑張れよ。もう失くさないように」


 陽春は風と共に姿を消した。

 優しい微笑みを残して──。

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