Ⅸ 追放
その日の夕刻……。
傾いた橙色の日の光にガリール湖の水面がキラキラと輝く牧歌的な景色の中、普段は宗教儀礼を行ったり、遵戒派の学者が説教をしたりする村のダーマ教会堂に、近隣の人々が羊の群れの如く続々と集まって来ていた。
もちろん、メイアーとジョコッホが家々を廻り、イェホシアの依頼通り会堂へ集まるよう触れ回ったためである。
最初話を聞いた時は、長い放浪生活で彼の頭がどうかしてしまったのではないかと疑った二人であるが、どうにも真剣なイェホシアの様子に、これは本当に預言者となったのではないかと、半信半疑ながらも思い始めたのだ。
「皆さん、よく来てくださいました! ああ、これはおとなりのおじさん、お元気でしたか? おや、そちらは確か漁師の網元の……え? お父さんじゃなく息子さんの方ですか? いや、大きくなりましたね!」
そんな二人の働きかけでやって来た人々に対し、小さな会堂の入口脇に立つイェホシアは一人々〃に歓迎の言葉をかける。
無論、そのままの浮浪者のような姿ではなんだったので、今は行水をして髪や髭を整え、ボロ布同然だった服も弟に借りて着替えている。先程とは別人のように小ざっぱりした姿だ。
「イェホシア兄! ほんと久しぶりだなあ! 俺だよ、俺! ユディだよ! ほら、メイアーおばさんの妹のクレパの息子の!」
「ユディ? ……ああ! おまえ、あのユディか!? いやあ、懐かしいなあ! おまえももうすっかりオジサンだな。ハハハ…」
集まった村人達の中には、幼馴染や昔から知っている隣人の他、イェホシアの従兄弟であるユディなんかもおり、またも再会した懐かしい顔に、彼は本当に故郷へ帰って来たのだなあと改めてしみじみと実感させられる。
「イェホシア兄、どんな病気でも治せる聖者様になったってほんとなのか!?」
「ええ? ……いや、まあ、
しかし、目をキラキラさせて尋ねるユディのその発言を聞くに、どうやら話に尾鰭が付いて、彼はなにか勘違いをしている。
……そう。ユディばかりでなく、村人達がこんなにも集ってくれたのは、イェホシアの預かった神の御言葉を聞きたいためではなく、「あのイェホシアが偉大な聖者になって帰って来た」と、その神通力を期待してのものだったのだ。
確かにイェホシアは〝悪魔の山〟での瞑想修行を経て、かつてサラマンドロン王が使役していた悪魔の助力を得られるようにはなったが、それは副次的なものであって、けして彼が修行で獲得したものの本質ではない。
「ま、ともかくも集まってくれたんだからいいとするか……ユディ、詳しいことは後で話す。さ、意味も中へ入って座ってくれ」
だいぶ誤解はされているものの、それでも聴衆を集めるという目的自体は果たせたので、とりあえずイェホシアは現状に満足すると、人懐っこい従兄弟も会堂の中へと誘った――。
「――皆さん! 皆さんはこれまで、司祭や戒律学者達に戒律を守ることこそが神の御心に沿うものであり、戒律を守らなければ重い罪を負い、神罰を受けると教わってきたと思います。しかし! それは否です! それは本当の〝神〟の御心を知らない人が創ったまやかしだったのです!」
古い石造りの会堂を埋め尽くす聴衆を前にして、祭壇を背に両腕を翼の如く大きく広げると、イェホシアは朗々とした声で皆に説教を始める。
「つまり、破戒による罪などないのです! 戒律を守らないことが、即ち神の御心に逆らうものと考えるのは大きな間違いなのです! 戒律を守ることに固執するよりも、大切なのは…」
「なんだか難しくてよくわかんねえけど、それよりもイェホシア先生! 俺は足が悪くて歩くのが辛えんだ。なんとか治してくれよ!」
「あたしは最近、よく目が見えなくて。イェホシア先生…いいえ、聖者さま。どうか治してくださいまし!」
だが、聴衆はやはりイェホシアの説教の意図を理解してはおらず、病を負っている者達は口々にそんな訴えを勝手にし始める。
「学者先生の話だと、やはり毎日の戒律を守らずに暮らしている罰とのことじゃったが、これからは悔い改めてちゃんと守るゆえ、どうか治してはくださいませぬか!」
「あたいも祭に供える犠牲の羊を用意できなかったのが悪いんだけど、来年は田畑を売ってでもちゃんと用意しますから、どうか今度ばかりはお慈悲を!」
中には、イェホシアが否定するまさにその戒律主義に根ざした発言をするような者までいる。
やはり、長きに渡ってそう教え込まれてきたために、戒律主義の呪縛はこの国の民の中に根深く浸透しているのだ……。
「いや、その考えからして間違いなんです。あなた方の病の原因は戒律を守らなかったからではありません。戒律と病はなんら関係が…」
まずはそんな人々の意識改革をせねばならぬと、再び口を開くイェホシアであったが……。
「では、間違っている我々の罪が深いゆえ、病は癒せぬというのか!?」
「これからは戒律を守りますから! どうか! どうか神の奇蹟を!」
イェホシアやジョバンネス派の信者達の様に、常日頃から戒律主義の弊害について考えているような者達ならばまだしも、ごくごく普通に暮らしている人々に、突然、こんな小難しい話をしてみてもすんなり耳には入らないのだ。
そんな哲学的な心の救いよりも、まずは
「いや、そうじゃなくてですね、どうしてもと言われれば、後で病は治してさしあげますけど、その前にまずは病の原因が戒律を破ったためではないとわかることが重要なのです。病にかかるのを戒律を守らない自分のせいだなどと考えていては治る病もなおりません。逆に戒律の呪縛から解き放たれれば、私が治さずとも自ずから治る病も…」
「なんだ、病を治しちゃくれないのか!? 聖者だっていうのは嘘なのか!?」
「そんなもったいぶって、本当は病なんか治せないんでしょう! このニセ聖者!」
なおも根気よく理解を求めようと説教を続けるイェホシアであるが、みんな聞く耳持ちはしない。それどころか、病気の治癒を期待してきた反動から怒り出し、彼を罵倒する者さえ出始める始末である。
「もともと
「
「そ、そんな……」
さらにはイェホシアの思想を真っ向から否定するばかりか、彼の最も触れられたくない部分――自身の出生に関わる心無いことまで口にする。
「イェホシア……」
残酷なその言葉にはイェホシアだけでなく、傍らの席で見守っていた母メイアーも悲しいような、淋しいような、深い憂いの表情を浮かべている。
「………………」
一方、その隣に座る義弟ジョコッホは、そんな二人を複雑な心持ちで見つめていた。
「このエセ聖者め! 村から出て行け!」
「そうだ! エセ聖者を追い出せ!」
だが、強いショックを受けて呆然と立ち尽くすイェホシアにも、村人達は攻撃の手を緩めない。ついには村からの追放を求めるコールまでが沸き起こり、狭い会堂の石でできた壁や天井にわんわんと反響し始める。
「み、皆さん! 聞いてください! 戒律など守らずともよいのです! 私は皆さんが思うような聖者ではありませんが、神より皆さんを苦しみから救う新たな御言葉を預かったのです! それを知れば、きっと皆さんを戒律に縛られた日々の苦しみより救うことが…」
「戒律を守らなくていいだと!? 挙句の果てになんと恐ろしいことを……」
「エセ聖者どころか、神より授かりしダーマの戒律を愚弄するとは、おまえ、イスカンドリアの回し者か!?」
気を取り直し、それでも皆に熱意を以て訴えかけるイェホシアであるが、思わずその熱意から出たあまりにも革新的過ぎるその言葉が、さらに彼を窮地へと陥れてゆく。
ダーマ教の戒律は彼ら民族のアイデンティティと言っても過言ではないものであり、それを否定するイェホシアはダーマの民を侮辱する者、ひいては彼らの国エイブラハイームを支配下に置き、彼らに重税と貧しい生活を強いるイスカンドリア帝国の手先だと思われてしまったのである。
「ここから出ていけ裏切り者! ダーマの敵のエセ聖者を村から追い出せ!」
「いや、追い出すだけじゃ物足りない! イスカンドリアの犬は谷へ突き落してしまえ!」
群衆の「追い出せ!」の声が会堂内を埋め尽くし、それどころか、イェホシアの命を奪おうと言い出す者まで現れると今にも掴みかかりそうな勢いである。
「兄さん、ここにいちゃ危険だ! とりあえず今は逃げるんだ!」
ただならぬその雰囲気に、まず動いたのは弟のジョコッホだった。彼はイェホシアに駆け寄るとそう促し、強引に祭壇脇にある裏口の方へ引っ張ってゆく。
「ジョコッホ……い、いや、私はこのまま立ち去るわけには……私は、私はダーマの敵でも裏切り者でもない!私は本当に神から御言葉を預かったんだ! その言葉を聞けば、みんな本当に日々の苦しいから救われるんだ! だから、だから、私は…」
「イェホシア、私はあなたが本当のことを言っていると信じているわ。でも、今は何を言ってもみんなの耳には届かない。だから、今は逃げるのよ。あなたの為すべきことを為したいと思うなら今は逃げるの!」
また、それでもなお説教を続けようと踏みとどまるイェホシアに、母メイアーも真剣な眼差しで彼の瞳を覗き込み、まるで幼子にしつけをするかの如く必死に説得を試みる。
「裏切り者を殺せえ!」
「ダーマの敵を谷に突き落とせーっ!」
その母の肩越しに向こうを覗えば、村人達は罵声を連呼し、ますます興奮を増してこちらへ押し寄せようとしている。
「兄さん早く! ここは俺達で食い止めておくから!」
「し、しかし、それではおまえや母さんが……」
「大丈夫よ。村のみんなとは長い付き合いですもの。わたし達だけならなんとでもなるわ。さ、早くお行きなさい」
「くっ……神よ、今はまだ、その時ではないと仰られるのか……いつか必ず、私は神の御言葉を伝えに帰って来る! その時まで、どうぞ二人ともお達者で……」
もう一度、母と弟に背中を押され、イェホシアは奥歯を噛み締めながらも二人の意見に従う決断をすると、踵を返して勢いよく裏口から飛び出した。
「あ、待て! 裏切り者を逃がすな~っ!」
「エセ聖者を捕まえろ~っ!」
すでに日の落ちた真っ暗な外へ飛び出すと、蒼白い月明かりにぼんやりと光る、湖畔の道を走ってそのままイェホシアは村を離れようとするが、後方ではそんな村人達の叫ぶ声が夜の闇に響いている。あの群衆の勢いではさすがにジョコッホとメイアーも抑えきれないであろう。
「かくなる上はやむをえん……悪魔の皆さん、お力をお借りします。恐怖王バラム! 我を不可視の存在にせよ!」
背後に迫る村人の怒号と大勢の人間の気配に、イェホシアはサラマンドロン王の悪魔の力を借りることにした。
足は止めぬまま、彼が虚空を見上げてその名を呼ぶと、半透明に透けて見える、猛々しい大きなクマに跨った少年が彼に並走するようにして姿を現す。
だが、少年のような体に比してその頭は牡羊であり、尻からは蛇の尾を生やすと、手には鷹を留まらせている。
「イェホシアさん! 初めてお助けさせてもらうっす! ほんとなら、あついつらと相撲して投げ飛ばしたいとこっすが、不可視ですね。了解っす!」
その明らかに悪魔とわかる異形の存在は、イェホシアと速度を合わせてクマを走らせると、逆にその体同様の少年みたいな人懐っこい口調でそう答える。
すると、全速力で駆けるイェホシアの姿も悪魔と同様に段々と透けてゆき、すーっと闇に溶け込むかのようにしてどこへともなく消えてしまう。
「あれ? どこ行った? 突然、見えなくなったぞ!?」
「どこにも隠れる場所などないのにいったいどこへ? ……まさか、神通力で消えたとか?」
「え? じゃ、じゃあ、本当に聖者さまだったのか!?」
後に残った蒼白い湖畔の宵闇の中からは、そんな動揺する村人達の声がしばらくの間聞こえていた……。
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