Ⅱ 洗禊者

「――我らが同胞たちよ! 汚れた体を川の水に浸し、その背負った罪を洗い流すのだ! さすれば破戒の罪は消えてなくなり、我らは神の許しを得られるであろう!」


 エイブラハイーム州を横切るジャルダン川の畔、広々としたその河原で聴衆に囲まれた一人の聖者が、朗々とした声で説教を垂れている。


 髭面で、長く伸ばし放題に伸ばした髪に、羊の毛皮でできた衣を纏うというなんとも奇妙な出で立ちの男だ。


 彼の名は人呼んで〝洗禊者せんけつしゃジョバンネス〟。


 昨今、既存の主流派に反発して現れ始めた、市井を離れて荒野で修業生活を送る〝隠修派〟という新たな学派の一人であり、その中でも戒律に固執して苦しむ人々を救おうとしない遵戒派に異を唱え、行水による〝禊〟の教えを広めている人物である。


 よわい30となっていたイェホシアの姿も、その新興学派の一団の中にあった。


 あれから何年の月日が過ぎたであろうか? 〝疑問〟に対する答えを求め、神殿派や他の隠修派、さらにイスカンドリアからの独立を目指す過激で政治色の強い〝愛国派〟のもとまでをも転々とした後、彼が行き着いたのはそんな革新的なジョバンネスのもとだったのである。


「さあ、あなたの罪はすべて洗い流された! また戒を破ってしまったら再び禊をしに来るといい」


「ありがとうございます! これで破戒の罪に怯えることなく暮らすことができます!」


 川に半身を浸け、頭からその水をジェバンネスに注がれた男が、目に涙を浮かべながら感謝の言葉を述べている。


 そんな光景を傍で眺めながら、イェホシアは満足げに顔を綻ばせ、ジョバンネスの活動に参加したことを間違いではなかったと改めて感じていた。


 たとえ戒律を破った者も、禊を行えば神の許しを得られる――その教えに、イェホシアもいたく共感している。それはまさに〝戒律を守れない者を救うための方法〟という、彼が探し求めていた答えだったからだ。


 これで、日々の暮らしに追われて戒律に背かざるを得ない、貧しく余裕のない者達をも救うことができる……そう、イェホシアは信じていた。


 あの者達と、再会するまでは……。


「……ん? あれは……おお~い! あなた達も禊をしていきませんか~? 戒律を守れずとも、その罪を洗い流すことができますよ~!」


 ふと、河原の土手の方へ目を向けたイェホシアは、その上の道を荷車を牽いて通り過ぎようとする、よく知った顔の母子の姿を偶然に見かけた。


 かつて、徴税役人に連行されてゆくのをただただ見送ることしかできなかった、あの貧しい職人の妻と子である。


「はぁ……お声かけていただいてありがてえですが、あたし達にそんな暇はねえです。この荷物を今日中に都へ運ばねえとお金が貰えませんので」


「邪魔すんなよ、おっさん。俺達は忙しいんだ。病気がちだった父ちゃんが神殿の労役で死んじまって、俺と母ちゃんで税払う金まで稼がなきゃならないんだかんな。んじゃ、もう仕事の邪魔すんなよ」


 だが、走り寄るイェホシアに一瞬だけ車を止めた母と子は、ひどく疲れ切った顔でそう答えると、再び満載の荷を積んだ車を牽いて、いそいそとその場を立ち去ってしまう。


 母子の返すその言葉を聞いた瞬間、ガツンと一発、金槌で頭を殴られたかのような強い衝撃を覚え、イェホシアはその場に立ち尽くしたまま、瞳を小刻みに震わせて愕然とする。


 自分がいかに独善的であったか……己は漂泊する自由の身であるが故に、彼ら市井に生きる真に貧しき者達の身になって考えることができていなかったのだ。


 自らの愚かさに居ても立ってもいられなくなったイェホシアは、そのままその場から走り出した。


 その恥ずかしさから逃れるようにして、彼はどこまでも走り続け、息が切れると今度はとぼとぼと、ゆっくり歩いてさらに道を進んだ……。


 それから幾日が過ぎた頃のことだろう? 辿り着いたのは〝悪魔の山〟と呼び称される、草木も生えぬ荒涼とした岩山の麓だった。


 その山の頂には、かつて世界一の智慧者と謳われ、エイブラハイーム王国の最盛期を築いた偉大なる王サラマンドロンが悪魔を召喚していた祭儀場跡が残り、王の死後、そのための魔法円などが壊されぬまま放置されたことで、今や悪魔が跳梁跋扈する大変危険な場所と化している。


 恐れとともに呼ばれるその山の名は、まさにこのことに由来するものだ。


 だが、その一方で、そこで修業をした者は「サラマンドロン王と同じ最高の叡智が得られる」とも噂されており、多くの道を求める者達が訪れる、国内有数の聖地でもあったりなんかする。


 もっとも、山に登って帰って来られた者は、今のところ誰一人としていないのではあるが……。


 イェホシアがその〝悪魔の山〟へ足を向けたのも、ジョバンネスのやり方では救われぬ者達の存在に気づき、そんな禊をする余裕さえない者達を救うための、本当の智慧を求めてのことである。


「悪魔など気にしていられるか……」


 今のイェホシアに悪魔に対する恐れなどまるでなかった。それよりも恐ろしいのは、すべての者を…否、自分自身を救うための方法が見つからないことである。


 躊躇いなく、黙々と険しい岩山の道を登り始めたイェホシアは、時を置かずしてその高い頂に到達すると、地面に巨大な魔法円や様々な魔術的記号の刻まれたサラマンドロン王の祭儀場遺跡に足を踏み入れた。

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