Ⅴ 犠牲

 まだ〝聖暦〟というこよみすらなかった時代ではあるが、今の年代表記でいえば時に聖暦30年、古代イスカンドリア帝国第三代皇帝クラリウスの治世……。


 果たしてそれが本当に神の声だったのか? それとも、限界を超えた彼の精神が作り出した幻聴だったのか? それは誰にもわからない……。


 だが、ともかくも〝悪魔の山〟での厳しい瞑想修行の末に〝神の言葉〟を預かったイェホシアは、生まれ変わったような心持ちで山を下りると、さっそくその言葉を皆に伝えようと都へ到る道を歩き出した。


「――ハァ、ハァ……急げ! もう国外に逃れるしかない!」


「……ああ……こうなれば、俺達を快く思わない遵戒派のやつらも…ハァ、ハァ……攻撃し始めるだろうからな……」


 すると、程なくして進む道の向こう側から、必死の形相でこちらへ駆けて来る二人の男に出くわした。つまりは、都のある方角から来たということになる。


 何かに追われ、懸命に逃れようとしているような様子ではあるが、その二人の顔にイェホシアは見憶えがあった。


「確かジョバンネス先生の弟子の……あの! 何かあったんですか?」


 道の真ん中を行く彼を避け、二手に分かれてその両脇を走り抜けようとする男達に、イェホシアは振り返りざま、手を掲げて声をかける。


「…んん? ……ああ! あんたも先生の所にいた……」


 その声に、男達もどうやらイェホシアを憶えていたらしく、急に足を止めると転びそうになりながらも彼の方を振り向く。


「…ハァ…ハァ……いや、とんでもないことになった……先生が、ハドロス王に捕まって処刑された……」


「ええっ!? なんですって!」


 肩で息をしながら震える声で答えたジョバンネスの弟子に、イェホシアはこれでもかというくらいに目を見開く。


「まさか、ジョバンネス先生が……どうして…どうしてそんなことに!?」


「民の苦しみを省みず、まつりごともおざなりに大神殿の奥で祭祀と戒律の遵守ばかりに心を砕いている…と、先生はハドロス王を非難する演説を都の大通りでったんだ」


「それで王の兵達に連行され、即刻、斬首に処された挙句、その首は銀の盆に載せられてさらし首だ……あの非情で有名な王女サロメンが父王に先生の首を望んだとも聞いたが、おそらくは神殿派の者達が入れ知恵したんだろう……」


 驚きを隠しきれない様子で尋ねたイェホシアに、二人は代わる代わる、簡潔にその事情を説明する。


「なんということだ……確かにジョバンネス先生ならば、例え相手が王といえども歯に衣着せずに批判なされるだろうが……」


 寝耳に水なその訃報を聞き、頭を抱えたイェホシアは、そのボサボサの長髪を掻きむしりながら師の無惨な最後を大いに嘆く。


 〝洗禊者せんけつしゃジョバンネス〟……現実の民の苦しみに目を向けることなく、絶対の戒律遵守ばかりを言い立てるインテリ集団の〝遵戒派〟や、大神殿の司祭という特権階級に踏ん反り返る〝神殿派〟などの既存ダーマ教学派へ異を唱え、「ジャルダン川の水を浴びて禊を行えば、たとえ戒律を破ろうともその罪は洗い流される」という革新的な教えを広めた人物である。


 同じ考えを持つイェホシアも、一時はその教えに共感して彼のもとへ身を寄せていたが、その過激で進歩的な考え方が既存勢力の敵愾心を煽り、このような最悪の結果を招くこととなってしまったらしい。


「そればかりじゃない。俺達弟子や先生を頼って来ていた人達も全員捕まって、俺達にとっちゃ馴染み深いジャルダン川の河原で火炙りにされる」


「俺ら二人だけは、なんとかその場から命からがら逃げ出して来たんだ。他のみんなには申し訳ないが、あの状況じゃあ自分のことだけで精一杯だった……」


 続けて、ジョバンネスの弟子達は後ろめたさをその伏し目がちな眼に宿しながら、ここに到ったその後の経緯も各々に付け加える……見れば、二人とも衣服は泥土に塗れ、体中、擦り傷や殴られた痣などがいっぱいである。


「火炙りに!? なんと非道な……ジョバンネス先生ばかりか、なんの罪もない民衆までも処刑にしようなどと、それこそ戒律に背く行いはないか! 断じて見過ごせん!」


 傷だらけの二人が語る、あまりにも非人道的なその話に、イェホシアの感情は師の訃報を聞いた驚きと悲しみから一転、王やその背後で糸を引く神殿派、さらに現在のダーマ教や社会に対する強い義憤へとみるみる変わってゆく。


「これを機に、神殿派や俺達を敵視してる遵戒派の連中は、残ったジョバンネス派の信者も根絶やしにしようと画策するだろう」


「俺らはやつらの手の及ばない国外へ逃れるつもりだ。あんたも念のため、しばらくはどっかに身を潜めていたほうがいい。なんなら、俺達と一緒に来るか?」


 怒りに顔を真っ赤にしたイェホシアに対し、弟子達は親切にも彼の身の上まで案じてくれる。


「いえ。お気持ちはありがたいのですが、私は同胞達を助けに行きます。お二人もどうぞ安心してください。国外へなど逃げなくとも、このエイブラハイームで…ダーマの地でごく当たり前に暮らせるようになるでしょう」


 しかし、イェホシアは静かに首を横に振ってみせると、二人が予想もしなかったような、なんともとんでもないことを言い出すのだった。


「暮らせるようになるって、いったい何を根拠に……いや、それよりも助けになんて行っても無駄だ! あんたも一緒に火炙りにされるぞ!?」


「それに今から行っても手遅れだ。ここからじゃ処刑場に着く頃にはもう……」


 当然、なにを馬鹿なことを…というような顔で反対する二人であったが、イェホシアは場違いにも微笑みを湛えると、そんな二人に対して次のように言い返す。


「根拠……それはもちろん、〝神がそう仰っている〟からです。なに、大丈夫。間に合います。ベリアル! さっそくですが、お力添えをお願いします」


 そして、何もない虚空を見上げて声をかけると、漆黒の翼を持った黒衣の美青年が、燃え盛る戦車に乗ってどこからともなく姿を現した。


「うわあっ!」


「あ、悪魔あぁ~っ!」


「仕方ねえな。約束だ。さっき、世界の秘密を流し込まれた時にだいたい俺達の性質はわかっただろう? 誰でもお望みのやつを呼び出して頼むがいいさ」


 突然現れたベリアルの姿に弟子達はたまげて腰を抜すが、悪魔はまるで気に留めることもなく不敵な笑みを口元に浮かべ、その言葉とは裏腹に、どこか愉しげな様子でイェホシアにそう答える。


 イェホシアは〝悪魔の山〟での瞑想修行で悪魔達の誘惑に打ち勝ち、そのことで彼らに気に入られると、思うがまま悪魔の助力を得られることとなったのだ。


「ありがとうございます。では、遠慮なく。えっと……蒼白公バシン! 私を火炙りが行われる刑場、ジャルダン川の河原まで瞬時に送り届けてください」


 ヒィィィィーン…!


 ベリアルの許しを得てイェホシアがその名を呼ぶと、今度は蒼ざめた毛並みの馬に跨って、大蛇の尾を持つ異形の騎兵が何処からともなくその姿を現す。


「ま、また出たあぁぁーっ!」


「か、神様ぁっ! どうか、どうかお助けを~っ! …………あれ?」


 この世のもとは思えぬ恐ろしいその姿に、弟子達は再び悲鳴を上げて神に助けを求めるのであったが、やけに静まり返った周りの様子におそるおそる目を開いてみると、馬に乗った蛇男も翼のある黒衣の悪魔も、いつの間にやら煙の如く、何事もなかったかのように掻き消えている。


「……あれ? どこへ……行ったんだ?」


 また、狐に抓まれたような顔をして辺りを見回す二人を残し、悪魔同様、イェホシアの姿もその場から消え失せていた――。

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