Ⅵ 奇蹟

「――王よ! どうか、どうかお慈悲をぉぉぉ~!」


「神よ! 我らに救いの手をーっ!」


 その頃、王都にほど近いジャルダン川の河原では、うず高く大きな輪のように積み上げられた薪の山にとり囲まれ、ジョバンネスを信奉する大勢の人々がそれぞれに死相を浮かべて絶叫していた。


 自分達の王に許しを乞う者、信じる神に祈り願う者……これより始まる地獄の沙汰から誰もが逃れようと必死に足掻いている。


「この者達はさきに処罰された大罪人ジョバンネスとともに、神より授かりし神聖にして犯すべからざる戒律と、我々ダーマの偉大なる王ハドロスを冒涜した! その罪は万死に値する! よってここに、聖なる火を持ってその罪を焼き浄めることとする!」


 だが、騒ぎを聞きつけ、土手の上に集まった王都の群衆達を前にして、神殿派の司祭と思しき白い装束を着た中年の男性は、高らかにその罪状と無慈悲なる仕置きを宣告する。


「かまわん。やれ」


「ハッ! 薪に火を点けろっ!」


 そして、氷のように冷徹な眼差しで指示を下すと、兵達は燃え盛る松明を各々手に手に、罪人を閉じ込めた薪山の輪に方々から火を点け始める。


「キャアァァァーっ!」


「神様ぁ! どうか、どうかお慈悲をぉぉぉーっ!」


 放たれた火はたちまち薪の山全体へと燃え広がり、炎の輪に囲まれた人々はなおいっそう悲痛な声色で断末魔の叫びを熱風に乗せて響かせる。


「……ゴホっ、ゴホっ!」


「…ゴホっ、ゴホっ……息が…息ができない……」


 だが、その絶叫も長くは続かず、炎とともに沸き上がった黒々とした煙に巻かれ、火焔の檻に閉じ込められた人々は咽返りながら蹲ってしまう。


 と、そんな時。


「ああ、なんとひどいことを……でも、もう大丈夫です」


 番兵達が付近を固め、部外者は入れないはずの刑場の真ん中へ、突如、陽炎が立ち上るかのようにして一人の男が姿を現した。


 裾の先が擦り切れ、汗土に薄汚れた白い衣を痩せこけたその身に纏い、髪も髭も伸び放題のけしてお世辞にも綺麗とは言い難い身形ではあるが、どこか温かい太陽の光を浴びてでもいるかのような、なんとも不思議な神々しさと癒しを感じさせるその人物――蒼白公バシンの力により、一瞬にして悪魔の山の麓から移動して来たイェホシアである。


「な、なんだ? どこから入った?」


「バシン、もう一度、あなたのお力をお借りします」


 突如現れた闖入者に唖然と立ち尽くす司祭や兵達であるが、そんな周囲の目などまるで気にすることもなく、イェホシアは独り言のようにそう呟くと、そのまま燃え盛る炎の方へと歩み寄って行ってしまう。


「……あ、おい! 何をする気だ? 危ないぞ!」


「ああ、ご心配なく」


 なんら躊躇もいなく、紅蓮の炎目がけて進む正体不明のその人物に、一瞬遅れて気を取り直すと一人の兵士が注意を促すが、彼は笑顔でそう答えながら、まるで何事もないかのように炎の中へと足を踏み入れてしまう。


「なっ…!?」


 その予期せぬ驚きの行動に、司祭も兵士も野次馬達も、そこにいる者達は皆、目を見開いて一様に息を飲み込む……だが、火の中へ突進した当の本人は悲鳴を上げるでもなく…否、それどころか、衣服や髪が燃え上がることもなく、そのまま平然と炎の輪の内側へと入って行ってしまうではないか!


「なにがどうなって……っ!? 蛇?」


 揺らぎ立つ陽炎による幻覚なのか? なぜか燃えないその身体には、眩い橙色の炎に照らし出され、半透明の蒼緑色をした大蛇のようなものが巻きついているようにも見える。


「皆さん、ご無事ですか!?」


 いずれにしろ火傷一つ負うこともなく、炎の輪の中へ易々侵入を果したイェホシアは、苦しげにもがく人々に向かってすぐさま声をかける。


「…ゴホ…ゴホ……あ、あなたは……ゴホ、ゴホ…」


 しかし、炎をすり抜けて来たイェホシアを目にすると、それどころではない状況であることもすっかり忘れて、咽返るジョバンネスの弟子達も驚きを隠しきれずにいる。


「大丈夫ではなさそうですね……今、楽にしてさしあげます。炎の公爵アモン! 真に聖なる火を以て、浄められるべき本当の罪人達を罰っせよ!」


 あえて訊くまでもなく、炎と煙に巻かれて地べたに這い蹲る人々の地獄絵図を前にして、イェホシアは皆にそう告げると、また別の悪魔の名をその口にした。


「オォォォォォ…!」


 すると、またしても不思議なことが起こった……薪柴の山の上で環状に燃え盛っていた炎が俄かにその形を変え、天高く燃え上がったかと思いきや、巨大な梟の頭を持つ、狼の姿に成り始めたのである。


「ほ、炎が……な、なんなんだ、これは……?」


「こ、これは……古の伝説に聞く、サラマンドロン王の悪魔……」


 天を突く、紅蓮の炎でできた悪魔の姿を唖然と見上げ、兵や司祭達は譫言のように呟く。


「コォォォォォ……」


「お、おい、何をする気だ? ……に、逃げろおぉぉぉぉーっ!」


 そして、なにやら息を吸い込むかのような梟頭の仕草に、嫌な予感を覚えて逃げ出す司祭達であったが、なんとも不幸なことにもその予感は見事的中した。


「うわぁあああっ…!」


「ひゃあっ! た、助けてくれぇぇぇぇ~っ…!」


 次の瞬間、梟の吐き出した炎は彼らに襲いかかり、司祭や兵達は衣服の裾を燃やしながら、蜘蛛の子を散らすが如くほうほうのていで河原から走り去ってしまう。


 また、その騒ぎを見た土手の上の群衆も皆、身の危険を感じると転がるようにしてその後を追ってゆく。


 やがて、巨大な炎の悪魔も霧散するようにして姿を消すと、静けさを取り戻したジャルダン川の河原には、細々と白い煙を上げる焼け残りの燻る薪木と、その黒い輪に囲まれて蹲るジョバンネスの弟子達だけが取り残された……。

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