おいしゅうございますこと!
それから測量は
船室は先日総督も利用したものと聞いていたが、それはずいぶん小さな小屋のような空間だった。テーブルの一つも置くことができず、計算をする際には航海士の作業部屋を利用しなければならなかった。
もちろん、それはまた男たちの目に身をさらすということでもある。
つまり淑女ミセス・コッコを演じなければならないということだ。
はじめの3日間こそそれに耐え忍んだが、4日目にはついに作業室に赴かず、ベッドの上で波のリズムで揺れるに任せて目を閉じて時間を過ごすようになってしまった。
それでも、食事もとれないこの部屋に
朝食へ向かい、カレルヴォ大佐の話に付き合い、測量へ
結局それから計算をする気力など残っているはずもなく、投げ捨てられた棒のように、
それでも部屋を一歩でも出れば、ミセスとして振舞うことだけは欠かさなかった。だからアイリの疲労に気づく者はなかったし、むしろ新大陸に二人とない美しい女性を前に無配慮にも目の保養とほくそ笑む
5日目には、そうした
「みなよく動くようになりましたな」
浜辺の木陰で頭を押さえていると、例によってカレルヴォ大佐が声をかける。
「本当に覚えが良くて助かりました。体調がすぐれない
外していた帽子を頭に乗せて前髪を整える。目を閉じて息を整えると、その表情はミセスのものに成り代わっている。
「海に慣れないと疲れが出ますからな。果実でも持って来させましょうか」
「お気遣い感謝しますわ。でも、女だからとそう特別に扱われても、国王様の男女同権思想にもとります。今しばらく休んだら戻ります」
アイリの望みはフルーツでも水でもなく、ただ一人の時間が欲しいというただそれだけだった。この際いっそもう少し内陸で魔獣を警戒しているという傭兵団の元まで逃げてしまった方が気楽かもしれないとまで思ったほどだ。
「誤解されないよう申し上げておきますがね」
初めからそのつもりだったのか、背中に隠していたオレンジとナイフを取り出すと、ヘタを一息に切り落とした。大佐は皮ごと切れ込みをいれながら話を続ける。器用な仕事もできたものだと、ぼんやりとその手を見ていた。
「私は女性として
一切れを切り分けて、大佐はオレンジを差し出す。アイリは何も言わずに受け取って、両手で持ってそれを口に運んだ。
そのみずみずしい香りにアイリは目を丸くした。王都で食べたものより美味しいものを、新大陸で初めて口にしたかもしれない。
「船員の中には女にうつつを抜かしてと
大佐がオレンジを切り分ける手を止めてしまう。
「客人をもてなすのがですか?」
アイリが皮を放ったのを見て、大佐は次の一切れを切り出した。
「いえ。社交界のマナーを乱さぬようにしながら、女性を特別に扱わないということがです。たとえば……」
ナイフを切り出したオレンジの背に突き刺して左手の指に挟むと、大佐は右の
慣例にのっとって、アイリはその手に左手を軽く乗せる。
「男女の間のマナーとして知られておりますな。しかし断じてあなたの手に私の手が乗ることはない」
そこまで言って手を下ろすと、ナイフに刺さっていたオレンジを取り外してアイリに差し出す。当然、アイリはそれを何も考えずに受け取って両手で口元に運んだ。
「この態度をとれば、私はあなたを女性として遇することになる。同時に、あなたがそれを要求すれば、あなたは私を男性として遇することになります」
社交界のマナーは性別を前提にして
少なくとも、いま次のオレンジばかりを見ていることを除けば。
「つまり、船員たちはもちろん、私自身も知らないのですよ。どのようにして共に働く仲間として女性を迎えるのかをね」
大佐の話はオレンジに比べればメリハリに欠けていた。アイリは自分の頭痛の種である
アイリにとってみれば、自分がエスコートされるとかされないとか、そういったことでは何一つ苦心していなかった。ましてや、倍も年の差があるだろう大佐が自分に恋心を持っているなど、噂にしてもあまりに愚かだと考えていた。
だから今は、その予想外に美味しいオレンジを食べたいと思っていた。もちろん、それを口に出すのはミセスの虚像に反することは了解している。
これといった反応を見せないアイリに、カレルヴォ大佐は肩をすくめた。
「あなたを見ていて、男女同権の課題の多さを思い知りましたよ。同じ場にいれば、男性は男性として振る舞おうとしてしまうし、女性は女性として振る舞おうとする。こればかりは
大佐の率直な言葉に、アイリはカレルヴォ大佐の印象を改めた。これまでの印象では「功名心の少年が成長した紳士」という、本人が聞けば苦笑いを禁じ得ないものだった。しかしここにきてようやく、アイリはカレルヴォ大佐という人物を個人として記憶しておくことに決めた。
とはいえ、大佐はまったくアイリの心痛を勘違いしていることだけは確かだった。アイリは大佐の色恋の噂話に
「ご心労察しますわ。その言葉をお聞かせいただけてよかった」
頭痛に耐えながらも、アイリは微笑んだ。しかしアイリの本心はなおも不満を抱えていた。どこか一人になれる場所と十分な時間が欲しかった。新大陸での初めての長期出張で、さっそくミセス計画は
「もう一切れいかがですか?」
「ふた切れほど」
大佐はいつもの柔らかい笑みを見せて、素早くふた切れを切り出した。
両手にオレンジを受け取ると、アイリは口を開く。
「大佐、私は少し外します。ここで人が寄らないように見ていてくださる?」
その言い方は、このところ何度か使っていた小用の合図だった。周囲100mには男ばかりがいて、その只中で囲いもなく小用を足すのはアイリにとって最も屈辱的で恐怖を伴う行動だった。
といって、これまでのところこの方法で問題が起きたことはない。細かいところで紳士としての配慮が感じられたカレルヴォ大佐にこう言えば、まずうまく取り計らってくれた。
しかし今回は、アイリはただ一人になる時間が欲しくて同じ言葉を使ったにすぎなかった。信用を裏切る行為かも知れなかったが、アイリにしてみれば一人になれる時間はもはや食事や排泄に匹敵する重要度を持っていた。
カレルヴォ大佐は何も言わずもう一度オレンジにナイフを入れ、背を向けて立った。
その背中にアイリが茂みへと進むガサガサいう音が聞こえる。
いつもより妙に奥へ進むものだなという考えは大佐の脳裏をたしかによぎった。それに、オレンジを両手に持って行かずともよいだろうにとも思っていた。しかしなんにせよ、振り向いて一大事を招くより、大佐が選んだのはオレンジの次の一切れを切り出すことだった。
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