ぜひそうしていただけて?
そんなことがあったにも関わらず、大佐は何一つ態度を変えなかった。翌日にはいつも通りに甲板でのティータイムに招待され、取り留めもない貴族たちの噂話や、かつての海戦の話など、アイリにとっては退屈な話を続けた。
しかし一つだけ変わったことは、美味しくない焼き菓子の代わりに、丁寧に切られたオレンジが並んでいたことだった。アイリはそれを次々に手にとって、両手で口に運んだ。紅茶の香りもいつもより良いように感じたが、その色を見る限り、それはアイリの勘違いだった。
「そういえば、こちらお返しします。念のため刃こぼれや汚れも確認しておきました」
会話の最後に、大佐はアイリがすっかり忘れていた
「お礼を申し上げておりませんでしたわ。ありがとうございました」
席から立ち上がって、アイリは深々と礼をする。
「男性だったら守らなかった……ということはありえないでしょうな。任務をこなすのが軍人というものですよ」
大佐は立ち上がってアイリの肩を起こし、席に座るように促す。されるがままに、アイリはまた腰を下ろす。
「オレンジを紅茶に入れて香りをつけるというものもあるそうですよ」
自分の席に戻りながら、大佐が興味深い情報を口にする。
「そうなのですか? こちらのオレンジならさぞ美味しくできるでしょうね」
「さあどうでしょうか。お試しになってみては」
そう言うと、大佐はテーブルの下からティーポットと
「そういうの
「客人には客人の喜びそうなものを用意するのですよ。……たとえば、港の名前とかね」
カップに注がれた紅茶からは、豊かな
口に運ぶと鼻のあたりに涙にも似た酸味が響く。
「ではヒスタミエス港と名付けたのは?」
「私です。総督のお気に召されるかと」
大佐はポットを置いた。自分に注がないあたり、まったくアイリのために用意したらしい。
「何日か過ごしてわかったのですけれど、大佐は抜け目のない方でいらっしゃいますね」
「さあどうでしょうかね。私もミセスの隙のないお姿には負けますよ」
「まぁ、お上手だこと」
アイリはようやく心地よさを感じ始めていた。大佐の後ろに見える景色も、数日のうちに地図に描き落とされるだろう。あの岸壁も、あの岩も、あるいはその向こうに見える崖も……。
「港は作れそうですか?」
大佐も海岸線を望む。大佐の目には三角網は見えなかったが、彼が手に入れるべき名誉は見えていた。
「はい。道を海岸線に通すのがよろしいかと」
チャートの岸壁は海岸線までせり出していたが、それを迂回するだけの幅はありそうだった。道の拡張に向かないのが気がかりだが、それこそ向こう30年はそれでも十分な輸送力を持つことだろう。
「報告は私から。総督はお喜びになるでしょうな」
「でしょうね。でも港は背中には隠せなくってよ」
大佐は初めて会った時以来の驚きの表情を見せ、いつもと違った笑みを浮かべる。
「地図なら隠せます。この大地を紙に描く。素晴らしいことです」
その言葉はアイリの胸を膨らませた。そのとき自分がどんな表情をしているか知れなかったが、アイリは力強く答えた。
「はい。地図はよいものです」
大佐はまたいつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「さてミセス、もう一つご相談が」
「何かしら?」
いい気分でオレンジの香りのする紅茶を口に運ぶ。大佐が思っていた以上に人柄の優れた人物だったことに全く感心していた。
「調査も半分ほど進みましたし、いち早い地図の完成のためには、財務の秘密という計算を一人で行える場をお求めではないかと議論になりまして」
「はい!!」
アイリの耳が立つような勢いの返事にも、大佐は調子を変えなかった。さながら、その反応を期待してたようでもある。
「我々もそれを盗み見れば問題になりますからな。であれば、怪しまれない状況を作るのが筋でしょう」
「是非そうしてもらえるとありがたいです!」
「ミセス。お言葉の乱れを他の兵に聞かれます」
大佐はいつもの優しい微笑みを浮かべながら、指を立てて鼻に当てる。
「あっ……し、失礼なすって大佐。是非そうしていただきたいわ」
「しばらく航海士の部屋をお譲りすることにしました。近海のみの航海ですから、彼らも仕事はそう多くないのです」
(一人で計算できる部屋!!)
アイリの目には星が飛ぶほどの喜びだったが、今はそれに両手をあげて跳ね回ることは許されなかった。必死に口を閉じて、鼻を大きく膨らませる。
「兵も近づかせないようにしますから、お気兼ねなく。一刻も早い地図の完成こそ、総督の望むことでしょうからね……紅茶を召し上がってください、ミセス」
カレルヴォ大佐がミセスと呼ぶたびに、アイリは背筋の伸びる思いがした。言われるがままに紅茶のカップを手に取ると、学んでいた所作を思い出して体がミセス・コッコを取り戻していく。
「本日の測量を終えて以降はそのように
大佐がそこまでを言うと、またしても折よく伝令が甲板を走って現れる。
「昇降台の用意が整いました。ご準備はよろしいでしょうか?」
「はい、参りますわ」
背筋を伸ばして立ち上がったアイリ・コッコは、非対称のスカートを揺らしながら、整った靴音を鳴らした。
「船長は?」
「今日は船で待つことにする。どうやら大丈夫そうだからな」
美しく整ったアイリの背中を見ながら、大佐はそう答えた。海兵はその視線を追って、ただいつもと変わらないアイリの背中に首を傾げた。
「ご体調が優れなかったので?」
「まぁそういうものだな。くれぐれも身を守って差し上げよ」
「もちろんです」
海兵は敬礼して、機敏な動作で向きを変えて駆け足に去っていく。船長の視線の先で、アイリは差し出された手を断って自ら昇降台に渡ると、優しい笑顔で見送るカレルヴォ大佐に向け、スカートの裾をつまんで小さく振り、穏やかに頭を下げた。
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