ヴァルタサーリ夫人の舞踏レッスン

新女性よ

 ダンスフロアの壁際に、着飾った男女が並ぶとはいかなかった。立ち並ぶ衣装も色とりどりの花とは及ばず、立ち姿の多くもおよそ貴族として相応しいものには見えない。


 主催者としてそうした光景を見渡して、白髪のヴァルタサーリ伯爵は不満げに鼻を鳴らす。


「まったく、新大陸にはろくな貴族がおらんのか」

「せっかくいらした方々に失礼ですよ」


 同じく白髪の伯爵夫人がすぐにたしなめる。


「あちらのリュティ家のご令嬢れいじょうなどはお美しゅうございませんこと?」


 二人の視線の先にいるのは、明るい紫のドレスに身を包んだソフィア・リュティの姿だった。そのかたわらでは婚約者で辺境伯の子息というマティアス・サルマントがエスコートし、美男美女のダンスは会場中の注目をさらっていた。


「まぁ……な。しかし、そのほかは町人の娘ばかりで、踊れもせんではないか」


「お誘いを断りにくかったのでしょう」


「ならせめて練習してから連れてこいということだ」


 白髪の夫婦はいつもこの調子だった。ぼやき続ける伯爵に横から妻が釘をさす。もう三十年続けたこうしたやり取りは、二人にとってほとんど呼吸と変わらなかった。


 ヴァルタサーリ伯爵は3組しか踊らないダンスフロアにとても目を向け続けることはできなかった。会場を静かに見渡し、曇った大理石の粗悪品にも見える石灰岩の壁に苦々しい視線を投げることに決めた。


「……王国を離れなければよかったな」

「ここも王国よ。素敵なところじゃありませんか」


  新大陸移住の噂が流れ始めたときから、ヴァルタサーリ伯爵の社交好きは知れ渡っていた。


 新大陸での屋敷建造ラッシュの只中で、あるとき始まったダンスフロア建築の噂が広まらないはずもない。アーチ状の屋根に吊り下げ照明、彫刻に天井画まで施したそのフロアには出会いとドラマチックな舞台を求める新大陸の若い貴族たちの話題の的となっていた。

 しかし実際に舞踏会を開いてみれば、それはどうにも格好のつかない小規模なものにおさまってしまった。人々が求めていた出会いと刺激的な社交世界は、およそ海の向こうにしか存在しえなかったのかもしれない。


「素敵だろうな。男ばかりで色目も使えて引く手数多あまただ」


 伯爵夫人はすでに何人かの紳士とともに踊っていた。そうでもしなければ、踊れない庶民の娘や召使いばかりの会場で、若い貴族たちが一通り踊ることなど到底不可能だった。


「あら、ご嫉妬かしら? 嬉しいわ」

「ふん……」


 それでも、先に新大陸へ降り立ち、夫を歓迎するダンスパーティの用意を進めてきた伯爵夫人には勝算があった。成功の一翼を担うのは、見目麗しいソフィア・リュティだった。すでに伯爵の目にかなった彼女は、よく見える位置でその婚約者フィアンセとの愛が伺える踊りで華を添えている。


 とはいえ、たったひと組しか目を引く令嬢がいなければ、パーティもさみしくはなる。しかしもうひと組、間違いなく伯爵に新大陸のなんたるかを示す男女が現れる手はずになっていた。


 曲が終わり、拍手を受けながらマティアスとソフィアが頭を下げる。その姿には多くの羨望が集まり、集まった娘たちはこぞって自らの夫にふさわしい淑女を目指して貴族教育を受け入れるはずだった。


「そろそろいらっしゃいますわ。私が一番好きながいらっしゃるの」


 人々の間から、ひと組の男女がダンスフロアに進み出た。一人はその出で立ちから軍人とわかる。しかし伯爵の目を引いたのはその軍人が連れた女性だった。

 紺色に染められた上質なシルクのドレスは、本土では見たことのない変わった仕立てになっていた。腰のラインが浮き出た細い輪郭りんかくに、ひざの上から斜めに切られて広がったプリーツ。金糸の刺繍ししゅうでも仕込まれているのか、揺れるたびに光がチラチラと反射する。

 本土ではまず見ることのないそのミステリアスな淑女レディに伯爵は言葉を失った。


「驚きまして?」

「なんだ……あんな女性は見たことが……」


 伯爵は二人の構え姿と、何よりその魅惑的な女性に釘付けになっていた。美しい曲線の先で斜めに広がるスカートが一つ踊るたびに華やかに開き、その健康的なふくらはぎをのぞかせる。

 その姿は享楽的に誘うようでありながら、鋭い気品で突き放すようでもあった。ダンスをしているだけで、それを見る男心をもてあそぶかのように。


「あのスカートは? 見たことがない」

「あの人のためのものですわ。名前をとってコッコ・スカートと呼んでいます」


 ミセスのしなやかな曲線美と、長身の大佐による可憐なダンスは会場を瞬く間に魅了する。一度ならずあの謎の貴婦人にあしらわれた経験のある若い男たちは、色気に満ち溢れたカレルヴォ大佐への敗北感に打ちひしがれてもいた。


「私もあの姿で踊るのは初めて見ましたわ。初め会ったときは、普通のドレスをお召しになって」

「ああ……あれは眩惑げんわく的だ」

「ふふ……私も鼻が高うございますわ。きっと2週間前のミセスなら、そうはならなくてよ」


 意味ありげな伯爵夫人の微笑みに、伯爵は眉をひそめる。


「どういうことだ?」

淑女レディの輝きは1日にしてならなくってよ」


 ミセスと出会ってからの2週間は実に有意義なものだった。半人前だったミセスはみるみるうちに淑女レディのなんたるかを学んだ。2度目に会ったときに見せた涙を蓄えた瞳も、これからもう一度見るのは難しいのかもしれない。まるで娘を晴れ舞台に送り出したようで、伯爵夫人はその澄んだ瞳を潤ませた。


 しかし伯爵夫人にはまだ最後の仕事が残されている。


「さて、3人目の淑女レディもお披露目しなくっては」


 伯爵夫人は自信たっぷりに言う。伯爵は会場を見渡すが、令嬢と呼べる歳の女性は他に見当たらない。他に踊れるのは一部の階級の高い軍人の夫人たちだけだ。


「まだ隠しているのか。新大陸も知らぬ間に賑やかになったものだな」

「あら、お気づきにならなくって?」


 伯爵夫人は夫の腕をとる。


「私がいるでしょう? それとも、もう女に見えなくって?」


 白髪の伯爵夫人は、丸く透き通るような瞳で夫を誘惑した。その顔にもシワがあるとはいえ、肌はよく張って、微笑めば人を惹きつける魅力が溢れている。


「お前は変わらないな」


「変わってしまったら、おばあさんになってしまいますもの」


 一曲踊り終えたミセスたちは、喝采かっさいの中に頭を下げ、自分たちに続いて現れた主催者たる伯爵夫妻を迎え入れる。主催者がダンスフロアに出るとあって、周囲からは先ほどより一層大きな拍手が起きた。


「新大陸へようこそ、ヴァルタサーリ伯爵」


 通常の社交界のマナーに反し、ミセスが先に挨拶をする。


「実に美しいお方だ。ご夫婦ですかな?」


 ミセスと呼ばれていた女性はひらりと口元に手を当てて笑う。


「いえ、大佐は私などには勿体無いお人ですわ」


 大佐と呼ばれた軍人が小さく頭を下げる。


「まったくです。では伯爵夫妻、ご挨拶は改めて」


 長身の軍人の顔を見る限りは、ミセスよりはるかに年齢が上のように思われた。しかし二人が並ぶと不思議と年齢差を感じさせない。

 その非の打ち所のない背中を見送る伯爵に、夫人が耳打ちする。


「新女性よ」


 伯爵は目を丸くする。


 新女性。


 その言葉で伯爵は全てを理解した。男性よりも先の挨拶、まるで自らが全ての主人かのような眩惑げんわく的な姿勢、年齢も把握できないほどの余裕と気品……その全てが紛れもなく、社交界にとって一つの嵐だった。


「……なるほど。これから社交界も変わっていくのだな」


 伯爵夫妻は互いの手を重ね、体を寄せる。


「そうでしょうね。……ふたりで見届けませんこと?」


 穏やかなワルツ曲の演奏が始まる。伯爵夫妻は少しだけ互いの体を近づけた。


「ああ、それがいい」


 二人の優美ゆうびなステップが重なる。


 新大陸の夕べ、真新しいダンスフロアに刻まれるのは、たしかに新しい一歩ステップだった。




 ……しかし、物語はその2週間前にさかのぼる。

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