第4話

 濃紺色の長い髪をゆるく結び、やわらかい春の日差しのような瞳をした人。

 誰よりもやさしく、あたたかくて。緋鞠にとって兄のそばが、世界で一番安心できる場所だった。


 けれどもいつも緋鞠のそばにいてくれたわけではなかった。

 彼は陰陽師であり、鬼狩りを生業としていたからだ。


 紅い月が昇る夜は緋鞠が眠っている間にいなくなり、目を覚ます明け方にはひょっこり帰ってくる。たまに、傷をつくりながら。

 緋鞠が物心をつく頃には、鬼狩りとは危険な仕事なのではないかと感じるようになった。


 少しでも兄の力になれることはないかと、武術や陰陽術を教えてもらおうとしたけれど、兄は緋鞠には剣はもちろん、霊符にさえ触れさせてはくれなかった。

 それどころか鬼狩りに興味を持たぬよう、兄の友人が運営する孤児院に預けられるようになった。


 今思えば、兄は緋鞠の前ではいつもやさしい笑顔しか見せなかった。

 泣いてる顔や怒っている顔など、負の感情は一切見せなかった。だから気づけなかった。

 あの日、兄の笑顔に陰りが見え、瞳がさみしげに揺れていたことを――。


 玄関から物音がする。

 夜がまだ明けない時刻、緋鞠はベッドの中で目を覚ました。皆を起こさないようそっと部屋を出て、玄関に向かうと兄がいた。

 廊下に立つ緋鞠の姿に気がついた兄は、やわらかく微笑みを向ける。


「ごめん。起こしちゃったみたいだね」


 こんな時間帯に出ていくときは、いつも仕事に出掛けていくときだ。


「今度はいつ帰ってくるの?」

「うん、どうかな……」


 濁した物言いのときは、一ヶ月以上は帰ってこない。

 緋鞠は兄の身体にしがみついた。


「緋鞠……」

「すぐに帰ってくるって、約束しなきゃやだ……」


 兄を困らせることを言っていることはわかっていたけれど、緋鞠はそのままぎゅっと張りついていた。

 兄は緋鞠の頭を撫でたあと、そっと身体を離される。緋鞠の目線の位置まで、腰を落とすと黒のコートのポケットから何かを取り出した。


「緋鞠にはこれをあげるよ。俺の宝物」


 男性にはおよそ似合いそうにない、トップに可愛らしい小さな瓶がくくりつけられたペンダントだった。


「緋鞠を守ってくれる御守りだよ。膨大な霊力が入っていてね、どんな魔術も儀式も可能にしてくれる魔法の代物なんだ」


 兄がかけてくれたペンダントの瓶の中を覗くと、淡い紫色に光る陣が見える。


「……兄さんはもう、私を守ってはくれないの?」

「ううん」

 

 兄が小さく首を振った。


「守るよ。少しの間、緋鞠のそばにいれないだけ。でもこれで終わりだから」

「終わり、なの……?」

「うん」


 兄はにっこり笑うと、首をかしげる緋鞠を抱き上げた。


「この仕事が終わったら……もうどこにも行かない。何があっても緋鞠のそばにいるよ」

「ほんと? 約束だよ?」

「うん、約束」


 そう言ったのに、兄はそれっきり帰ってこなかった。


 ずっとそばにいてほしかった。緋鞠にとっては、兄だけがほかの何よりも大事だったから。

 月鬼を倒したら緋鞠の元に笑顔で戻ってくると信じていた。

 ――譲ってもらった兄のペンダントを握りしめながら。


 なのに、周りの大人たちは平気で嘘をつく。証拠もないのに、それらしく作り話までして。

 緋鞠の兄は死んだと。

 もう諦めろと。


 だけど、捨てられるわけない。

 誰にも理解できなくても、この想いを捨てる覚悟なんて、出来るわけない。


「周りにシロちゃんが死んだって言われた仁くんと、幼い頃の私があまりにも似ていたから、放っておけなくなったんだ」


 緋鞠は兄が生きていると、今でもそう信じている。

 今の緋鞠は兄の帰りを待つだけの子供ではない。兄さんが私の元に戻ってこれないのなら、私が兄さんを迎えに行く。


 だから大和ヤマトに行くんだ。

 ——私も鬼狩りになるために……!


「私情でごめんね」


 本当はただ人助けがしたかっただけだと、嘘でもそう言えたらよかったのだろう。でも、おなじ立場の仁には嘘をつきたくなかった。


 仁はしばらく黙っていると、土管から勢いよく飛び降りる。


「……私情でも、緋鞠が信じてくれたから。俺は今も諦めないでいられるんだ。だから謝らないでよ。……嘘をつかないでいてくれて、ありがとう」


 緋鞠を振り返る仁の顔に、迷いの色はなかった。向けられた笑顔を見て、緋鞠は救われた気持ちになった。


 ふぉん……


 緋鞠の右手人差し指に、銀狼との契約の証である鎖の紋様が浮かび上がった。


「……見つけた」


 紋様に意識を集中させると、銀狼がどこまで離れているのか。どの方角にいるのかがわかる。


 西の方角。距離はおよそ三キロ。空き地ここからだと一時間以内なら着く。

 一度目を閉じ、銀狼の姿を思い浮かべる。


『……銀狼』


 陰陽師と契約した妖怪のみが行うことができる意識上の会話——念話を試みる。


『緋鞠』


 ――通じた!

 緋鞠はほっと息をつき、そのまま会話を続ける。


『今どこにいるの?』

『廃材置き場だ』

『廃材置き場?』


 人差し指から、銀狼の霊力が送られてくるのを感じる。ふわり、と脳内に見たことのない風景が映し出される。


 人の背丈よりも高く積み上げられたタイヤ。無秩序に置かれた電化製品。今にも崩れそうな、その他の物が積みあがったガラクタの山。


『とても居心地がいい場所とは言えないね』

『ああ。それに、事態は最悪だ』

『シロちゃんを見失ったの?』

『いや、その逆だ』


(見失うの逆?)


 では、見つかったんだろうか? でも、それならこんな言い方はしないはず。

 それに、シロちゃんの姿が見えない。


「……まさか」

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