うっほぉ、岩壁うっほぉ!
道ゆく乙女が何に
「うほぉぉ、いいね、いい
ポーチから小型のハンマーと杭を取り出す。地質調査のお供を握ると、アイリの心に風が吹き込むような心地がした。
カツカツと筋目に合わせて杭を打つと、筋に沿って岩が剥がれる。草をかき分けて落ちた石を拾い
「きみチャートかぁ。こんにちは、私はアイリ・コッコ。……うぅん、こりゃ厄介だ」
チャートは岩石の中でも硬い部類に入る。この地層を切り開いて道を通すともなると、切り出したチャートで作りたいものでもない限りは割に合わない。
石灰岩地層なら大理石も見つかったかもしれないが、いよいよもって建築資材に不足しそうな大陸である。
「測りたい……」
左右には断層崖が続いている。逆に言えば、この断層崖沿いに道を作れば、陸側に初めから強固な壁があるということになる。それが軍事的とか都市計画的に良いことなのかはアイリにはわからないが。
アイリは愛しの岩壁に手を当て、それに沿って歩き始めた。指先に岩は冷たく、心地よい。
実を言えば、王都出身で技術官としてのキャリアもまだ2年目のアイリにとって、本格的なフィールドでの調査はこれが初めてのことだった。1年目に書物で見た地層類の識別を実際に行う研修めいた調査は経験していたものの、それは図鑑を読むのとあまり変わらない経験に思われた。
もとよりアイリは街中で建築資材の岩石を識別するという趣味を持っていた。王都ともなれば採石場も限られていて、物によってはその表面だけで採石場まで当てることができたほどだ。そんなアイリにとって、退屈極まる研修は記憶に薄く、眼前に広がった未知に興奮するのもやむないことだった。
どこにデュオプトラを置き、どことどこを最初の測位点にしようかと空想する。それだけで、この巨大な岩盤の上にいくつかの三角形が重なって、地形が三角網の中に集約されていく。
そしてアイリ・コッコの頭の中で美しい地図が描かれ始める。それを実際に描くのはそう遠くない未来だ。
そう考えていたとき、茂みの中に音を聞いた。
◇◇◇
ちょうどそのころ、カレルヴォ大佐は茂みの中に捨てられたオレンジの皮を見つけていた。
「まったく困ったものだな、姫様ときたら……」
大佐は
(たしか副総統に言っていた岩壁はこの辺りだったはず……)
内陸の計測は明日以降の予定だったのだが、あの様子だととても耐えられそうにはなかった。
海賊は制圧済みとはいえ、野盗や魔獣に遭遇する可能性は十分にある。といって、他の兵を引き連れて捜索するほどは遠くにも行っていないと考えていた。
「ミセス? 岩なら明日まで
少し進むと、次のオレンジの皮が落ちている。
「はぁ……まるで子守りだな」
大佐はため息交じりに首を振る。
そのとき、悲鳴が聞こえた。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
◇◇◇
遠くの茂みが揺れたかと思うと、木々をかき分けて何かがアイリめがけて走り込んだ。
右手に調査用の小型ハンマーを持ったままだったアイリは、
しかし茂みから現れた二つの牙を前にできたことといえば、ただ飛びのいて悲鳴を上げることだけだった。
岩壁にぶつかってよろめきながら立ち上がるその巨大生物は、アイリの見立てではネコ科に違いなかった。しかし肥大化した牙と脚は、どんな図鑑にも記されてはいなかった。
(魔獣!)
魔原石やそれに類する魔力の影響を受けて突然変異した個体を魔獣と呼んだ。アイリがそれを目にするのは初めてのことだったが、どうやらそれを最後にアイリの人生は終わるようだった。
「やだっ!」
アイリが投げつけたハンマーは魔獣の額に当たったが、相手がそれでノビるなど期待すべくもない。
慌てたアイリは茂みに向かって駆け出し、木に身を隠す。相手は不用意に飛び込むこともなく、数メートルは離れて回り込み、アイリを再び岩壁に追い込もうとする。
左手が
「これ全然意味ないじゃない、先生……」
ジリジリと間合いを詰める相手に、アイリは周囲を確認する。次に身を隠せそうな木を見つけて、間合いをとるために走り出す。
しかし魔獣もその機を見計らっていたのか、ほとんど同時に走り出した。
アイリの背に魔獣の息遣いが聞こえた。観念したアイリは足を止め、
(怖い怖い怖い……)
体重を乗せなければ貫けない。腰を引かずに
横合いから白刃が光った。
魔獣の肩に湾曲した刃が光って、魔獣はアイリの前に倒れた。
「間に合いましたね、お姫様」
大佐の投げた
「便利なものをお持ちだ。私の剣は今ので歪んだでしょうから。失礼」
大佐が屈むとアイリの体は持ち上げられ、大佐の肩にかけられた。
「ちょっ! ぐえっ! 危ない!」
「動かないでください。魔獣というのは回復力が尋常ではないんです」
大佐は来た道に駆け出した。その背で首を起こして見ると、左前足に動けないほどの深い傷を受けたはずの魔獣は、そこに剣を突き刺したまま立ち上がろうとしている。
「ひっ!」
その様子に息を飲むと、大佐はさらに足を早めた。
「会敵! 刀を抜け!」
耳を押さえたくなるほどの大声が辺り一帯に轟いた。
茂みから陽の当たるビーチに飛び出す。アイリの体はまた軽々と持ち上げられて、砂浜にまっすぐに降ろされる。左右にはついさっきまでデュオプトラに記録用紙を持っていたはずの海兵たちが、すでに抜刀していた。
自分が立っていることにも気づいていなそうなアイリの顎が大佐の手で引き上げられる。アイリの目は恐怖に開ききり、いまにも子供のように泣き出しそうになっていた。
「もう大丈夫です。お気をたしかに。あなたはミセスなのでしょう?」
大佐は誰にも聞こえないようそう
すでに大佐は振り返ってその背を見せていた。
「相手は魔獣、肉食型1。素早いぞ! 少尉が気を引いて残りで討て!」
「はっ!」
その一声だけで、兵たちは陣形を変えた。砲術士官や航海士ばかりというから、銃士隊ほどの訓練は受けていないはずだ。しかしその動きにはためらいがない。前に出た少尉に及んでは、相手が魔獣と知っても足も震えずに先頭に立つ勇気が、アイリには理解できなかった。
陣形が整った直後、肩に剣が刺さったままの魔獣が草木を蹴り飛ばして姿を現した。先頭の少尉は身を
しかしその傷は緑色の光に包まれ出血すらしない。噂に聞く魔獣の回復力を初めて目にした。
着地から1歩とかからずに魔獣を身を返してもう一度少尉を
背に刀身を食い込ませると、二人は魔獣を
「まだだ、首を落とせ」
「はっ」
上陸艇から駆け寄る男の手には大斧があった。この兵は測量に参加していなかったはずだ。上陸艇の船員と思っていたが、別の理由があったらしい。
魔獣の四肢にさらに刃が振り下ろされる。屈強な兵士が数名で動物をいたぶる様は、アイリにとってこれまで見たいかなる光景よりも
その最後に、大斧を持った男がぐったりした魔獣の首元に近づき、斧を振り上げた。
アイリは魔獣の最期の瞬間から目を逸らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます