第36話 幼馴染メイドに朝の挨拶を

「はい、おやすみ」


 幸奈が部屋に入るのを見送りながら扉を閉めた。


 はぁ、やっと家から怪獣がいなくなった。

 ゴキブリは無事になんとかしたのに何故だか幸奈からやたらと『今日も泊めなさい』と言われた。でも、本当に疲れていた僕は帰れと言い続けた。


 すると幸奈は珍しく大人しく言うことを聞いてくれた。明日は雪でも降るんじゃないかと心配したけど僕の顔がしんどそうにしているのでも見たのだろう。『今日は帰るわよ……』と残念そうにしながら言っていた。


「その代わりにあんなことを言われるとは思ってなかったけど……」


 嵐が去った後のように静かになったリビングでポツリと呟いた。


「まぁ、いいや。明日のことは明日の僕がどうにかしてくれる。今日は疲れたしシャワーを浴びて寝よう」


 僕は自室に入ってシャワーを浴びるための準備をした。

 そして――


「あれ? どこやったっけ?」


 出していたパンツが一枚消えていた。

 どこかになおしたかなと思ってクローゼットの中を調べたけどどこにも見当たらなかった。


「この前のゴミの日に捨てたっけ?」


 パンツが一枚消えたところで困らない。

 僕はまったく気にすることなくシャワーを浴びてそのまま寝た。

 長い長い休日がようやく終わりを告げた。



 ◆◆◆◆


 満足に回復しきっていない身体を無理に起こして教室までくる。いつもは後ろの扉から入っているけど今日は違う。前の扉まで歩いていきそこから入った。

 そして――


「さ……ひ、姫宮さん。おはよう」


 すぐそこにいた幸奈に挨拶をした。


 その瞬間、教室内にざわめきが走った。

 そりゃ、そうだ。今まで一度も声を交わしていない……ましてや、ただの挨拶すらしなかった僕がある日突然幸奈に挨拶をしたのだ。何事かと思われても仕方ない。


 しかし、幸奈はそんなこと気にする素振りもなく席に座ったまま擬似的に上目遣いとなってクスリと笑った。


「おはよう、尾山くん」


 それだけを言い返す幸奈。

 それに対して僕も何も言わない。黙って自分の席へ向かった。


 『アイツ、何がしたかったんだ?』

 クラスメイトの頭の中はこんなことでいっぱいいっぱいだろう。


 そんな奴等に言いたい。

 安心しろ。僕も分かっていない。むしろ、誰か僕にも『アイツがしたかったこと』を教えてくれ。


「姫宮さん、尾山のやつどうしたの?」


 席へ向かってる途中、ある男子が幸奈に声をかけていた。僕の名前を覚えてくれているのに申し訳ないけど僕は名前を覚えていない。でも、顔を見なくても声だけで誰かは分かる。ソイツは幸奈の隣の席に座っていて何かと幸奈に話しかけている奴だからだ。


「挨拶がしたかったんじゃないかしら?」


 幸奈は何事もなく、僕以外に対して実践しているいつものクールな態度で答えていた。


 な・に・が! 挨拶がしたかったんじゃないかしら? だ! お前が言ったんだろ! 『これから、毎日学校でおはようの挨拶をしなさい』って!


 僕は当然のことだが、幸奈と学校で会話なんてしたくない。挨拶なんてもってのほかだ。

 一度変な噂が流れ、せっかく消えかけていたというのに……この行為は自ら首を絞めるに値する。


 また変な噂でも流れたらどうしよう……。

 そんな不安が襲ってくる。けど、断るに断れない。


 幸奈からは挨拶は命令と言われなかった。

 その代わりに挨拶をしないと裸を見られたと公言すると言われた。

 命令よりも強烈な仕打ちに断れるはずがない。そんなこと言われると僕自身が本当にどうにかされそうだし。


「へぇ……あ、おはよう。姫宮さん」


 まだ挨拶をしてなかったのか隣の男子は適当な返事をしながら幸奈に挨拶をしたのが聞こえてきた。

 そんな男子に幸奈が『おはよう』とだけ返しているのも聞こえてきた。


 挨拶なんて誰もがする普通の行為。

 その普通の行為が幸奈を相手にするだけで難易度が爆上がりする。可笑しなことだ。


「おい、祐介。急にどうしたんだよ。幸奈ちゃんとよりでも戻したのか?」


 自分の席に近づくと一連を目の当たりにしていた春が驚きながら訊いてくる。

 そんな春に席に座りながら答えた。


「あのなぁ……僕と幸奈がいつ付き合ってたんだ?」


 僕と幸奈が付き合ってたなんて冗談じゃない。幼馴染としての付き合いは存在してるけど、恋愛としての付き合いなんてないしこれから先もない。


「わ、悪い。でもよぉ、さっきのは一体なんなんだよ?」


「なにって……ただの挨拶だろ?」


「挨拶って……今まで一回もしてなかったのにか?」


 それを言われるとなんて答えたらいいのか……いい答えが浮かばない。

 迷った挙げ句、『き、気分だ』とだけ答えた。本当はそんな気分なんてまったく存在してないけどな。


「気分って……。まぁ、いいや。これで、少しでも幸奈ちゃんとの関係がましになるなら良いことだしな」


「関係って……前にも言ったけどケンカとかは」


「分かってるよ。ケンカとか仲が悪くとかはなってないって。でもさ、幼馴染なのにずっと話してないとか見てる側からは昔みたいになってほしいなって思うもんなんだよ」


 まぁ、最近は結構な頻度で話したりはしてるんだけどな……。一昨日は一晩を共にしたんだし……何もやましいことはないけど。

 その事を知らない春は真剣な眼差しで言ってくる。どうやら、前みたいなからかいじゃなく本心のようだ。


「……春って、本当に良いやつだよな」


「な、なんだよ、急に! 褒めたってなんも出ねーぞ!」


 春は照れていた。

 身体をくねくねさせながら照れる春は正直言うと気持ち悪い。

 それでも、良い友達がいてくれて幸せなんだと思った。


「ま、真剣な話、祐介と幸奈ちゃんには普通に会話するくらいにはなってほしいんだよ」


「……まぁ、それも気分が乗ったらな」


「それで、ゆくゆくは付き合いだしてダブルデートとかしたいんだよ」


 ……さっき言ったことを少し訂正しよう。春は良いやつなどではなかった。


「さっきの言葉取り消す。ウザい」


「なんだよーしてみたいだろ? ダブルデート」


「ありえねー。したいなら、どこかのカップル捕まえてしてこい」


「ちぇ、なんだよ。俺は祐介と幸奈ちゃんの二人としたいだけなのに……」


 春はただ昔みたいに僕と幸奈と一緒に遊びたいだけなのかもしれない。


 でも、だからってなんでダブルデート?

 その発想が可笑しい。


 春は賢いくせにたまに意味が分からないことを言い出す。


 ま、ダブルデートとかじゃなくて三人で遊ぶ……くらいはたまにはいいかもしれないな。

 まだ幸奈に話しかけていた男子とそれにいつものように作り笑いの笑顔で頷いている幸奈を見ながらそんなことを思った。

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