はやく測りたくってよ!

 という迷信は、幸いにしてこの当時は聞かれなかった。むろん、そんなものがあったとしても、ヒューティア王国の臣民しんみんたちはむしろ迷信を捨てることを選んだだろうが。


 ともあれ、アイリはクイーン・マリアーナ号に乗船した。


 人生で1度目の船旅が新大陸への遠洋航海だったというのもアイリの冒険心をよく表している。しかし2度目の船旅が王国最強の軍艦での旅になるとは、いよいよアイリ・コッコの数奇すうきな運命を感じずにはおれない。


 小型船から沖合で軍艦へ乗り換え、のどかな航海がはじまった。クイーン・マリアーナ号を大きく囲むように展開した護衛艦は海賊船や海獣を索敵さくてき威嚇いかくして遠ざけている。


 それゆえなんの戦闘も予定されていない甲板には、テーブルクロスのかけられたティーテーブルすら置かれていた。船上で飲めるように縁の高いカップに注がれたのは、副総督が飲んでいたものに比べると見劣りする黄味がかった紅茶だった。


「ご出身は王都ですか?」


 到底とうてい望まないことだったが、客室など存在しない軍艦において、アイリはそのほとんどの時間をカレルヴォ大佐と過ごさなければならなかった。


「はい。そう身分の高くない貴族の出で、あちらでもほとんど知られておりませんわ。もちろん、今の家名であるコッコというのもあまり知られてはいませんけれど」


「はっはっ、そう申されてはご主人にこくではありませんか?」


 用意された焼き菓子に初めこそ心が踊ったが、その一つを食べてみて、アイリはそれっきり手に取るのをやめてしまった。新大陸では何かが不足しているのか、その味は明らかに本土に劣っていたのである。

 大佐はアイリの代わりにそれをひとつまみ上げて口にする。


「たしかに夫の家名ですものね。しかしそうも思っていなければ、海を越えてまで逃げてまいりませんわ」


 やむなく紅茶を口にするが、その風味も王都には明らかに劣っていた。


「そのわりには、ネックレスをお外しにならない。技官ということは科学主義でしょうし、そう敬虔けいけんな方ともお見受けしませんがね」


「いえ、信仰は大切なものですわ。たとえ科学があろうとも」


 大佐はアイリの返答にまた柔らかく短く笑う。

 その笑いは出会ってからすでに何度となく見てきたが、いったい何を笑っているのかはわからなかった。女性の相手をして上機嫌にでもなっているのだろうかとアイリは適当に考えていた。


「しかし、その家名があまり知られていない時代もここまでですな。物怖じせずに新大陸におもむ大業たいぎょうを成した女性として、ミセス・コッコの名は歴史に刻まれることでしょう」


「そういう見方もありまして? 私は一介の技術官ですから、名など残るはずもございませんわ」


 大佐は自らの紅茶を口にすると、それまでの笑いを含んだ柔和な表情を引き締めた。


「そうでもありませんよ。男女同権を掲げる王国として、どうしてあなたのような女性を象徴とせずにおれましょうか。さながら男女同権時代を象徴する姫君ひめぎみのように扱われましょうな」


「大佐、お忘れでして? もうそう呼ばれるような歳ではなくってよ」


「失礼。しかしそうなっていただければ、私の名もようやく歴史に残りましょう。いかに大佐となろうとも、総督のように地名にはなれますまい。その点、今回の地図事業のご案内ができるともなれば、いずれ私の名も書物に書かれるでしょうからね。アイリ・コッコ女史のとして」


 どうやらカレルヴォ大佐は本気だった。アイリの目にもその膨れ上がった功名心は透けて見えた。名を残すことへのこだわりは、およそ軍人が持ち合わせている特徴でもある。

 もちろんカレルヴォ大佐には、すでに新大陸沿岸部の平定戦での活躍という軍事的な大功績があった。しかし皮肉にも、その活躍はこの海域から海賊退治以外の任を取り払ってしまってもいる。

 今や王国第一の戦艦の船長となったものの、その強力な戦艦を駆って名を挙げるべき海戦が勃発ぼっぱつする見込みは少なかったのだ。


 アイリは大佐のことをと思っていたが、その印象は変わりつつあった。自分の倍は生きているかもしれないこの男でさえも、アイリの知る幼馴染の少年たちと変わらず、名を挙げることに夢を見る少年に違いない。


「では、必ず良い地図を仕上げなくてはなりませんね」


 アイリが記憶しているやりとりはここまでだった。


 波に揺れる船体のへりに見え隠れしていた海岸線に、目立つ岩を見出したのである。見渡せばまた一つ岩壁が見え、大陸の膨大な広さを感じることができた。


 アイリは自らの椅子から二つの岩に心の線を描き、その角度を測っていた。その線の間に挟まれて、カレルヴォ大佐は焼き菓子をもう一つ口にしていた。その視線がアイリを捉えていることなど、むろん気づくはずもない。


(だいたい55度くらいかしら……? この船の喫水線は……?)


「王都の他には訪れたことがおありで?」


「ええ、まぁ」


 微笑みながら適当な相槌あいづちを打つ。大佐が何を言ったのかもほとんど聞いていなかった。微笑みの裏側でアイリが考えていることといえば、ただ計算がしたいというそれだけだった。

 大佐の後ろで波に見え隠れする海岸線を見ながら、目立った地形を二つ見出しては角度を想像した。しかし計算尺も紙もないティーテーブルの上では、アイリの願望を果たすのは難しい。


 そうした気の無い返事をいくらか重ねてしまったことに気がついたとき、やはりカレルヴォ大佐は柔らかい笑みを浮かべていた。


「……本国に戻った折には是非、ご主人にもご挨拶を。私の邸宅にお招きしましょう」


「はい。戻った私を主人が受け入れてくだされば……」


 実在しない主人に言及するたびに、そんな人が本当にどこかにいるのではないかと思えてしまった。しかし想像してみても、その顔はもやのようなものに包まれて判然としない。当然のことだった。


「心配には及びませんよ。ご主人もあなたを誇りと思うでしょう」


 大佐が紅茶を飲み終えると、ちょうど船員が声をかけてくる。


「失礼します。船長、そろそろ到着します」

「上陸艇の用意を。ミセス、陸へ参ります」


 カレルヴォ大佐は立ち上がると、うやうやしく礼をして手を差し出した。アイリはエスコートを受け入れる。


「道具と希望者は揃っていまして?」


「はっ、すでに運搬を始めております」


 大佐が答えるより先に伝令が答えた。大佐は「結構」とだけ言ってアイリを昇降台に誘う。


 船からせり出すように取り付けられた昇降台は、鐘楼しょうろうの階段とは比にならない恐怖の技術だった。ただロープで吊り下げられた籠に立って、船員たちがそのロープを下ろすに任せて、なすすべなく海へと降ろされてゆくのだ。

 乗ってしまえば大佐の手も離すのが礼儀ということもあって、アイリは誰にも見られぬようさくを握りしめた。それでも、もしロープが切れたらと思うと生きた心地がしない。


「ご心配なく」


 ロープを見ていたのに気づかれたのか、同乗するカレルヴォ大佐は小声で言う。他の兵に気づかれる様子もなく、アイリはその小さな配慮に感謝した。


「補助員はこちらで選別しました。学科優秀な航海士と砲術士官ばかりです」


 気を紛らすためなのか、今度は周りにも聞こえるように言う。


「すぐに仕事は覚えましょう。さて、こちらに」


 昇降台が止まる振動は、船員たちの配慮か最小に抑えられていた。安堵して柵を手放そうとしたちょうどそのとき、その柵が上陸艇側に開いてアイリは後ろに仰け反った。


「わっ」

「おっと」


 カレルヴォ大佐は素早く腰に手を回してアイリを支える。アイリの方でもそのたくましい腕を掴んで体を支える。腰にあてがわれた手は、まるでそこに初めから腰支えがあったかのように硬い。


「ありがとうございます」

「ダンスはお苦手のご様子で」


 カレルヴォ大佐は軽々とアイリを起こすと、何事もなかったかのように先に小型船に降り立ち、手を差し出した。


「さてこちらへ。私がいない間の船の指揮は副官に任せてあります。私もともに地上へ。私自身も測量には興味があるのです」


「なるほど」


 急な接触にアイリの鼓動は幾分強くなっていた。今はそのことが指先から伝わらないことばかりを祈って、恐る恐る大佐の手の上に指を置いた。

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