Ⅻ 祓魔
「――シモベの悪魔祓いをするんだって? また戒律学者か?」
「いや、なんでも対岸から渡って来た大聖者様らしいぞ」
悪魔に取り憑かれたというシモベなる男の家の前には、そんな会話を交わす野次馬達で黒山の人だかりができあがっている……。
イェホシアが悪魔祓いをするという話は、カナッペウムの町中に瞬く間に広まった。
すると、ティアコフ・イヨハンの兄弟ばかりでなく、やはり皆、そのことには強い関心を持っていたらしく、聞きつけた者達が次々に押し寄せてこの始末である。
それは、悪魔憑きになってしまった隣人の身を案じたり、そのために被っている弊害をなんとかしてもらいたいという願いももちろんあるのだろうが、そればかりでなく、これまで何人もの戒律学者や司祭が失敗しているものを、はたして今度の聖者が本当に成しとげられるのだろうかという、少々興味本位のところもあったりなんかするんだ。
その野次馬達は家の外ばかりでなく屋内にまで入り込んで来ており、駐屯軍の装備などを主に金細工職人をしているというシモベのそれなりに広い家の中も、今やぎゅうぎゅうのすし詰め状態である。
「――ガハハハ、何度来ても無駄だ! 貴様らの崇める偽の神の力などでは俺を追い出すことなどできぬぞ!」
その人だかりの真ん中に空いた円形の空間で、縄でぐるぐる巻きに椅子へ縛りつけられている当のシモベが、血走った
「なにが戒律だ! そんなもの端から全部破ってくれるわ。さあ、戒律を破れば神罰が下るのだろう? ならばほら、とっととその罰とやらを与えてみるがいい、ずっと人間を騙してきた偽物の神よ!」
「ふむ。これは確かに重症のようですね……まあ、戒律に関していえば、私も似たような考えなので、ちょっと同感してしまったりするのですが……」
悪魔の声で喚き立てるシモベの言葉に、それが本物の悪魔憑きであるとの認識を示す反面、意外や的を射ているその意見に思わずイェホシアは頷いてしまう。
「せ、先生っ!」
すると、その不適切な発言を耳にしたケファロが、周りの野次馬達を気にしながら慌てて彼を窘めた。下手にそんなことを聞かれては、イェホシアも悪魔崇拝者や反ダーマの異教徒だと誤解されかねない。
「おっと。これは失敬。では、申し訳ないですが、早々にお引き取り願うといたしますかね……ベリアルさん! 彼の説得をよろしくお願いいたします!」
ケファロの諫言にイェホシアも村での一件を思い出し、ともかく今は口を噤むと、まずは悪魔を祓うために天を仰いでベリアルの名を呼んだ。
「ちょっと見ない間に、ずいぶんと悪魔の使い方がまくなったじゃないか。それに、早くも弟子ができたようだな」
すると突然、イェホシアが見上げる天井近くの虚空に、燃え盛る戦車の上で脚を組んでふんぞり返る、漆黒の翼を持った美青年がどこからともなく姿を現す。
「ひいっ! あ、悪魔だ!」
「こ、こいつがシモベに取り憑いてた悪魔か!?」
「違えよ。んな、低俗な野郎と一緒にすんな。俺様はもっと
それを目にした野次馬達は。当然、この状況からそう考えるが、ベリアルは眉間に皺を寄せると、とても嫌そうにそれを否定する。
「ベリアルさん! その節はどうも! おかげ様で皆さんにはいろいろ助けてもらっています。特にジョバンネス先生の信者達の一件では、一人の犠牲者も出すことなく助けることができました。それに昨夜の故郷の村から逃げ出す際にも……」
「ああ、
一方、呼び出したイェホシアの方は聴衆の反応など気にも留めず、なんだか親しげに礼を述べているが、ベリアルはやはり横柄な態度で、ぶっきらぼうにそう尋ねた。
「ああ、はい。〝悪魔の山〟でもベリアルさん、なんか皆さんのまとめ役みたいでしたし、説得するのに向いてそうでしたんで。ダメですか? まあ、同じ悪魔同士、お互い立場や遠慮があってそういうのはできないというのであればかまわないのですが……」
「フン! 俺様を甘く見るな! どいつもこいつも悪魔のことを知らなすぎだぜ。これもダーマの〝神〟をはじめ、
意図したわけではないのだが、天然にも相手を尊重するイエホシアの言葉がむしろ挑発となり、嫌々ながらもベリアルはその頼みを聞き入れてくれたようである。
「さっきから何をゴチャゴチャ勝手に話してるんだ? どこの馬の骨の悪魔か知らんが、なぜ人間と親しげにしている? 悪魔の風上にも置けないヤツだな。どうせ右も左もわからぬ下級悪魔だろう?」
さて、すっかり忘れ去られていたが、椅子に縛りつけられたシモベに取り憑いている
「ああん? ……おいコラ、誰に向かって口きいてんだ? さんぴん。てめえこそ、この炎の戦車見てもわからねえなんて、もぐりの下っ端悪魔だろう? 俺を知らねえのか? この〝
だが、それがいけなかった……急にベリアルは据わった眼をすると、腹に響くようなドスの利いた声で悪魔の入っているシモベに凄む。
「さ、
その強烈な威圧感に、ようやくその正体に気づいた悪魔はそれまでの不遜な態度を一変させ、逆に彼を賛美するかのように震える声でその通り名を並び立てた。
「よーくわかってんじゃねえか。だったら、さっさとそいつから出てどっか行っちまいな。そうすれば、今の無礼な態度は見逃してやるぜ」
「な、なぜです!? なぜ、あなた様ほどの者が人間などの味方を!? 我々悪魔躍進の邪魔をなされるおつもりか!?」
震え上がるシモベの中の悪魔にベリアルは改めて出ていくよう命じるが、今度は心底理解できぬという様子で悪魔は思わず訊き返す。
「なんだ、てめえ如きが俺様に意見しようってか? いいぜ。なんなら、その人間ごとてめえも一緒に業火で灰にしてやろうか?」
「ベリアルさん、それは困ります! 燃やすのは悪魔だけにして、
その口答えにまた機嫌を悪くしてベリアルが凄むと、やはり人間のことはあまり気にしていなさそうな彼に、脇からイェホシアが慌てて声をあげる。
「わ、わかりましたよ! 出て行けばいいんでしょう! 出て行けば……もう、何がどうなってんだ……」
ベリアルの脅しと、やはり天然に残酷なことをいうイェホシアの言葉が最後の駄目押しとなり、悪魔はブツブツ文句を言いながらも、渋々その気配をシモベの上から消した。
「さて、これでいいだろ。この貸しは、これからも、もっとおもしろいことやって見せてくれるってことでチャラのしてやるぜ。じゃあな。あんまし悪魔こき使うんじゃねえぞ?」
「ありがとうございました。はい! なるべく悪魔さん達にご迷惑おかけしないようにいたします」
用が済んだと見るや、ベリアルは相変わらずぶっきらぼうな口調でそう告げ、イェホシの礼も聞かずにさっさと姿を消してしまう。
「…………あれ? 俺、何してんだ? ええっ!? なんで俺こんな縛られてるんだよ!?」
一方、当事者のシモベの方はといえば、カクン…と一旦、項垂れた後、しばらくしてから再び頭を上げると、いったい自分の身に何が起きているのかわかっていない様子で忙しなく周囲を見回している。どうやら、完全に彼は悪魔から解放されたようである。
「おお~っ! 司祭様でもできなかった悪魔祓いをこんなにもいとも簡単に!」
「しかも、あんな恐ろしい悪魔を
「戒律学者の先生方は、戒律を破った神罰なので祓うのは不可能だと言っていたのに……奇蹟だ! これは紛れもない奇蹟だ!」
今回も成功を期待していなかった野次馬達は、予想外にもそれを成し遂げたイェホシアを褒め讃えるとともに、それまで失敗していた学者達の言い訳を信じて疑問も呈している。
「いえ! 悪魔憑きは戒律を破ったために起こるのではありません! いや、悪魔憑きばかりでなく、病気や怪我、その他何か悪いことが起きたとしても、それは戒律を破ったことが原因ではないのです!」
そんな聴衆の言葉を耳にしたイェホシアは、思わずそう反論を声高に唱えた。
「え? 違うんですか? だって、いつも我々は偉い戒律学者の先生方にそう教わっておりますよ? 戒律を破ることは即ち神の御心に背くことであり、それゆえに神罰を受けることも致し方ないのだと」
すると、聴衆の中の一人が、その言葉に反応して訝しげな顔で食いついてくる。
「その考え方は間違っています! 戒律は生活の規範として大事ではありますが、所詮は人の造りしもの……それを破ったからといって、神の御心に背いているとは限りません。また、そんなことぐらいで神は人間に罰など与えたりはしません!」
その疑問に対し、ますます戒律学者への憤りを感じたイェホシアは、さらに語気を強めてその意見を真っ向から否定してみせる。
「戒律を破ることが神の御心に背くことではない? ……では、戒律は神の御心に沿って生きる基準にはならないとおっしゃるのですか!?」
「ならば、神の御心に沿って生きるにはどうすればいいというのですか!?」
対して群衆の間からは、おそらく常日頃から真摯に戒律と向き合って生きている者なのであろう、さらに強い関心を以て疑問を投げかける声がチラホラと現れ始める。
「それは簡単なことです! 常に神のことを思って生きればよいのです! さすれば自然と善悪を見極めることができ、我々は神の御心に沿って生きていくことができるのです!」
その疑問の答えは、まさにイェホシアが人々に伝えようとしている神の御言葉だ。
「私は〝悪魔の山〟での修行の末に、神よりこの御言葉を預かりました! じつは私がこの町へ来たのも、この御言葉を苦しむ人々に伝えるためなのです!」
ふと気づけば、聴衆はいまだ椅子に縛りつけられたままのシモベそっちのけで、朗々と語るイェホシアの方へ熱い視線を向けている……悪魔祓いに成功した彼の言葉は、言い訳をして逃げた司祭や戒律学者などよりも遥かに説得力を持っているのだ。
図らずも整えられたこの状況に、自身も興の乗ってきたイェホシは、黒山の人だかりに向けて即興の説教会を始めるのだった――。
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