第50話 「私じゃダメかな?」


「え、えっと。とりあえず座れば?」


 閉まった扉の前で立ちすくむ亜沙子。真剣な瞳に、陰った表情で。

 不安を滲ませた雰囲気を纏う亜沙子に、少し戸惑いを覚えながら静かに言う。


「う、うん」


 纏った雰囲気は変わらないまま。亜沙子は短く返事をして、何もない俺の部屋にある。備え付けのベッドにゆっくりと腰をかけた。

 夢叶の何を訊かれるんだろう。てか、どこまで話していいのか。

 あぁ、もう! せっかく宿題やろうと思ってみたのに。


「それで、夢叶先生のことで何を知りたいの?」


 椅子を回し、俺は亜沙子に向き直ってそう訊く。亜沙子の表情は先程から微塵も変わっていない。

 覚悟は完全に決まっているとみた方がいいだろう。


「全部」


 亜沙子はごちゃごちゃ考える俺に、とても短く言葉を放った。


「全部って言われても.......」


 何を話せばいいのか。どこからどこまでを言うべきなのか。分からず、戸惑ってる時。不意にスマホが震えた。


「それ、多分先生だよね?」

「え、えっと。まぁ、そうだな」


 何で彼女に詰められてる人、みたいな感じになってるのか分からないけど。亜沙子は鋭い視線で俺にぶつけながら、起伏のない声音で言う。

 どう答えるか悩んでいると、口から誤魔化すような曖昧な言葉が零れた。

 体が自然と、夢叶との交際を隠そうとしているのだろうか。


「何でそんなに曖昧な言葉で濁すのよ」

「ご、ごめん」

「謝らないで。さっきのバイブは先生からの連絡でしょ?」


 少し語気を強めた亜沙子に少し驚いた。亜沙子の態度が、表情が、見ているだけで辛くて。

 そこから逃れるように、俺はスマホに視線を落とした。その画面にはLINEの通知があり、相手は夢叶だ。


「あってるでしょ?」


 その視線を確認した亜沙子が間髪入れずに、言葉を発した。少し切なさの混ざった言葉なのに、どこか弱さも感じるような音なのに。俺は亜沙子に気圧されるように、頷いていた。


「ほら。どうして? どうして稜くんが先生の連絡先なんて知ってるし?」


 俺の顔を真正面に捉えた亜沙子の瞳は、分かりやすく震えていた。その答えを聞きたくない、そう言わんばかりの態度だ。

 なら聞かなければいいのに。

 そんな言葉が脳裏を掠める。でも、それを口にすることはなく。俺は言う。


「それは教えてもらったから」

「どうして教えて貰えるし?」

「そ、それは――」


 瞳だけでなく、言葉まで震え始めた。亜沙子は自分の中の何かと戦い、俺に聞いているらしい。

 その正体に、恐らく俺は気づいている。気づいてるけど、本当のことを言っていいのかどうか。

 もし相手が俺たちと同じ学生なら、俺はきっと付き合った日に報告をしたかもしれない。でも、相手が先生の夢叶だから。むやみやたらに流布できるものでは無い。


「ねぇ、稜くん」


 言い淀む俺に、亜沙子は哀愁漂う声音ですすり泣くように名を呼ぶ。


「な、なんだ?」


 もう気づかれたのだろうか。目じりには今にもこぼれ出しそうな涙が溜まっている。もう気づかれているかもしれない。

 肩を小さく震わせて、下唇を噛んで。襲い来る悲しみに耐えようとしているようにすら見える。

 俺の返しに、亜沙子は覚悟を決めたように。ゴクリ、と唾を飲み込んでから。大きく息を吸ってから、目をぎゅっと閉じて、言葉を放つ。


「稜くんは先生と付き合ってるの?」

「え、えっと.......」


 彼女の真剣な瞳。それを真っ直ぐに受け止めきれず、俺は自然と視線を逸らしていた。

 だが、亜沙子はそれを許してくれない。腰をかけていたベッドから立ち上がり、俺の元まで歩み寄る。

 そして両手で俺の顔を挟むと、涙の滲んだ目を見るように顔の位置を固定してくる。


「ちゃんと、答えてよ.......」


 その言葉と共に、目じりで耐えていた涙がこぼれ落ちた。頬を流れ、顎に伝い、ポトっと床に落ちる。それで堰を切ったのだろうか。とめどなく涙が溢れ、亜沙子の目は涙で歪んで見える。その目から、一直線に向けられる想いから逃れたいのに。

 亜沙子によって顔の位置が固定されてしまっているから。ただ胸が締め付けられ、辛くなる。


「うん.......。付き合ってる」


 やっぱりちゃんと伝えないと。いつまでも曖昧にしてるのは良くない。

 亜沙子の真っ直ぐな想いを受けて気づき、俺は囁くように言った。その瞬間、俺の顔を抑える亜沙子の手が大きく震えた。

 そして力を無くしたかのように、ズルズルと手が落ちていく。そのまま立っていることも出来なくなったのだろうか。亜沙子はその場に崩れ落ちて、涙に濡れた床に座り込んだ。


「どうして.......どうして先生なの?」

「どうしてって言われても」

「私じゃダメかな?」


 ポロポロと涙を零しながら、俺の膝に手を当てて。亜沙子は訴えるように、嗚咽を交えて言う。その姿は恋する乙女のそれで。俺の心を強く、強く締め付けてくる。

 きっと夢叶と出会っていなかったら。俺は亜沙子と、なんて考えてしまう。でも、やっぱり夢叶のことしか考えられないから。


「ごめん」


 抑えていたであろう泣き声が、少しづつこぼれ始める。

 そして力ない拳で、俺の膝を軽く叩いてくる。物理的には全く痛くない。なのに、その拳が異常に痛く感じられた。亜沙子の気持ちが全部乗っているような、そんな気がした。


「そんな言葉聞きたくないよ!」

「.......」

「私なら同い年だよ? 遠慮とか何もしなくていいよ!?」

「.......」

「どこでも、周りの目とか気にしなくていいんだよ!?」

「.......」

「ねぇ.......。何か言ってよ.......」


 亜沙子の口から発されたとは思えないほどに、涙色に濡れていて、掠れていて、覇気のないものだった。

 何か言って。彼女はそう言った。でも、俺に何か言えるようなものはなかった。

 だって、亜沙子の言っていることは全部正しいから。夢叶と俺だと歳の差とか、立場とか、色々と周りの目があるだろう。そんなことは分かっているんだ。

 だけど――


「ごめん。俺は――夢叶が好きなんだ」

「もう、呼び捨てなんだね.......」


 俺の覚悟を決めた告白に。亜沙子は涙ながらに笑顔を浮かべた。

 痛々しくて、切なくて、辛くて。

 見ているだけで、もらい泣きしてしまいそうな。亜沙子の表情から、俺は視線を逸らしたくても、逸らせなかった。


「ごめん。だから俺は――」

「それでも、私を選んでよ」


 喉の奥から裂けそうな。彼女の言葉に、俺は自然と涙をこぼした。


「夢叶が.......」

「知ってるよ! でもやっぱり諦められなくて。ねぇ。私じゃ、ダメ.......かな?」


 最後の賭け。そう言わんばかりに、亜沙子は涙を流して訊いた。


「ごめん。俺はやっぱり夢叶が――好きだから」


 俺がそう言うと。亜沙子は目じりからこぼれる涙を手の甲で拭いながら、駆け出した。そして、そのまま俺の部屋を出た。


「ごめん.......亜沙子」


 謝ってばかりだな。

 そんなことを思いながら、見えない亜沙子の残像を見るように。部屋の扉を見つめて、そう呟くのだった。

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