Primum Prophetae ~はじまりの預言者~

平中なごん

Ⅰ 遵戒派

 まだ、〝聖暦〟というこよみすらなかった頃の話であるが、今の年代表記ならば聖暦27年、古代イスカンドリア帝国第三代皇帝クラリウスの治世……。


 かつて、世界一の智慧者と謳われたサラマンドロン王のもと、栄華を誇ったダーマ(戒律)教徒の王国エイブラハイームも衰退の一途をたどり、この時代にはオリエンス(東面)地域までをも支配下においた大帝国イスカンドリアの属州と化していた。


 そして、いにしえの国土はダーマ人の分邦王(※属州の領主)ハドロスによって治められていたが、帝国と王に収める二重の税により、特権階級以外の民衆は食うや食わずの過酷な生活を強いられていた。


 そんな中、苦しむ同胞を救う道を求め、ダーマ教の神学者を目指して家を出た一人の青年がいた……その名をイェホシアという。


「――よいか? 我らの先祖は神と契約を交わし、神より与えられし戒律を守ることで、我ら人間は安寧な暮らしを約束されているのだ。戒律を守ることこそが何よりも大事。ゆめゆめ、そのことを忘れるでないぞ?」


 神学者を示す白い三角のトンガリ帽をかぶり、長い顎鬚を蓄えた彼の師が、いつも口癖のように繰り返している教えを歩きながら自慢げに語る。


「はい! 先生」


 そのありがたいお言葉に、後について歩く他の弟子達同様、イェホシアも即答で首を縦に振るのであったが、内心、彼だけは少なからず疑念を抱いていた。


 当時、ダーマ教には二つの主流勢力があった。一つは王都ヒエロ・シャロームにある大神殿に仕え、神殿での祭祀を最重要と考える司祭階級の特権的グループ〝神殿派〟、もう一つが祭祀よりも戒律の順守を重視する、市井しせいの神学者グループ〝遵戒じゅんかい派〟である。


 無論、貧しい庶民出身のイェホシアが入門したのは遵戒派の方だ。


 だが、そもそも彼はその出自からして、すでに戒律を犯している・・・・・・・・・・・という後ろめたさを心の内に持っている……。


 イェホシアはガリール湖というエイブラハイーム州の端にある淡水湖の傍の村で、メイアーという漁師の娘の私生児として生まれた。


母は何も語ってはくれなかったので、父親が誰なのか? 何があったのかはよくわからない。遠く先祖はダーマ人の英雄ヅァウィード王に連なる人物だと言う者もあったが、それが本当かどうかは正直怪しいものだ。


 いずれにしろ、未婚で子を産むなどということは、ダーマ教の戒律からすればありえない話である。


 そのため、どのような取り決めがなされたものか? 世間の目を気にした親類はイェホシアが生まれてすぐにイオスフという大工の男と母を添わせた……が、いくら取り繕おうとも村の者達には周知の事実である。


 父の違う弟のジョコッホに家を託し、自身が宗教家への道を目指したその理由にも、人々を救いたいなどというたいそう立派な大義だけではなく、そんな自らの背負った罪を消しさりたいという思いも少なからずあったりなんかもする。


 故に、遵戒派のもとで戒律を学んではいるものの、「戒律を守らなければ救われない」という教えに対して、イェホシアは疑問というか、大きな矛盾を自己の中に抱えていた。


 それでは、けして自分は救われないのではないだろうか……?


 と、そんな心の中の葛藤を抱きながら師の後について歩いていたイェホシア達の一団は、通りかかった木工職人の家の前である騒動に出くわした。


「――さあ! とっとと歩けっ!」


「お願いします! 足りない分は必ず来月お支払いしますから!」


 縄で縛り上げられたその家の主人が、イスカンドリア風の鎧を着た二名の兵士に連行されようとしている。


「お父ちゃぁーん! お父ちゃんを連れてかないで~!」


「ここのところ、主人は病で働けなかったんです! どうか、どうかお慈悲を!」


 連れ行かれる貧しい身形みなりをした職人の背後では、やはりボロを着たそのこどもや奥さんが、悲鳴にも似た叫び声をあげて兵士達に許しを乞うている。


 その職人一家には見憶えがある……町の小聖堂で行われる師匠の説教をよく聞きに来ていて、イェホシア達とも顔見知りの一家だ。


「悪いがこれも決まりなんでな。税を滞納した者は神殿造営のための強制労役と法で厳しく定められておる」


 だが、兵士の他にもう一人いた、今度はダーマ風の衣服に立派な髭を蓄えた人物が、そんな職人の家族達に事務的な口調で冷たく言い放つ。


 おそらくは国のめいで税を取り立てる徴税役人達なのだろう。都市部の住民に課された住民税が払えず、国の法に従って捕縛されたのだ。


「あの……放っておかれてよいのですか?」


 なんとなく足を止めはしたものの、ただ黙ってその騒動を眺める一団の中、イェホシアだけは見ておられず、堪りかねて師の神学者に歩み寄って尋ねた。


「うむ。哀れとは思うがな。彼は貧しいことを言い訳に、神への毎日の供物をよく怠っていた。これは戒律を破った者に対する神の仕置きだ。同情の念を感じずにはおれぬが、至極当然の結果だといえよう」


 しかし、師はむしろ徴税役人以上に、破戒を理由としてよく知るその職人一家を冷たく突き放す。


「そんな……彼らが戒を守れなかったのはそれほどまでに貧しかったがゆえです! それに、彼らは生きるために日々過酷な労働を余儀なくされ、すべての戒律を守って暮らすことなどできません。これでは、金や時間に余裕のある富める者だけが救われ、貧しい者はいつまでたっても救われないではないですか!」


 そうした宗教者とも思えぬ師の言い様に、イェホシアは思わず声を荒げ、これまでもずっと抱いてきたその疑問を、とうとう口に出して激しく抗議する。


「それは致し方のないことだ。富める者は戒律をしっかりと守り、神の御心に沿って生きておるのだからな。貧しき者も戒律を守り、正しき暮らしをすれば神によって救われる……それが神と我々とが交わした契約。それとも何か? 貴様はダーマ人でありながら、その神との契約を疑うというのか?」


「それは…………」


 その言葉に、イェホシアは答えることができなかった。


 恵まれた者だけが常に報われ、苦しむ者にはどこまでも救いのないその矛盾だらけの論理には、呆れ果ててものも言えないという理由ももちろんある。だが、それとともに、その神との契約を疑うことに強い罪悪感を抱いてしまう、ダーマ人としての深層心理というものも彼の口を塞いでいた。


「おまえ達、達者で暮らすんだぞ!」


「あなたぁっ!」


「うわ~ん! お父ちゃぁぁ~ん!」


 その間にも泣き叫ぶ家族から引き放され、痩せこけて貧相な姿をした木工職人は、徴税役人達に容赦なく引っ立てられて行く。


「……さ、皆の者行くぞ。聖堂に帰ったら戒律を隈なく暗記するための勉強じゃ」


 それを見送った後、口籠るイェホシアから侮蔑するような視線を外すと、まるで何事もなかったかのように師は弟子を連れて再び歩き出す。


「………………」


 黙ってそれに付き従う仲間達の中、イェホシアだけはその場に留まり、彼らを憐れむような眼差しでいつまでも見つめていた。


 そして、この時を最後に、彼の姿を遵戒派グループの中で見ることは二度となかった――。

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