Ⅹ 漁人(いさなとり)

「――ハァ……なんでこんなことに……ジョバンネス先生の弟子達はちゃんと話を聞いてくれたのになあ……」


 翌朝、故郷の村を追い出されたイェホシアは、村から少し離れた場所にあるガリール湖畔の漁村までやって来ていた。


 今朝は黒々とした雲が空一面に垂れ込め、風もごうごうと吹いていて余計に気が滅入るような天気だ。


「市井の人々が本当に求めているのは、目に見えぬ心の平安なんかよりも、まずは現実の暮らしにおける安泰ということか……確かに民衆の気持ちに立ってみれば、それはまあ、そうなのだろうなあ……ハァ……これでは遵戒派の者達と一緒だ。わたしもまだまだだな……」


 心身ともに疲れ果てたイェホシアは、そこにあった粗末な作業小屋の軒下に座り込み、岸に泊まる漁師の小舟をぼんやりと見つめながら今日何度目かの溜息を吐く。


「人はパンのみに生きるにあらず……だが、パンがなくては生きてはいけぬ……ということか……よし。これを良い教訓としよう!」


 それでも、故郷の人々にコテンパンに叩かれ、粉々に自信を打ち砕かれた心をなんとか奮い立たせ、己の為すべきことを為すためにイェホシアは前へ進もうと決意を改めて固める。


 と、そんな時。


「――いやあ、今日は無理だ、兄者! こんなに風が強くちゃ危なくて舟は出せねえ!」


「だが、一日漁に出れないとなると、俺達のようなその日暮らしはおまんまの食いあげだ……困ったのう……」


 イェホシアの眺めていた小舟に何やら話しながら二人の男達が近づいてきた。どちらも半裸に近い格好で筋骨たくましく、真っ黒に日焼けをしているところからしておそらく地元の漁師だろう。


「……そうだ。昨日の村でのこともあるし、ほど近いこの地ではやりにくいかもしれないな。漁のついでにどこか遠くの町に乗せてってもらおう」


 そう考えるとイェホシアは腰を上げ、二人の漁師のもとへと歩み寄って行った。


「あのう。漁のついででいいんですが、どこか湖岸の町まで乗せてってもらえないでしょうか? 対岸とか、なるべく遠くの町がいいんですが……」


「ああん? いや、そりゃ無理だぜ、あんちゃん。この天気と風だぜ? 舟なんか出せやしねえよ」


 しかし、漁師の内の一人、〝X〟の字みたいにターバンを巻いて髪を立てている若い方の男は、暗い空を指さしながら、苦々しそうな顔でそう答える。


「我々も漁に出れずに困っていたところだ。この様子だと、その内、雨も降りだすだろう。舟を出すのは危険すぎる」


 もう一方の石のように頑固そうな顔をしたそれよりもやや年長の男も、若い方の言葉に付け足すようにしてイエホシアにそう告げた。


「ああ、確かに風が強いですね。波も高そうだ……では、この風がやんでよいお天気になったら、私も乗せて言っていってくださるというのですね?」


 二人の返事を聞くと、イェホシアも黒雲に覆われた天を見つめながら、なんとも暢気な口調で再び二人に訊き返す。


「ハハハ、そうなってくれりゃあ、ありがたいんだけどな。俺の漁師としての経験から言って、ま、んなことまずないな。少なくとも今日一日はダメだ。なんの用事か知らねえが、あんたも諦めて…」


「水域の公爵フォカロル! お力添えをお願いします! この風を止めて蜘蛛を晴らしてください!」


 天気についてはずぶの素人のような彼の発言に、笑って諭すように言う若い方の男であるが、その言葉が終わらぬうちに、イェホシアは湖の方を向いて今回も悪魔の名を呼ぶ。


 すると、俄かに水面が大きく膨れ上がり、その水が徐々に人のような形に変化してゆくと、やがて海藻の如き緑の長い髪に、黒いグリフォンの翼を持つ、文字通り・・・・水も滴る一人の男が姿を現した。


「うわあっ! な、なんだ!?」


「あ、悪魔か!?」


 無論、それを見た二人の漁師は目を皿のように見開いて仰天する。


「風を止めればよいのだな? 了解した……」


 一方、呼び出された悪魔フォカロルの方はといえば、二人のことなど眼中になく、イェホシアにそう答えると、また水に戻ってパシャンと水面に落ちて消える。


「……お! だんだん風が弱まってきましたよ。それになんだか白んでまいりました。さすがは風雨を司る悪魔です。ありがとう、フォカロル!」


 と、あれほどごうごうと吹いていた風がそよ風のように和らぎ、黒々としていた空模様も朝本来の明るさを取り戻しはじめる。


「さ、これで舟は出せるでしょう? では、私を乗せて行ってくださいますか?」


「き、奇蹟だ……あ、あんた…い、いや、あなた様はいったい……」


「も、もしや、どちらかの名高き聖者さまなのですか?」


 悪魔を呼び出して天候を好転させ、なのに何事もなかったかのように平然と舟に乗せろというこの奇妙な男に、二人はやはり当然のことながら驚きと畏れを顕わにする。


「いえいえ、私は聖者などではありません。これは修業中に成り行きとでもいいましょうか、なんか悪魔が力を貸してくれるようになっただけのことでして……それより、私としては破戒の罪から人々を救う新たな神の〝御言葉〟を預かったことの方が重大なのです」


 見開いた目を小刻みに振るわせ、譫言の様に尋ねる彼らにイェホシアは手をひらひらと振ってそれを否定してみせる。


「か、神の御言葉……?」


「罪から人々を救う……?」


「はい。〝ただ神のことを思え〟というものです。さすれば戒律などに固執しなくとも、その御心に沿って生きることができるのです。戒律を破ったからといって、神の御心に背いた罰にはならないのです。逆に無理をしてまで戒律を守ることが、果たして神の御心に沿う行いだとも断言はできません……て、ああ、すみません。皆さんはそんな話よりも、やはり天候を操ったり、病気を治したりする神通力の方がご興味おありですよねえ……」


 反射的に聞き返した二人に思わずイェホシアは熱く語り出してしまうのであるが、途中で昨日の村のことが頭を過り、その経験から二人もきっとそうなのだろうと話をやめようとする……のだったが。


「いいえ! 興味あります! …あ、いえ、神通力もですが、神の御言葉の方にです!」


「私もです。もっと詳しくお話をお聞かせください」


 予想外なことにも、二人は妙にイェホシアの話に食いついた。


「私達も常々、煩雑過ぎてどうしても戒律を破ってしまうことによる罪に悩んでまいりました。オンドレなど…ああ、私はこの村の漁師でケファロ、こちらの弟はオンドレというのですが、弟は洗禊者ジョバンネス先生のもとへ破戒の罪を洗い流す禊に行ったりなんかもしておりまして……」


「おお! ジョバンネス先生の! じつは私もこの前まで、ジャルダン川の畔に住まうジョバンネス先生の一団に参加していたんですよ」


 名を名乗り、事情も説明するケファロとオンドレというその兄弟に、意外や出てきた〝ジョバンネス〟の名を耳にしてイェホシアは懐かしそうに目を細める。


「そうなのですか!? あなたもジョバンネス先生の教えを! でも、その先生もつい先日、ハドロス王を批判して首を刎ねられたと噂で聞きました……」


 一方、〝X〟の字ターバンをした弟のオンドレは、それを耳にすると一瞬、うれしそうな顔をした後、不意に暗い表情を作って伏目がちにぼそぼそと呟くように述べる。


「だが、そんな所へあなたが現れた。しかも、なにやらジョバンネス先生のように禊をすることすら必要とせず、破戒の罪は免れることができるという……これは神のお引き合わせです! どうか、もっと詳しくその神の御言葉について私達にもお教えください!」


 弟の言葉を継いで、石のように頑固そうな顔をした兄ケファロも真剣な眼差しで改めて教えを乞う。


「なんということでしょう……このような場所であなた方のような心ある方々に出会えるとは……まさに神のお導きです! いいでしょう! ぜひ私の預かった神の御言葉をあなた方にもお伝えしましょう!」


 予想外にも邂逅した、かつての自分と同じように戒律への疑問と苦悩を抱いている彼ら漁師の兄弟に、イェホシアはこの上ない悦びを感じると堰を切ったように朗々と説教を始めた。


 故郷の者達に理解されず、村を追い出されたばかりの彼にとって、その打ちのめされた心を再び奮い立たせるような、この兄弟との運命的な出会いは格別のものだったのである。




「――いつも、心に神を思う……」


「そうすれば、誰もが神の言葉を預かり、その御心のままに罪なく生きることができる……」


 予期せず始まった湖畔での説教が終わると、熱心にイェホシアの教えを聞いていた二人は、彼の言葉を噛みしめるようにして各々口にしている。


「やはり、あなたは我々を救うために神が遣わせ賜うた預言者です!」


「あなたが神より預かった御言葉で、私達は戒律を守れぬ罪と苦しみから救われました!」


 そして、いたく感銘を受けた様子で思わず立ち上がると、興奮冷めやらぬ口調でイェホシアを褒め讃える。


「いえいえ、私は別にそんな大した者では……まあ、神の御言葉を預かったので、一応、〝預言者〟とはいえるのかもしれないですが……」


「いいえ! あなたはこれまでに現れた預言者の中でも最も偉大な預言者です! その証拠に、先程、我々が目にした如く、あなたは手足のように悪魔を使役して奇蹟を起こされました!」


「そう! まるでいにしえの偉大なダーマの王サラマンドロンの姿を思い起こさせるかのように!」


 謙遜し、少し照れた様子もみせるイェホシアであるが、ケファロとオンドレの兄弟は、先刻見た彼が悪魔フォカロルの力で強風を止めたことを引き合いにだし、ますます彼を称賛して伝説のダーマ民族の王にまで例える。


「いやいや、サラマンドロン王などとは畏れ多い……でも、まず人々の現実的な願いをかなえることは、話を聞いてもらうのに有益かもしれませんね……」


 あまりの誉め言葉にむしろ気恥ずかしさを覚えてイェホシアはもじもじと体を捩るが、ふと、昨日の失敗とは真逆のこのやり方に、確かな手ごたえを感じたりもするのだった。


「と、ともかくも、天も晴れましたし、改めてお願いします。私をどこか対岸の町まで乗せて行ってはくれないでしょうか? もちろん、あなた達の漁の仕事のついででよろしいので……」


 そうしてイェホシアもこの説教から何かを得ると、気恥ずかしさから逃れるようにして二人にもう一度船頭を依頼する。


「もちろんですとも! 漁なんか後回しです!」


「神の御言葉を広めに行かれるのですね? ならば、対岸のカナッペウムの町へ参りましょう。あそこなら住民も多いし、適しているかと思われます」


 すると、最初に頼んだ時とは正反対に、彼ら兄弟は一も二もなくそれを快諾した。


「さあ、参りましょう! どうぞ乗ってください。足元お気をつけて」


「イェホシア先生の奇蹟のおかげで良い天気ですし、これはまさに船出日和です」


 そして、自分達の小舟へイェホシアを誘うと、綱を解き、櫓を取ってガレール湖へとゆっくり漕ぎ出す。


「ありがとうございます。では、参りましょう。対岸の町カナッペウムへ!」


 少し前までとは一変した、どこまでも澄み渡る青空の下、イェホシアとケファロ・オンドレの兄弟は、穏やかに小波さざなみの立つ湖面を新たな目的地目指して進み始めた――。





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