Ⅷ 帰郷

 かつての師・洗禊せんけつ者ジョバンネスの死に大きなショックを受けるも、ハドロス王と神殿派・遵戒派の悪意により火炙りにされようとしていた民衆を救ったイェホシアは、久しぶりにガリール湖畔にある故郷の村へ帰って来ていた。


 自らが神から預かった言葉・・・・・・を広く伝え、戒律に縛られて苦しむ人々を救うその運動を、まずはこの生まれ育った地より始めようと考えたのである。


 神学者を志し、家を飛び出してからもう何年になるだろうか? 帰るのは本当に久方ぶりである。


 母や義父、弟達家族は、突然、帰って来た自分をどう思うだろうか? ずっと音沙汰もなく、家に寄りつかなかった自分を良く思ってはいないのではないか?


 そんな恐怖にも似た不安を内心抱きつつも、それでもせっかく故郷に帰ってきたのだから家に寄らないのもなんだし、イェホシアはおそるおそる懐かしき我が家へと足を向けた。


 湖畔に建つ土壁の鄙びたその家は、十年以上経っているというのに何も変わってはいない……まるでここだけ時が止まっているかのように、彼がここを旅立ったあの日のままである。


 思わず目頭が熱くなるような、そのどこまでも懐かしい景色にイェホシアが見とれていると、家の戸を開けて出て来た一人の女性が彼を見て声をあげた。


「イェホシア……あなた、イェホシアなのかい?」


 貧しい身形ではあるが身ぎれいにしているその高齢の女性は、驚いた様子で目を見開くと、わなわなと震えながら彼の名を口にする。


「母さん……ただいま。母さん……」


 それが母メイアーであることは、人目見て彼にもわかった。さすがに歳相応に老いを重ねてはいるが、たたずまいはまだ若い母親だったあの頃のままである。


「イェホシア! よく帰って来たわねえ! 今までどこにいたの!」


「母さん……すみません……ご無沙汰していました……」


 走り寄り、涙を流しながら抱きつくメイアーに、イェホシアも熱いものが自然と頬を伝って乾いた地面へと零れ落ちる。


「……兄さん? ほんとにイェホシア兄さんなのか!?」


 また、カタン…と音がしたので再び家の方へ目を向けると、裏手から出て来たイエホシアに似た顔の青年が、手にしていた木材を地面に落としたまま唖然と立ち尽くしている。


「ジョコッホ……ジョコッホなのか!?」


 青年を見て、イェホシアも濡れた瞳を大きく見開くと、彼の名を叫ぶようにして呼ぶ。


 それは、家を出る際、後を託した異父弟のジョコッホである。あの頃と変わらぬ母とは対照的に、今では立派な髭も生やしているし、見違えるほど大人になっている。


「兄さん! 今までどこにいたんだよ!? 戒律学者の先生に聞いても知らないというし、もう、てっきりどこかで死んでしまったのかと……」


「すまない……長いこと手紙も出さずにほんとすまなかった……」


 やはり駆け寄って抱きつく弟も加え、三人は団子のようになって熱く抱擁すると、感涙に咽び泣きながら突然の再会を喜んだ――。




「――そうか。義父とうさんは天に召されたのか……それは義理を欠いてしまった……」


 その後、貧しくも懐かしい家の中へと誘われたイェホシアは、ヤギのミルクをご馳走になりながら、義理の父イオフスの死を母達に聞かされた。もう何年も前の話だという。


 義父とは仲が悪いわけでも、別に嫌われていたわけでもなかったが……いや、むしろ血の繋がっていない自分を育ててくれた彼には感謝してもしきれないのだが、やはり母の私生児だったこともあり、イオフスにはなんとなく複雑な感情をイェホシアは抱いていた。


 特にジョコッホが生まれてからは……。


「では、大工の仕事はおまえが継いだんだな。あんなにヒョロヒョロだったのに立派になったもんだ……」


 同様に微妙な距離感を抱きながら育ってきた弟の、ずいぶんと筋骨たくましくなったその姿をまじまじと見つめながらイェホシアは感慨深く呟く。


「ま、大工は体が基本だからね。そういう兄さんはどうしてたの? なんか、やけにスゴい格好しているけど……遵戒派の先生のとこへ弟子入りしたんじゃないの? もしかして、隠修派に参加してたとか?」


 一方、その弟は、対してボロボロの衣服をまとって髪も髭も伸び放題のイェホシアの風貌に、力こぶを見せつけながら訝しげにそう尋ねる。


「ああ。人々の苦しみには目を向けず、戒律を守ることだけに固執する遵戒派とはこちらからおさらばしてやった。その後は隠修派だけじゃなく、愛国派の門なんかを叩いたこともあったな。つい最近までは都に近いジャルダン川のほとりで洗禊者ジョバンネス先生の元に身を寄せていた」


 その問いに、イェホシアは長きに渡る放浪の日々を思い浮かべながら、どこか懐かしそうな顔をしてそう答えた。


「ジョバンネス……噂は聞いたことがある。川で禊を行えば破戒の罪が消えるなどと胡散臭いことを言っているという……」


「まあ! そんな得体の知れない者の所に……しかも、愛国党なんかにまで……」


 だが、その答えにはジョコッホばかりでなく、母のメイアーも嫌悪感をともなった驚きの声をあげる。


 大神殿の司祭を中心とした神殿派を除けば、戒律順守を唱える遵戒派が主流の当時のダーマ教において、戒律よりも荒野での修行を重んじる隠修派は奇異な目で見られる存在であった。さらにイスカンドリア帝国からの独立を目論む攻撃的な愛国派や、隠修派の中でも特に風変りなジョバンネスを頼っていたと聞けば、母達がそのような反応を示すのもわからなくはない。


 しかし、そのジョバンネスすらも遥かに凌駕する革新的な思想を、今のイェホシアは抱いているどころか広めようとしているのだ。


「ま、そのジョバンネス先生の教えでも本当に苦しんでいる人々を救うことはできないと悟ったので、袂を分かった私は〝悪魔の山〟へ向かい、ついにすべての人々を戒律の呪縛から救う神の御言葉・・・・を預かることができたのだがね」


 革新的な考えを持っているがゆえに、そんな一般的な人々の感覚とは少々ズレているイェホシアは、二人の反応も気にせず、さらっとそのことも口にしてみせる。


「神の御言葉を!? そ、それじゃ、兄さんは〝預言者〟になったとでも言うのか!?」


「まあ! なんて畏れ多いことを……」


 イェホシアにとっては何気ないその一言に、無論、母と弟はさらに驚くと、不敬なその振る舞いに神の罰が当たるのではないかと蒼い顔で震え出しそうな勢いだ。


「預言者か……まあ、そう言われてみればそうかもしれないな……今までは思ってもみなかったが……そうか。マーシャやアイサークのようないにしえの預言者と云われる偉人達もこんな感じだったのか……」


 比べてイェホシアの方はといえば、ちょっと空気読めないというか、今さらながらにそのことに気づいた様子で呑気に感心している。


「……ま、ともかくも、私はその神の御言葉を皆に広め、破戒の罪に苦しめられている人々を救うために帰ってきました。ジョコッホ、母さん、悪いけど、村の人達を会堂に集めてくれ。今日、ここから、私は私の神から与えられた仕事をはじめようと思う」


 そして、ただでさえ畏れ慄いている母と弟に、不意に真面目な顔になると、そんな頼みごとをするのだった――。


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