ⅩⅩⅧ 復活
あれから三日……イェホシアがドクロダの丘より文字通り
あの時はまさに奇蹟と呼べるものを目の当たりにし、彼を失った事実よりも感動の方が勝ってしまっていたのであるが、時が経つにつれ、あれがイェホシアの死を意味するものであったことを理解し、あまりにも早い、彼との永遠の別れが訪れたことを実感すると、強い悲しみや虚しさ、様々な負の感情が堰を切ったように溢れ出してくる。
そればかりか最高律院の審判において、死の恐怖から彼を見殺しにしたという後ろめたさを背負った彼らは、あれだけ強い結束を誇っていた他の仲間達と顔を合わせるのも居た堪れなく、自然と散り散りになってしまったのである。
もともとが縁もゆかりない王都ヒエロ・シャローム……イェホシアという帰る場所を失した彼らのほとんどは、別段、他に行く当てもなく、各々の故郷へと帰って行った……。
最初にイェホシアの弟子となった、ケファロとオンドレの兄弟もまた然りでる。
「……あれは、夢だったのだろうか……私は、本当にあの人のもとでともに暮らしていたのだろうか……」
ヒエロ・シャロームで使っていた小舟に乗り、ジャルダン川を下って故郷のガリール湖畔へ戻って来たケファロは、久方ぶりに漁へ出ると網を手繰りながら物思いに耽る。
あの最期の光景があまりにも衝撃的であったため、なんだか自分は今まで夢を見ていただけだったような、イェホシアという人物が本当は実在しない、自身の創り出したただの幻想だったような、そんな感覚にケファロは囚われてしまう。
「……いや、彼は……預言者イェホシアは紛れもなく実在した……それを私は……私達は見殺しにしてしまったのだ……」
だが、思い返してみれば、彼の語っていた言葉や彼と過ごした日々の思い出がありありと心の内に蘇ってくる……そして、実在した彼が死の危機に瀕した際、救いの手を差し伸べなかった自分達の行いについても改めて思い出すと、強い航海と罪悪感に再び責め苛まれ、ケファロは溜まらず網を握りしめながら、涙を浮かべてその上に顔を埋めた。
「……に、兄さん……あ、あれは……」
だが、その時、同じく心の内で自分を責めながら、打ち沈んだ表情で舟の櫓を操っていた弟オンドレが、何かを見てひどく驚いているように、震える声でケファロのことを呼んだ。
「…………!?」
その声に顔を上げたケファロも、弟の見開かれた目が指し示す方向へ視線を向けた瞬間、思わず唖然と固まってしまう。
「いやあ、久しぶり! …といってもまだ三日しかたってないか……」
そこにいたのは、死んだはずのイェホシアだった……特になんの不思議もないというように、土の上と変わることなくガリール湖の水面を平然と歩きながら、笑顔で手を振ってこちらへ歩いて来る。
「せ、先生………い、生きていらっしゃったんですね!」
弟アンドレが、驚きと嬉しさを以て最初に声をあげる。
「うんん。死んでるよ。だからほら、こんな風に人にはできないことも普通にできるんだよ。ま、私の場合、生前も悪魔の力でできたりしてたけどね、ハハハハハ…」
だが、イェホシアは笑ったまま首を横に振って、さらっとその言葉を否定すると、バシャバシャと水飛沫を立てながら湖面の上をまた平然と歩いてみせる。
「それでは、やはりあの時に亡くなられて……私達が、審判の際に先生を庇っていさいすれば……」
そんな本人の口から直に聞き、改めて彼の死を確信したケファロは、再び喪失感と罪の意識に責め苛まれ、石のような顔をクシャクシャにして涙声で激しく悔やむ。
「いや、だからこの前も言ったように、そのことで自分を責める必要はまったくないのです。もしも私を弁論していたら、私を救うどころか、あなた達まで一緒に処刑されていたことでしょうしね……それよりも、私が責めたいのは今のあなた達の行いです!」
すると、イェホシアは再度、首を横に振って彼らを慰めた後、不意に表情を厳しくして説教を始めた。
「同じく言ったではないですか! 自分を責めたり互いに争ったりはせず、皆で家族のように力を合わせて、どんな時でも〝神〟より預かった御言葉を広く人々に伝えていくようにと……それとも、あなた達は私を本当に殺すつもりなのですか?」
「こ、殺すだなんて、そのようなこと……」
強い口調で責めるイェホシアに、ケファロは真っ蒼い顔でふるふると首を横に振る。
「殺そうとしているではないですか! 神の御言葉を伝えることをやめ、せっかく広まり始めたこの預言の教えの火を途絶えさせようとしている……いいですか? 現世での私の肉体は失われましたが、私の魂は神の御言葉の中に生きています。この預言が人々の心より忘れ去られない限り、私はいつまでも生き続けるのです!」
そんなケファロにイェホシアは力強く、さらに説教を続ける。
「神の御言葉の中に……先生の魂が……」
「神の御言葉が忘れられない限り、先生はいつまでも生き続ける……」
「そうです。〝神〟より預かりし御言葉は、この世界に生を受け、〝神〟を求めて生きた私そのものです。そしてそれは、即ち〝神〟そのものでもあるのです。御言葉の通り、常に心に〝神〟を思いなさい。そうすれば、どんな時でも〝神〟の御心に添って生きることができ、〝神〟の中でまた私と会うことができるでしょう……」
なんとなく、イェホシアの言わんとしていることの真意に気づき、譫言のようにその言葉を繰り返すケファロとオンドレの二人に、彼の教えの根幹をなす〝神の御言葉〟を改めて伝えると、イェオシアは陽炎のような儚い存在となって、波紋の広がる湖面の上から静かにその姿を消した。
「…………そうだ。我々は何をやっていたのだ。これこそ、先生に対する裏切りではないか……オンドレ、私はようやく目が覚めたよ」
「ああ、俺もだ兄さん……戻ろう! 預言者イェホシアが奇蹟を起こした地──聖都ヒエロ・シャロームへ!」
また、同じく兄のティアコフとともにカナッペイウムの街に戻っていたイヨハンは、偉大なる師イェホシアを失ったあまりの衝撃から、日々、悪夢と恐ろしい幻視に悩まされていた……。
「――許されるわけがない……神の遣わされし
ここのところ、目を瞑ればずっと見せられている、恐ろしいこの世の終末を教える悪夢に心を蝕まれ、辻説法でもするかの如く狂気を帯びた顔でそう呟きながら、イヨハンはカナッペイムの街を行く当てもなく彷徨い歩いている……。
「神が七つの封印を解き、天使が七つのラッパを吹き鳴らす時、神と悪魔の最終決戦がはじまり、この地上は七つの禍によって蹂躙されるのであーる!」
「これ、おイヨはん……おイヨはんってば! そんなことないですから安心していいですよ」
だが、狂人を見るような市民達の目に晒されながら、最早、
「……っ! い、イェホシア先生!? い、いや、
振り返れば、それは生前となんら変わらぬ姿でそこに立つイェホシアである。イヨハンは驚きに血走った眼をさらに見開き、再び狂気の叫び声をあげる。
「いや、そんなんじゃないですから落ち着きなさい。イヨハン、あなたは本来、もっと理知的で賢い子のはずです。あなたが見たその悪夢のようにならないためにも、そんなあなたに頼みたいことがあります」
するとイェホシアは、興奮するイヨハンをなだめるようにそう言って、穏やかな笑顔を湛えながらある頼みごとをする。
「…………頼みたい……こと?」
「はい。筆まめでずっと日誌をつけてくれていたあなたには、私の説いてきた〝神の御言葉〟の教えを一つの書物にまとめてほしいのです。今後、私がいなくとも、私が〝神〟より預かりし御言葉が正しく伝わっていくように」
「わ、私が先生の教えをですか!? そ、そんな! 私なんかが滅相もない!」
「いいえ。あなたにしかできない仕事です。いいですね? しかと頼みましたよ? さあ、わかったらこんな所で油を売ってないで、早く行きなさい。あなたの家族達が待っておりますよ……」
尊敬する師に頼られ、ふと我に返って謙遜をするイヨハンに、イェホシアは重ねて頼み込むとそう告げて姿を消した。
「私が、先生の教えを……滅相もないことですし、自信もないですが……はい! やります! やらせていただきます!」
図らずも師に認められ、生きる希望と正気の頭を取り戻したイヨハンは、責任と不安のない混ぜになった複雑な表情を浮かべ、晴れ渡る頭上の空へ向かって大声でそう叫ぶ。
この後、彼の書き記したイェホシアの教えを基盤として『
はたまた、王都ヒエロ。シャロームにある、狩又屋のジョーセフという大商人の邸宅では……。
「――ああ、あなた……なぜ、わたくし
離れの部屋のベッドの上で、最愛の夫の死を受けて体調を崩した妻マンダーラのメイアーが臥せっていた。
故郷の村へ帰ることにした義母メイアー、義弟ジョコッホと別れた彼女は、同じくイェホシアの弟子で、実家のマンダーラ家とも付き合いのあったこの商人のもとを頼っていたのだ。
「……あの人に会いたい……こんなに悲しい思いをするのなら、いっそ私も一緒に処刑されていれば……」
「メイアー、そんな考えはよくないですよ? せっかく助かった命なのですからもっと大切にするのです」
そうして日々泣き暮らす妻のもとにも、イェホシアの幻影は姿を現す。
「あなた! なぜここに!? もしや生きてらしたのですか!? ああ、奇蹟だわ! 神様、感謝いたします!」
「いえ、今は現世の人間ではなく、いわば天使や悪魔に近しい存在です。そのためにいろいろ見えるようになったのですが、将来、あなた
他の者達同様、驚くとともに歓喜の声をあげ、胸の前で両手を組むと神に感謝の祈りを捧げるメイアーに対し、イェホシアはその誤解を解くとなんだか妙なことを言い出す。
「……危険?」
「はい。諸事情により詳しくは述べられませんが、とにかく遥か西方の異教徒の地へ向かうのです。そこで、あなたの
突然のことによくわからず、訝しげに可愛らしい眉を寄せて尋ねるメイアーに、イェホシアはそんな意味深な言葉だけを残して空気に溶け込むかのようにして消える。
「わたくしの為すべきこと……ええ、わかりましたわ。我が夫、イェホシア……」
だが、彼の弟子でもあり、誰よりも愛した妻はそれだけですべてを理解すると、右手を優しく下腹に押し当て、強い意志をその瞳に宿して頷いた。
ちなみにこの後、メイアーは狩又屋のジョーセフとともに当時はまだ異教の地であったアルビトン島へと渡り、二人のもたらした最後の晩餐での酒杯が、かの〝聖杯伝説〟を生むこととなるのだが、それはまた、別のお話――。
「――先生、ほんとに死んでしまったっすか? みんなもどっか行っちゃったし……淋しいっす。俺は淋しいっすよ、先生!」
そして、ただ一人、メッサマネの搾油小屋に残っていたティモスのもとにも……。
「ティモス、よく皆の家を守っていてくれましたね。安心なさい。すぐに家族達はここへ戻ってきますよ」
小屋の中に設けられた、ダーマ教の
「……!? せ、先生! い、生きてたんすか!? やった! 先生が生きてたっす! 俺はものすごくうれしいっす!」
「い、いや、生きてるのとはちょっと違うんだが……まあ、あなたは難しいことを言ってもちょっとアレですね。とにかく、もうじき皆が帰ってきます。新たな門出を祝福できるよう、ワインとご馳走を用意しておいてあげてください」
やはりイェホシアの姿を見ると悦びに声をあげ、やっぱり生きてるものと誤解するティモスであったが、直情的な彼は説明しても理解してくれそうにないので、イェホシアは要件だけを手短に伝えて早くも姿を消してしまう。
「……あれ? 先生、どこいったっすか? まあ、いいっす。先生も無事だったし、先生の言うことを聞いてれば間違いないっすよ!」
それでもティモスは動揺したり不審がったりすることなく、これまで通りにイェホシアの言葉を素直に信じると、さっそく嬉々とした顔で買い出しに出かけていった――。
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