第14話 「悲しくて辛い時に、カッコなんてつけんな!」


「どうして、彩月ちゃんがここに.......?」


 口をついて出た言葉は、これが自分の声なのかと思うほどに震えていた。

 もう会えないと思っていたのに会えた驚き。きっともう会うことはないと思って油断していた焦り。ずっと、ずっと好きだった人に再会できた喜び。


「ちょっと、ね.......」


 幼い頃によく聞いていた声。だがその声は、記憶のそれよりも、少し元気がないように思えた。


「どうかしたの?」

「.......」


 俺の質問に彩月ちゃんは視線を逸らし、口を開くことをしない。


「とりあえず、荷物置いてくる」


 それ以上、深追いをすることをやめて俺はその場を去った。

 居た堪れない気持ちでいっぱいになった。

 憧れていた人の。好きな人の。落ち込んだ顔なんて見たくない。


 きっと俺には分からない話だから。昔から、彩月ちゃんが悩むことの片鱗も理解することが出来なかった。だから、慰めることさえ出来なかった。

 言えても、大丈夫だよ、くらい。

 根拠の無い大丈夫なんて、貰っても嬉しくない。


 それゆえ、彩月ちゃんは俺に悩みを打ち明けない。打ち明けても何の解決にもならないから。

 それが悔しい。その悔しさが今でも身体に残っている。

 強く拳を握り締める。


「なんで俺は.......」


 1番好きな人を前にすると、どうしてこんなに臆病になるんだ。返事がないだけでへこたれて、逃げるなんて俺らしくない。

 くっそ!

 階段を上り、自分の部屋を向かいながら表情を険しくした。


 階段を上がって左手の部屋。そこが俺の部屋だ。勉強机も、床にもホコリが見当たらない。それにベッドも綺麗に整えられている。

 半年も使っていない部屋が、ここまで綺麗なんてことは掃除をしていない限りありえないだろう。きっと、母さんが掃除をしてくれていたのだろう。


「ほとんど帰ってこない俺のためにおいておくんじゃなくて、有効活用すればいのに」


 そう吐き捨てながら、俺はその綺麗な床にリュックサックを置いた。

 シワもほとんどない状態にしてあるベッドに腰を掛けて、左側にある窓に目を向ける。

 いまはカーテンレースが引いてあり、外の様子はあまり見えない。でも、俺は覚えてる。

 彩月ちゃんがまだあの家に住んでいたとき。この窓越しに毎日彩月ちゃんと話していたことを。


「懐かしい.......な」


 何気ないことを話して笑っていた。

 いま、それが出来るのかな?

 あんなに無邪気に話せるのかな。

 会えない間に募った想いが、話したいことが山ほどある。歳も重ね、打算も生まれた。

 きっとあの時のように話せないだろう。


 ゆっくりと腰をあげて、思い出の窓の元へと歩いて行く。

 カーテンレースを少しあけ、窓のテーブル板の部分に肘を置く。


「彩月ちゃん.......」


 眼前に見える嶋田家の窓。あそこが彩月ちゃんの部屋だったらしい。

 彩月ちゃんが同棲すると言って家を飛び出してから、俺は真っ暗な部屋に向かってずっとずっと声をかけていた。いつか、ひょっこりと顔を出して答えてくれるようなそんな気がしていたんだ。

 でも、そんなことにはならなかった。


 そのことを思い出し、目じりに薄らと涙を浮かべた時だった。不意に、部屋の扉がノックされた。


「海ちゃん?」


 優しく、艶のある声で俺の名前を呼ぶ。ずっと聞きたかった声だ。間違えるわけが無い。


「さ、彩月.......ちゃん」

「入っても大丈夫かな?」


 昔とは違う。昔の彩月ちゃんなら、ノックをすることもなかった。いきなり入って来て、笑顔で「驚いた?」と言っていた。

 そんな些細な違いでさえも、俺の心は締め付けられた。俺じゃない誰かと居て、彼女が変化した。そう思えてしまった自分が情けなく、女々しいなと感じる。


「あ、あぁ」


 小さく答えるや、蝶番が軋みを上げながら扉が開く。

 当時のような金色の髪ではなく、明るい茶色に変化している。大きな少し茶色がかかった瞳に、小ぶりな鼻。いくら歳を重ねようとも、彩月ちゃんは可愛い。それだけは変わることのない事実だ。

 彩月ちゃんは俺の言葉を聞いてから、部屋に入ってくる。

 ゆっくりと扉を閉めて、部屋中を見渡す。


「この部屋から私と話してたんだね」

「ずっと前のことだけどな」

「前とか、そんなの関係ないよ。今でも褪せない、私のいい思い出だよ」


 窓の外を見詰めていた俺を見ながら、彩月ちゃんはそう言うと。ベッドに腰をかけた。


「ねぇ、聞かないの?」

「聞いていいのか?」

「気を遣ってくれてる?」

「だって、さっきリビングで.......」


 そう返すと、彩月ちゃんは小さく笑った。笑顔と同時に現れるえくぼが特徴的だ。昔からずっとずっと、この笑顔が好きだったんだ。


「海ちゃんのお母さんやお父さんの前で何度も言いたい事じゃないの」


 ゆっくりと目を伏せて、どこか切なさを感じる声で告げた彩月ちゃん。


「そういう話なんだ。俺に話しても大丈夫なの?」

「うん。ちょっと聞いて欲しいな」


 力無い笑みを浮かべ俺を見ると、彩月ちゃんは自分の隣をポンポンと叩く。隣に座って、そういうことだろう。

 彩月ちゃんの隣に並んで座れる日が来るなんて。予想だにしていなかった出来事の連発で、嬉しさよりも戸惑いの方が全面に出てしまう。ぎこちない動きで窓からベッドの方へ動く俺を見て、彩月ちゃんは小さく声を洩らす。


「もしかして、緊張してる?」

「そ、そんなことはないし」


 実はめちゃくちゃ緊張してる。でも、それを自分の口から言うのはちょっと恥ずかしくて。彩月ちゃんが叩いた所より、少し離れた所に腰を下ろす。


「恥ずかしがっちゃって。もうちょっとこっちに来ていいのよ?」

「べ、別に恥ずかしがってないし」

「なら隣においでよ」


 昔に戻ったような、懐かしいやり取りだった。思わずこぼれる笑みに、彩月ちゃんも笑った。しかし、それも一瞬。哀しみに包まれる表情に変化した。

 俺はほんの少しだけ、彩月ちゃんに近寄る。


「海ちゃんらしいね」


 そう言ってから、彩月ちゃんは大きく息を吐き出した。


「私ね、離婚.......したの」


 彼女の口から飛び出た言葉。それは俺の想像の遥か上をいくものだった。心の中からは彩月ちゃんが捨てられた悲しみ、彩月ちゃんを捨てた怒り、それからそれらとは相反する彩月ちゃんを手に入れられる可能性が見えたことによる喜びが溢れ出す。


「ど、どうして.......?」

「浮気.......されたの」

「浮気だとッ!?」


 俺の好きな人を奪い去り、その上彼女の心を弄んだという。そんな愚行を許せる訳がなく、声を荒らげる。


「そう言ってくれたのは海ちゃんだけだよ。みんな、そうなんだ、としか言ってくれなかったの」


 彩月ちゃんの声が徐々に涙で濡れていく。


「それに、私の両親なんて魅力のないアンタが悪いなんて言うのよ」


 無理やりに作り上げた笑顔からこぼれる一筋の涙。それがいたたまれなくて、思わず目を背けてしまう。憧れであった彩月ちゃんのそんな姿は見たくない。本能的にそう思ってしまったのだ。


「そんなわけない。浮気をする男が悪いに決まってる」

「浮気をするのは男の性なんだから、それを許す寛大な心もいるとも言われたわ」

「そんな性なんてあってたまるかよ! 俺は.......、俺だったら、絶対に彩月ちゃんを泣かせることなんてしない!」

「.......ありがと」


 両目から大粒の涙を溢れ、流している彩月ちゃんは涙を隠すように、俺の胸に顔を埋める。

 服がじわっと涙で濡れていくのが分かった。だが、そんなことは気にならない。

 両腕を彩月ちゃんの背に回して、抱き寄せる。


「辛いことも、嫌なこともいっぱいあったんだよな。彩月ちゃんは頑張ったよ。お疲れ様」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 俺の腕の中で、彩月ちゃんは大声をあげて泣く。泣きながら言葉を紡ぐ。


「近所の人に合わせる顔がないから帰ってくるなって、なんでそんな酷いことが言えるのよ!」

「そうだな」

「私、我慢したんだよ!?」

「そうだな。彩月ちゃんは凄いよ」


 泣き喚く彩月ちゃんの頭を優しく撫でる。


「私、どうすればよかったの!? もっと我慢してたらよかったの!?」

「彩月ちゃんが我慢しても何も変わらなかったよ」

「苦手だったけど、毎日ご飯も作ったんだよ!? 料理、ちゃんと出来るようになったんだよ.......」

「そっか」

「洗濯も、掃除も.......。ちゃんと出来るようになったのに.......」


 次第に声が弱くなり、掠れていく。


「ねぇ、私の何がダメだったの?」


 何もかもが分からなくなったような。そんな雰囲気を纏う言葉を吐露し、彩月ちゃんは俺に寄りかかった。


「彩月ちゃんは何も悪くない」


 俺だったら、彩月ちゃんにこんな想いをさせない。


「浮気した男が悪いに決まってる」


 俺だったら、浮気なんてしない。いつまでも彩月ちゃんを見てる。


「頑張った彩月ちゃんを裏切るなんてありえないだろ」


 もし俺が彩月ちゃんと一緒になれたら.......。

 絶対に彩月ちゃんを幸せにできる。いや、してみせる。その自信だけはある。

 俺の言葉を黙って聞いていた彩月ちゃんは、涙の後を滲ませた顔を俺に向けた。ヒック、ヒックという音を立てながら、彼女はそっと言った。


「私.......、ズルいね」

「なんで?」


 腕の中にいる彩月ちゃんは、両腕を俺の背に回してぎゅっと抱きしめてきた。

 今まで抱き合ってきた誰もよりも、胸が高鳴り、締め付けられる。

 甘くて優しい香りに乗って届いた言葉は、卑屈にまみれている。


「海ちゃんは優しいから。きっと、私を肯定してくれるって思ったの」

「優しいも何もないだろ」


 彩月ちゃんが裏切られたのは事実だ。詳しいことは何もわからない。でもやっぱり、好きな人が泣いている姿を見るのはつらい。

 それを隠すように、抱きしめる手に少し力を込める。


「その優しさに漬け込んで、私は海ちゃんを利用したの」

「利用しろよ.......」


 悔しかった。我慢しなければ、涙が出そうだ。

 彩月ちゃんが俺を見る目は、ずっと変わらないから。幼かった頃の俺を見るような、そんな目が向けられている。

 ラブはない。あの時よりも、ずっと成長したはずなのに。俺を見る目が変わらないことが悔しくて。

 思わず口をついた。


「彩月ちゃんの為なら俺、なんだってやってやる! 悲しくて辛い時に、カッコなんてつけんなよ! だから、自分の気持ちを誤魔化さないでくれ.......」

「.......、海ちゃんに怒られちゃった」


 俺の言葉が意外だったのだろうか。彩月ちゃんは涙に潤んだ目をしばたかせる。


「もっとちゃんと悲しんで、俺に本音きかせてくれよ」

「うん。でも、もう大丈夫だから。もう、ほとんど整理は出来てるから」


 彩月ちゃんは俺の背に回していた腕を解き、俺から離れようとする。

 この手を離してしまえば、また彩月ちゃんは俺の手に届かない所に行ってしまう。そんな気がした。


「そうか。じゃあ、もうこの話は終わりだな」


 そう言ってから、俺も抱きしめていた腕を解く。彩月ちゃんは弱々しい、その顔に似合わない作り笑顔を浮かべてから立ち上がろうとする。

 その腕を掴み、俺は彩月ちゃんを引き戻す。そして、互いの息遣いが分かるほどにまで顔を接近させる。鼻の頭と頭が触れ合ってしまいそうだ。

 そのあまりの至近距離に、恥ずかしさが込み上げてくる。視線を逸らしてしまいそうになるの堪え、更に顔を近づける。


「彩月ちゃん。俺だってこんなに大人になったんだ」


 あと数センチ近づけばキスが出来そうな。そんな距離で、俺は告げた。


「.......っ」


 俺の突然の行動に驚いた彩月ちゃんは、目を見開き息を飲む。


「何かあったら絶対、俺に教えてくれよ。俺はいつだって彩月ちゃんの味方だから.......」


 俺の言葉を受けた彩月ちゃんは、留まっていた涙が目尻からすっとこぼれ出す。

 そして、ゆっくりと頷いたのだった。

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