第9話 「先生がルールを守らないでどうするのよ」
「大変なことになったな」
光吉先生の代理として、夢叶先生がみなが荘にやって来た。その日の夜。
海斗先輩は俺の部屋に来るなり、そう言った。
「見れるもんなら見たかったぜ、お前の修羅場」
「そんなニヤニヤしながら言う話じゃないですよ」
「いやいや、こんな話を真顔で出来るやついねぇーだろ」
ベッドで寝転がっていた体を起こし、キャスター付きの椅子に腰をかけた海斗先輩に冷たい目を向ける。
「いやぁ、まさか亜沙子ちゃんがそんな思い切った行動を取るとは思わなかったな」
「いやいや、完全に嫌がらせでしょ。俺が締め出しをした」
「それが分からないから、お前はダメなんだよ。てか、締め出ししたのか?」
呆れと驚きを擁した表情で俺に詰め寄る海斗先輩。分かるも何も、完全に嫌がらせだろう。俺が夢叶先生のこと好きだって知って、やってるんだから。嫌がらせ以外の何者でもない。
「ちょっと何を言ってるかわかんないですけど、締め出しはしましたよ」
「お前、最低だな」
「あちらこちらでセフレ作ってる海斗先輩には言われたくないです」
「それは俺の青春だから」
悪びれる様子もなくケラケラと笑う海斗先輩。別に俺は誰でも構わずヤリたいとかは思わないけど、夢叶先生とは――。
「あ、今先生とヤるの想像したろ?」
「し、してないです!!」
「その反応、絶対想像したな。このむっつりめ」
「だ、だからそんなのしてないですよ!」
俺の反応を見て楽しそうな笑顔を浮かべる海斗先輩。キャスターをクルクルと回転をさせ、椅子を回転させながら俺の方へと近寄ってくる。
「気づいてないなら、それはお前だけのせいじゃない。まぁ、今回の場合はかなりお前に非があると思うけどな」
椅子の回転をやめ、海斗先輩の顔が俺の顔と急接近する。その状態のまま、苦笑気味にそう告げてから海斗先輩は立ち上がる。
海斗先輩が一体何を言いたいのか、さっぱり分からないがとりあえず真剣に聞いていた方がいいような気がするから真剣に聞く。
「稜がどんな恋愛をしようが、俺は文句は言わねぇ。稜が夢叶先生のことを好きだってのも俺は知ってる。でもな、もっと周りも見た方がいい」
海斗先輩はそこで言葉を区切り、部屋をぐるりと見渡す。それから再度口を開く。
「きっと、見落としてるもんがあるから。それが稜にとってどれだけものかは俺ら第3者からは分かんねぇけど、稜にとってかけがえのないものかもしれないから。突っ走るだけじゃなくて、1度周りを見渡してみろよ」
それだけ言うと、海斗先輩は扉の方へと歩いていく。そして、出る寸前に俺の方を振り返る。
「例えば、この殺風景な部屋とかな」
と、笑いを堪えるようにして言い去って行った。
正直、海斗先輩の言ってることはほとんど理解出来なかった。でも、恋愛には押してダメなら引いてみるなんて言葉があると聞く。要するにそういうことなのだろう。
引く、か。夢叶先生を無視するとか、かな?
そう考え、俺は俺が夢叶先生を無視している様を想像してみる。
「ありえない! 何をどう考えたら無視なんて出来るんだよ!」
想像しただけで胸が痛くて、辛くて、涙が出そうだ。
「叫んだから喉乾いた」
そう呟き、俺はベッドから這い出でると部屋を出てキッチンや冷蔵庫などが設置してある居室へと向かった。
居室に入ると、同時にメガネをかけた夢叶先生の姿が視界に入った。いつもとは違う、夢叶先生の容姿にドキッとしてしまう。
「ゆ、夢叶先生?」
「あ、稜くん。どうしたの?」
「どうしたのって、それはこっちの台詞だよ。夢叶先生こそなんでいるの?」
「何でって、私寮監だからだよ?」
「あ、そっか.......」
夢叶先生ってほんとに真面目だからな。他のどの先生も俺たちの顔を見るや、直ぐに自宅へと帰るから。寮監が滞在しなければならないってルールがある事すら忘れてた。
「夢叶先生は真面目だね」
「そうかな? 普通だと思うけど」
キッチンに併設してある食器棚からコップを取り出しながら、俺が言うと夢叶先生は小首を傾げた。
「当たり前を当たり前にすることがどれだけ難しいか、夢叶先生なら分かるんじゃないの?」
冷蔵庫を開け、中からミネラルウォーターを取り出しコップにつぐ。外気温とコップ内の温度との差でコップの表面で結露が始まる。
それを眺めながら、ミネラルウォーターを冷蔵庫に戻し夢叶先生の隣の椅子を引いて座る。
「まぁ、そうだけど。先生がルールを守らないでどうするのよ」
夢叶先生は誰よりも先生で、生徒のことを考えてくれているんだ。夢叶先生の優しさに触れると、どうしても胸が暖かく包まれたような気になる。
あぁ、やっぱり夢叶先生が――好きだなぁ。
危うく口から出てしまいそうになった言葉を、ミネラルウォーターと共に飲み干す。そして、代わりの言葉を口にする。
「やっぱり夢叶先生はすごいです」
「そんなに褒めても成績はあげないよ?」
「いやいや、そこは上げてくださいよ」
「稜くんが勉強頑張って、テストでいい点を取ってくれたら上げるよ?」
「それ普通のことじゃないですか!」
バレたと言わんばかりに、夢叶先生は悪戯っぽい笑みを浮かべる。そして、手元にあったプリントを1枚俺に向ける。
「明日の授業用プリント作ってるんだけど、稜くんちょっと見てくれる?」
「いいですけど。見てもいいやつなんですか?」
「テストとかじゃないから大丈夫だよ」
「じゃあ、見せてもらいます」
はい、と夢叶先生は俺にプリントを手渡す。それを受け取る際、俺の指と夢叶先生の指が触れる。
「ご、ごめんなさい」
「お、俺の方こそ.......」
嬉しさ、気恥しさから慌てて手を離す。夢叶先生も恥ずかしかったのか、顔を赤くして手を離している。
「あっ.......」
そこでようやく気づく。夢叶先生が作ったプリントが、俺の飲んでいたコップが掻いた結露の汗で出来た水たまりにはまっている事に。
夢叶先生が作った、夢叶先生の努力の結晶が――
慌てて、自分でも驚くほどに早い動きで水たまりからプリントを救う。だが、プリントは無傷という訳にはいかない。
濡れた場所の文字は滲み、何と書いてあったのかすら読めない始末だ。
「せっかく.......せっかく夢叶先生が作ったのに――。ごめんなさい!!」
「い、いいのよ。また作ればいいだけの話だから」
「で、でも! 俺がちゃんと持っていれば.......」
「それは私も同じことよ。ちょっと驚いちゃって離しちゃったのは同じだから、稜くんは気にしなくてもいいよ」
時間を掛けて作っていたのだろう。そう言っている夢叶先生の表情はどこか、悲しそうに見えた。
しかもプリントはアナログ作り。デジタルならばデータがあるかもしれないが、夢叶先生のプリントにはそれがない。
全て1から作り直し。
もう時間は23時を越えようとしている。しかも、このプリントを使うのは明日と来ている。
このままではプリントは間に合わないか、夢叶先生が徹夜をすることになるだろう。
「先生。俺、手伝いますよ。いや、手伝わせてください」
「だ、ダメだよ。稜くんはもう寝ないと」
「嫌です。これだけは夢叶先生が何と言おうと、絶対に手伝わせて貰います」
「でも、明日も授業あるんだよ?」
「それは夢叶先生も同じでしょ?」
「で、でも。私は大人だし.......」
「関係ないです! それに一人でやるより二人でやった方が早く終わりますよ!」
口角を上げて、俺は盛大の笑顔を浮かべた。すると、夢叶先生は短く息を吐き捨ててから、諦めたように言う。
「それじゃあ、お願いするわ」
「任せてください!! それで、俺は何をすればいいですか?」
「そうね。まずは、同じことが繰り返されないように、テーブルの上の水を拭こっか」
「了解です!」
敬礼をするかのように、額の辺りに手を当てて返事をした。
* * * *
あ、あれ?
なんか、顔の下が痛いんだけど.......。俺、確か夢叶先生と一緒にプリント作ってたよな?
てか、目がしょぼしょぼするのは.......。
「あ、稜くん起きた?」
起きた.......。ってことは、俺寝てたのか?
ど、どうして。俺、夢叶先生の手伝うって言ったのに.......。どうして.......。
自分のやらかしに絶望しながら、俺はテーブルからゆっくりと体を起こす。
すると、何かが背に乗っていたらしく、それがずり落ちる。
慌ててそれが何かを確認する。どうやらそれは、薄手の掛け布団らしい。
「え.......」
「いや、もう6月だけど。風邪でも引いたら困るかなって思って」
夢叶先生は頬を掻きながら小さく言う。
寝てしまった俺に夢叶先生が掛けてくれたと思うと、嬉しすぎる。
嬉しすぎて、頬が緩むのを抑えられない。
「あ、あの.......。ありがとうございました」
「うんん、いいのよ。まぁ、この布団取ってきてくれたのは、青井くんなんだけど」
海斗先輩、こういうところは優しいんだよな。
海斗先輩の手柄を取らないように、弱々しく言う夢叶先生。どこか照れくささがあるような、そんな雰囲気の夢叶先生に俺は告げた。
「それでも、ありがとうございました」
「う、うん。どういたしまして?」
どうしてそこまでお礼を言ってくれるのか分からない。そう言わんばかりに、小首を傾げながらも返事をする夢叶先生。
戸惑いと困惑に満ちた表情は、普段学校ではあまり見ることのできない表情。それを見ることが出来て、朝からとても幸せな気分になれた。
「それよりも夢叶先生」
「なに?」
十分に朝日が差したみなが荘の居室。俺と夢叶先生しか居ないその空間で。
陽光を受けた夢叶先生の横顔は白い肌が煌めき、息をするのを忘れるほどに綺麗だ。
「プリントの方は.......」
「あ、うん! 稜くんが手伝ってくれたおかげで2時前に完成したよ!」
満面の笑みを浮かべた夢叶先生は元気いっぱいに声を上げた。しかし、その笑顔はいつもとは少し違った。どこか、無理をしているような、そんな感じがした。
「よかったです」
テーブルを拭いて、その後資料の読み上げなど手伝えるだけは手伝った。
でも、最後の方。夢叶先生が仕上げにかかった辺りで、俺のすることはほとんどなくなった。
夢叶先生は寝てもいいよ、と言ってくれたけど。夢叶先生と一緒にいたい、という強い思いもあり完成を待っていた。その辺りから記憶が無い。
たぶん、その辺りで寝落ちしてしまったのだろう。
「稜くん、ほんとにありがとね」
夢叶先生は優しくそう告げると、鞄を手に持ち玄関の方へと歩き出した。
「せ、先生?」
「わ、私さき行くね」
いつもの先生らしくないな。不意にそう思った。あまり顔を合わせようともせずに、トレードマークのような笑顔はあまり見せてくれない。
朝だということもあるかもしれないが。それでも何だか変に感じた。
「え。で、でも早くないですか? それに朝食だって.......」
ここみなが荘では、朝食も自分たちで用意しないとダメなのだ。そのため、夢叶先生はまだ何も食べてないことになる。それに、時刻はまだ6時を少し回ったところ。
いくら先生が生徒より学校に行くのが早いといっても、始業より2時間以上前というのは早すぎるだろう。
「い、いいのっ!」
夢叶先生はいつもよりも大きな声で、俺を振りほどくほどの強い意志のこもった言葉を。整った幼顔を真っ赤に染めて言った。
そしてそのまま、玄関を飛び出し、学校の方へと駆けて行く。俺も慌てて外に出るが、夢叶先生は駆ける脚を止めるとこなく、学校の方へと向かっていた。
何があったのか分からない。昨日の夜はたぶん、いつも通りだったと思う。いや、夢叶先生が俺に言えなかっただけかもしれない。
何も相談して貰えない。夢叶先生の力になってあげることも出来ない。
そんな自分の無力さに奥歯を強くかみ締め、どどんと小さくなる夢叶先生の背を眺めていた。
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