Ⅳ 預言

「あなたは……天使なのですか?」


 一方、突如、眼前に舞い降りた美男子に驚くイェホシアは、ベリアルの言葉も耳には入らず、譫言を呟くかのようにしてその輝く存在に問いかけた。


「私の名はガブリエル。あなた達ダーマの民は確かにそう呼びますね。ですが、このベリアルと私は本来同じ存在。その人間の見方によって、天使と呼ばることもあれば悪魔と呼ばれることもある。精霊や、時に神と呼ばれたこともあります」


 だが、その眩いばかりに美しく輝く若者は、穏やかな微笑みを湛えながら静かにそう答える。


「バカな……天使と…いや、神さえ悪魔と同じだと言われるのか!?」


 無論、その言葉に到底、イェホシアは納得がいかない。神を信仰する彼にとって、それは断じて受け入れがたい話である。


「ええ。そのように区別するのは人間側の勝手な都合というものです。おそらく、あなたを悩ませているのもそうした人間の根拠なき思い込みなのでしょう。では、ベリアルを根負けさせたご褒美に、今からこの世の真理というものを見せてさしあげましょう。さ、ベリアル? 賭けに負けたのですから約束通りお願いします」


 しかし、ガブリエルはやはり穏やかな落ち着いた声で諭すように反論し、何か意味ありげな笑顔を向けて、まるで親友に話しかけるかのように上空の悪魔を促す。


「チッ…仕方ねえな。ハウレス! こいつに真実の・・・世界ってもんを見せてやりな」


 すると、嫌々ながらも渋い顔をしたベリアルは頷き、異形の軍団の中から人の倍はあろうかという一匹の巨大な豹を呼び出した。


「ガルル…人間、受け止めきれずに頭がイカれても知らんからな」


 その大豹はイェホシアの前へ来るなりその姿を変え、右手に投槍、左手に大鷹をとまらせた、豹の毛皮を纏う黒人の美丈夫になると、その燃えるように赤く輝く瞳でイェホシアの眼をじっと覗き込む。


「うぐっ……こ、これは……」


 瞬間、彼の意識は現世を離れ、肉眼ではなく、頭の中のスクリーンで世界の真実を幻視した。


 過去・現在・未来……この世界の成り立ちから人類の誕生と進化、自然の営みの裏にある理やその仕組みまで、ありとあらゆる知識が頭の中を走馬灯のように流れて行く……。


「……そんな……世界は…この大地も人間も神が創ったものではないというのか? ……戒律も、法も神に与えられたものではなく、すべては人間が自分達の都合で作り出しただけの……」


 これまで信じていたダーマ教の教えとはまるで違う、世界の創造やその秘密を一瞬にして理解し、価値観が一変してしまうほどの強い衝撃をイェホシアは覚える。


「……だが、そうであるならば、我々は何を信じて生きて行けばいいのだ! 戒律がなければ……何をしてもいいというのであれば、人間はどこまでも堕落してしまう……何が善き事で何が悪事かすらもわからなくなってしまうではないか!」


 頭を満たす膨大な情報量と真理を知ったあまりの衝撃に、イェホシアは朦朧とする意識の中でその新たな葛藤に思い悩む。


〝戒律がなくとも、そなたは悪をなそうとはしないであろう?〟


「……ハッ…!?」


 その時。混濁し、ぐるぐると景色が回るイェホシアの頭の中で、そんな声が聞こえたような気がした。


〝ただ、我のことを思え。さすれば我が心に沿って生きることができよう……〟


 さらにその厳かな声は、直接、彼の心の奥底に働きかけるかのようにしてそう続ける。


「……そうだ。戒律なんて必要ない……ただ、常に神のことを思って生きてゆけばいいんだ……そうすれば、神の御心に従って、おのずから善悪の区別はつく……神を思う者に、最早、破戒の罪などないのだ!」


 謎の声にそう悟った瞬間、周囲を覆っていた幻影は一瞬にして消え去り、イェホシアはまた、もといた岩山の頂に刻まれる、大きな魔法円の中心で跪いていた。


「どうやら悩みは晴れたようですね」


「サラマンドロン以来のおもしろいやつだな。何か困ったことがあったら俺達を呼びな。手を貸してやるぜ」


 ただし、ガブリエルとベリアルの姿は消えることなく、各々穏やかさと不敵さを感じさせる対称的な笑みを湛えながら、たいそう満足げな様子でイェホシアの方を眺めている。


「はい。私は今、神より救いの御言葉を預かりました……我々に戒律などいりません。神を思う者は、その時点ですでに救われているのです!」


 これまでの苦行を労うような天使と悪魔の言葉に、イェホシアは膝の土を払いながら立ち上がると、ひどくすっきりとした顔でそう答えた。


 その、悪魔の山で|偉大なる叡智グノーシスを得た青年の名はイェホシア・ガリール……後に〝始まりの預言者〟と呼ばれ、その教えは世界宗教〝プロフェシア(預言)教〟へと発展してゆくこととなる……。

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