断固抗議します!
「総督に御目通りを」
ようやく石造りに改装された総督府の廊下で、怒気を帯びた声が上がる。その声を無視して歩き去ろうとする役人になおも食らいついている変わったスカートの女性。他ならぬアイリ・コッコその人である。
「総督はお忙しいと何度言えば……」
「お忙しいならこうもやすやすと徴税逃れの言い訳に使われないでいただきたくってよ。それとも、総督は国王様に届くべき富で私服を肥やすおつもりなのかしら?」
「無礼だぞ!」
どこからともなく怒鳴り声が飛ぶ。扉の中からアイリめがけてインク壺が飛んだが、体を少し反らせただけでそれは白い壁に割れてあたりにインクを撒き散らした。
アイリはそちらをきつく睨みつけるが、その隙に歩き去ろうとする役人に気づき、なおも駆け寄って食らいつく。
「そもそも総督府に認められた徴税権は事業税と関税だけですわ! 貴族階級の御領地の税は財務局の領分です! それをもう何件総督の特認だと断られたことか! 全額、金貨にして127枚分を総督にお建て替え願いますわ!」
アイリが新大陸へ渡ってようやく8ヶ月が過ぎたとき、11の貴族が総督の特別認証とかいう詳細不明の免状で春の徴税を拒絶した。それまで真面目に職務に取り組んできたアイリにとってそれはまさに晴天の
「いいですこと? この大陸ではいま私が財務局長とお思いなさい! 総督と同格です。案内なさい!」
「はぁ……女がうるせぇなぁ」
「いまなんとおっしゃいました?」
「ちっ」
その役人の胸にバッヂはない。アイリはただそのバッヂをつけているというだけで、その役人たちよりいくつも上の立場にあるのは事実だった。そしてそれらの人々は、女性の方が身分が高い状態に直面した経験がほとんどなかった。
「おやおや、なんの騒ぎかと思えば……」
わざとらしい物言いで階段を降りて現れた人物に、アイリの顔はひきつる。登庁するためにヒゲを整え、いつもより一段と紳士めいた赤髪の軍人が帽子をとって一礼する。
「カレルヴォ大佐……なぜこちらに?」
カレルヴォ海軍大佐はこの8ヶ月を通じて、完全にアイリの弱点と化していた。人によっては大佐を通じてアイリに話を持ってくるほどで、アイリと大佐は親しいと噂されたり、あるいはアイリの態度から犬猿の仲と噂されたり、最も有力な説では恋人と噂されていた。
その実態はといえば、実はアイリ本人にもよくはわかっていなかった。それでも大佐は変わらずアイリの本当の姿について口を滑らせることもなく、相変わらずの優しい微笑みでアイリを社交界のパーティに連れ回したりしていた。
「総督と会談をしておりましてね、ミセス。軍の
アイリは歯噛みする。小うるさい女性を
「……そういえば大佐は総督と
ようやく
そのことを船で聞かされていたアイリは、その
「ちょうど私から総督のお耳に入れていただきたい話があるのですけれど」
アイリは勢いに任せて大佐に詰め寄る。しかし大佐は素早くアイリの腰に手を回しながら、いつもの妙に慣れた調子でアイリをいなすと周囲に聞こえるように話題を奪う。
「なら私からもお耳に入れていただきたい話が、ミセス」
「ちょっ、大佐!」
アイリが逃れようとすると、右腕を抑えられて腰をそれとなく強く押し出される。やむなく数歩それに従うと、大佐はわずかに顔を寄せて
「あそこで
大佐のささやくような小声にアイリは何も言えなくなる。言われるまでもなくアイリ自身もそれはわかっていたが、追い込まれたアイリにはそれ以外にできることもなかったのだ。
いつでもアイリのことを考えてくれる大佐には、やはりまったく頭が上がらない。それで大人しく外まで連れ出されたアイリは、大佐なりの配慮に礼を述べる。いつも礼を言ってばかりで、どうにもバツが悪い。
「いえ、ミセス。私はあなたに特別の配慮をしているわけではありませんから。ですから、総督特別認証についても私にできることはございませんな」
「大佐! 感謝して損しました」
腰に手を当てて
「おや、私を
「違います! はぁ……本当にずるいお人ですわ」
アイリの考えていることも何も見通したように、いつも余裕
実のところ、その罪悪感の理由はよくはわからなかった。話に聞けば、大佐は年下の奥様に先立たれてしまったという。その大佐を自分が惑わせていることへの罪悪感なのか、はたまたミセスを
「総督にもお考えがおありでね。中流以上の貴族の移住を促し、新大陸の開発資金を集めたいそうです。あのご様子だと、向こう2年はお続けなさるでしょう」
「2年!? そんなに財務の顔に泥を塗られたら……」
アイリの顔はみるみる青ざめる。表情の豊かさに呆れながらも、大佐にも同情するところはあった。
「しかし私は交渉する立場にありませんからな。総督も財務の怒りを買うとわかって実行したのでしょうから、当然、面会も謝絶になるわけです」
もはや
「私の知る事情はこれまでです、ミセス」
はっきりとミセスと呼びかければ、アイリの中のミセスの仮面がまた浮かびあがってくる。一度アイリの口が閉じると、その表情は温度を取り戻した。
「……財務局長との会談を整えますわ」
「お言葉ですが、財務局長がこちらへいらっしゃるにせよ、総督があちらへいらっしゃるにせよ……」
「……そうですわね、とても実現できそうにはありませんわ」
局長級の会談による解決が図れないのならば、もはやこの問題を解決できるのは国王陛下より他にない。しかし上奏は国王の治世が乱れていることを示すとも言われ、決して好ましいことではなかった。
「物事は筋道通りに考えると、かえって
「大佐……いまの肩書きは臨時所長です」
「……そうでした。軍なら2度死んだような出世とか」
勤続2年での異例の大出世は、結局誰も新大陸に来たがらなかったという事情が関わっていた。こっそり添えられた臨時という言葉の力は凄まじく、実際に増えた給料はごくわずかだった。その代わりに、春の徴税の執行責任者という給与にまったく見合わない面倒ごとがアイリの幸福な測量生活をめちゃくちゃに破壊した。
「その通りですわ。今となれば、これから2度殺すという予告でしたのね」
大佐の乾いた笑いに自分も乾いた笑いで返す。そうでもしなければ、この過酷すぎる人事を受け入れることはできなかった。
「ひとまず状況はわかりました。感謝いたしますわ、大佐」
アイリは例の変わったスカートの裾をつまんで振ると、頭を下げて馬車へ向かおうとする。
いくら面倒ごとを押し付けられた身とはいえ、この難題をただ報告して回答を待つようでは、およそ技術官としては能力不足を認めるようなものだ。眉間に寄せていた
少なくともこの情報があれば報告書で本国に状況を知らせることはできる。あとは総督を捕まえる策を思いつきさえすれば、この問題について財務との交渉テーブルにつかせることもできるかもしれない。
「お待ちください、ミセス。私からもお耳に入れたいお話があります」
「あら、なにかしら?」
振り向いたアイリのもとへ2歩歩み出ると、大佐は急に片膝をついて、
「この度の舞踏会に私のパートナーとしてご出席いただけませんか?」
「……へ?」
覗き込まれたアイリの顔は、らしくもなくみるみる上気してしまった。
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