Ⅲ 降魔

「――天にまします我らが神よ、我にすべての者を救う叡智を授けたまえ……」


 その偉大なるいにしえの王の祭儀場跡は、人影はもちろんのこと、鳥や獣の声さえもしない非常に淋しい場所であった。


 だが、それと同じに悪魔の姿もまったく見られず、噂で聞いていた話とはずいぶんと違って、特に不気味な感じというものもまるでしない。


 そこで、その魔法円の中心に跪くと、神への祈りを捧げながら瞑想を始めるイェホシアであったが、すっかり日も暮れ、すべてが闇に閉ざされたその夜のこと……。


魔法杖ワンドもペンタクルもなしにここへ来るとは、ずいぶんといい度胸しているな。我らに喰い殺されてもかまわないというのか?」


 その言葉とは裏腹に、どこか気品のある男の声がすぐ目の前から聞こえてきた。


「……!?」


 その声にイェホシアが目を見開くと、前方には燃え盛る炎に包まれた戦車の上に、漆黒の羽根を持つ美青年がゆったりとした姿勢で座っている。


 また、周囲の闇に感じた気配に目を凝らしてみれば、山羊の角やコウモリの羽、蛇の尾やたくさんの目を持つ異形の者達が魔法円を取り囲むようにして、うじゃうじゃとひしめき合っている。


「悪魔か……私はおまえ達など恐れない! わたしには神がついている! 神より叡智を授かるまでは、けしてこの地を離れたりはせんぞ!」


 すぐにそれと悟ったイェホシアは、宣戦布告をするかのように強い決意を持ってそう叫ぶ。


「フン。神か……ならば、我らに教えを乞うがいい。我が名はベリアル。〝神に仕える者サタナエル〟とも呼ばれている」


 対して炎の戦車に乗った妖艶な美青年は、おかしそうに鼻で笑うと朗々とした声で彼に語りかける。


「貴様らのいうところの〝神〟とは、この世界を司り、それを滞りなく運航していることわりの意志……一方、我らはこの世界の法則や現象、その性質などが具現化した存在だ。即ち、我らはその〝神〟とやらの一部に外ならず、また〝神〟は我らの総意ともいえる」


「黙れ! 神とはもっと偉大で崇高な存在だ! おまえらのように矮小で邪悪な者達ではない! 悪魔に用はない。さっさと立ち去れ! 神の名を騙る卑しき者達よ!」


 だが、無論のことイェホシアは聞く耳持たず、再度、堂々とした態度で悪魔達にそう言い放つ。


「ほう。ますますもって大した度胸だ。どこまでその意地を張り通せるか? こいつは久々に楽しみだな」


 そんなイェホシアに悪魔ベリアルは怒るでもなく、むしろ愉しそうに不気味な笑みを蒼白い顔に浮かべた――。




 それから夜となく昼となく、悪魔達はイェホシアに幻覚を見せては苦しめ、彼が屈して苦痛から逃れるため、魂を差し出すその時を待った。


「神への信仰などさっさと捨てろ! でなければ、おまえの身を八つ裂きにして骨の髄まで喰らい尽すぞ」


「…こ、怖くない、怖くない……」


 時には目にするだけで頭がどうかしてしまいそうな、あまりにも背徳的で恐ろしい姿をした化け物達が周囲を隈なく取り囲んで脅し……。


「さあさあ、こっちに来てどんどんおあがりなさい。おいしいワインもありますよ」


「……んぐ……ゴクリ……」


 時には金色の牛の角を持つ錬金術師のような恰好の男が、断食して瞑想する彼の目の前に涎の滴るような豪勢な料理と、芳醇は香りを放つワイン壺をこれでもかと並べてその飢えにつけ込み……。


「ああん。もう我慢できなぁい。早く来てぇ~。あたしのこのイ・ケ・ナ・イ・カ・ラ・ダ、あなたの好きなようにしていいのよぉ~?」


「…くっ……目の毒だ……」


 時には天女と見紛うばかりに美しい裸体の乙女が、眼前で艶めかしく早熟な女体をくねらせて彼の欲情を誘った。


「…うく……神よ、どうか我に叡智を……すべての民を救うための御智慧を……」

 

 そうして幾つの昼と夜が繰り返されたのだろう? だが、いつまで経ってもイェホシアの心は折れなかった。


 彼は悪魔達の脅しにも誘惑にもよく堪え、髭は伸び、衣服は雨風にボロボロになっても、それでも彼は神に祈り、智慧を得るための瞑想を続けた。


「ったく、こんな野郎一人とせねえとは悪魔が聞いて呆れるぜ。よし。今度は俺の番だ」


 まるで成果のでない悪魔達の体たらくぶりに、業を煮やしたベリアル自身も自らの手で仕掛けてくる。


「……! こ、ここは……ありえない。これは幻だ……」


 ふと気がつくと、イェホシアは王都ヒエロ・シャロームを一望できる、なんとも高い場所に独り立っていた。


 背後や足元を覗えば、どうやら大神殿の屋根の縁にいるようなのだが、今の今まで〝悪魔の山〟にいたというのに、無論、こんなことは普通に考えてありえない……。


「さあて本当に幻かな? もしかしたら、俺がひとっ飛びして連れて来たのかもしれないぜ?」


 だが、前方斜め上の空中に炎の戦車に乗って浮かんでいるベリアルは、悪どい笑みを浮かべながら、彼を惑わそうとそんな言葉を口にする。


「幻だと思うんなら飛び降りてみな。俺も〝神に仕える者サタナエル〟の異名を持つ者だ。〝神〟に誓うぜ。もし貴様が本当に神を信じているのならば、飛び降りても地に着く前に神が支えてくれるだろう。だが、もしその信仰心が偽りであれば、頭から石畳に激突して即刻地獄行きだ。さあ、どうした? 神を信じてるんだろう?」


 そして、目の廻るようなその高さに脚の震えを覚えるイェホシアに対し、彼の信仰心をたてにして、そんな無謀極まりない行いを要求してくる。


「……くっ……わかった! 見るがいい! 我が真実なる神への信仰心を! ……う、うわあああっ!」


 それでもイェホシアは抗いがたい恐怖心をぐっと堪えて飲み込み、悪魔の挑発になど負けじと、大神殿の屋根の上より大声で叫びながら飛び降りた。


「うぐっ……」


 ものすごい速さで迫り来る地表の石畳に、強い風のような空気の抵抗を感じながら、イェホシアは思わず目を瞑る。


「目をお開けなさい。大丈夫ですよ。すべてはベリアルの見せた幻です」


 ところが、いつまでたっても地面に叩きつけられないことへ疑問を抱き始めたその時、そんな明るく穏やかな、耳障りの良い声がすぐ近くから聞こえてきた。


 その声に恐る恐る目を開いて顔を上げると、イェホシアはもと通りサラマンドロン王の祭場跡に跪いており、目の前には悪魔ベリアルと対照的に、眩いばかりの姿をした若者がわずか地より浮いて佇んでいた。


 長い金髪の巻き毛に薄桃色の衣を羽織り、同じく桃色の翼と、手には白い百合の花を携えている。


「どうやら賭けは私の勝ちのようですね。だから言ったでしょう? この青年はけしてくじけないと」


 続いて、ふわりと宙に浮いた美しい容貌のその若者は、斜め上方で炎の戦車に腰掛けるベリアルの方を見上げ、なぜだか勝ち誇ったかの如くそんな言葉を投げかける。


「チッ…なんて強情なやつだ。こうも暖簾に腕押しだと、むしろこっちの方が滅入ってくるぜ。ああ、もうヤメだ。ヤメ」


 対してベリアルは苦虫を潰したかのように蒼白い顔を引きつらせ、なんとも辟易した様子でとうとう実質的な敗北宣言をその口にした。


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