第5話 「それが人間のこころなのかもしれないね」
「え。あっ、はい」
体の前で小さく手招きをしている夢叶先生は、とても可愛らしく、愛らしさすらも覚えてしまう。
先ほどまでの葛藤はどこへやら。
俺は夢叶先生の可愛らしい姿に絆され、浮き足立って扉の前まで行く。
「外でいい?」
「あ、はい」
廊下を指さしながら、夢叶先生は訊く。俺は特に深く考えることなく、空気を多く含んだ声で返事をした。
教室内からは喧騒が聞こえてくる。
ホームルームが終わり、教師が教室から出たとなれば生徒にとっては束の間の自由時間だ。
直ぐに始まる1時間目の間に設けられた休み時間を、存分に堪能しようとする。
廊下にはまだほとんど人が出ておらず、教室から洩れる音だけが響いている。
「そ、それで何ですか?」
思いの外に静かな廊下に緊張を覚える。
き、昨日のこと言われたりするのか?
「稜くんって、みなが荘? で生活してるよね?」
「そうですけど」
想像をしていた内容との違いに、思わず小首を傾げる。
だが、夢叶先生は安心したように安堵の息をこぼす。
「光吉先生が今週の寮監でしょ?」
「そういえば」
あんまり気にしたことないけど。
みなが荘は、学校に隣接した一般寮と比べて寮らしくない。だが、学校側が管轄する寮であることに違いはなく、各週で寮監が置かれている。
まぁ、実際名前だけと言った感じは否めないが。
そういえば、光吉先生昨日来てなかったな。
今更ながらに思い出したところで、夢叶先生が口を開く。
「それで代わりとして私が行くことになったんだけど」
申し訳なさそうにうなじを掻きながら、心配そうな表情を浮べた夢叶先生。
もう少し近づけば吐息も聞こえそうな距離。脈が早くなっているのが分かる。
諦めた方がいいのかもしれない。でも、夢叶先生を間近で見れば全ての思考がぶっ飛んでしまう。
それほどまでに、俺の中は夢叶先生に支配されている。
「今年この学校に来たばかりで、まだみなが荘の場所がよく分からないの」
好きになれば負け、という言葉がある。
俺はその言葉の意味がよく分からなかった。どうして好きになれば負けなのか。
好きになった方が、好きになられるより気持ちの整理も出来ているし、動きやすいのではないか。そう思ってた。
でも、ようやく理解した。
好きになればその人の一挙手一投足にドキドキさせられて、その人のことしか考えられなくなる。
「そうなんですか。なら、俺が案内しますよ!」
数十分前に無視されたことなんて忘れ、俺は胸を叩いて言っていた。
嫌なことがあったとしても。好きな人の優しさに、笑顔に、言葉に触れるだけで、全てが帳消しになったように思えてしまう。
めちゃくちゃ単純だなぁ。
自分でも分かってる。
分かってるけど、俺の言葉を受けて心配そうな顔から笑顔に変わる夢叶先生を見ると悩みなんて吹き飛ぶ。
夢叶先生のことで悩んでいたと言うのに、全てが忘れられる。
「ありがとう! あ、でも放課後すぐって訳には行かなくて……」
「先生の仕事がありますもんね。分かりました。じゃあ、連絡貰えれば迎えに行きますよ」
「重ね重ね、本当にありがとうね」
夢叶先生はそう言って、俺に頭を下げた。
それのお陰で、夢叶先生の胸元が緩くなる。
がっつり開いているわけではない。少し胸元の開けた白色のブラウスを着ているため、深く頭を下げたりすると、谷間が見えそうになるのだ。
見たい気持ちはすごくある。見たくないなんて思うわけがない。
だが、それでも。俺は目をそらした。
ここでそれを見てしまえば、終わりのような気がしたから。純粋な好きではない、そう思われてしまう。そんな気がしたから。
俺は強く見たいと思う気持ちを抑えて言った。
「いえいえ」
夢叶先生は俺の葛藤など露知らず、柔和な笑みを見せてから職員室の方へと向かって歩き出した。
それから10分も経たないうちに、夢叶先生はプリントの束を持って教室へと舞い戻ってきた。
「光吉先生から預かってるプリントがあるので、それやってください。終わったら各自やりたいことをやっててくれて良いそうです」
光吉先生からの伝言を口にしながら、夢叶先生は各列にプリントを配っていく。
「難しそうですか?」
「んんー、どうだろう。ちょっと見た感じだから分かんないかな」
俺の前でプリントを数える夢叶先生に訊く。夢叶先生は首を傾げながらそう返事し、列の人数分プリントを俺に渡す。
「げっ」
自分の分のプリントを取り、残りを後ろへと回してからプリントに目を落とす。
内容はこの前の授業でやった、夏目漱石のこころについての問題だ。
前回の授業をほとんど寝ていたため、ノートは白紙。
絶対解けないな。
その時Kはどう思ったか、なんて知るわけない。
問題文に苛立ちを覚えながら、俺は教科書を取り出して本文を読んでいく。
――下宿先のお嬢さんを好きと言ったK。それを告白された先生は、Kを罵倒してお嬢さんとの結婚を取り付けた。
Kの恋心を知っていた故、お嬢さんと結婚することを言えずにいた先生。だが、Kはその事実をお嬢さんの口から聞く。それに絶望したKはそのまま自殺をしてしまう――
どうやらこの前授業でやったのはここまでらしい。これ以降の内容を問うものは、プリントに見受けられない。
「先生は、どうしてお嬢さんと結婚したんだ?」
先生はお嬢さんと結婚する前に、Kの気持ちを知っていたはずだ。ならばそれは裏切りじゃないのか?
「好きだったんじゃないのか?」
「えっ?」
俺の独り言に介入してきた夢叶先生に驚きが隠せず、上ずった声を上げてしまう。
やっべ。変な声出た。
「先生もお嬢さんが好きだったんだと思う。だから私はKが少し狡いように思えた」
「狡い?」
「うん。私はね、Kは先生がお嬢さんに好意を抱いていることに気づいてたんじゃないのかなって思うの。それで、先を越されないように手を打ったの」
「俺が目をつけてるんだからなって感じですか」
「そうだね」
短く言葉を切った夢叶先生。続く言葉が無いのかと、顔を上げた時。
俺と夢叶先生の視線がバッチリ合う。気恥ずかしくなり、逸らそうとしたが、先生からは逸らす気配が見受けられない。
「先生はきっとKに譲ろうとした。でも、それよりも自分の気持ちが勝ったんだ。先生がお嬢さんを好きな気持ちが」
「……」
真っ直ぐと見つめられた瞳には、こころに出てくる登場人物の心情を読み解こうとする夢叶先生の思いが感じられた。
国語には正解が幾つもある、と言われるのは正解が無いからだ。
もっと言うと、正解を知っている人が世界に1人、もしくは2人ほどしかいないからだ。
文学の中に出てくる人物は、虚構で、それらの全てを知ることができるのは、人物を生み出した親、作者だけなのだから。
だから、みんなそれぞれの解釈をする。
夢叶先生はさっき言ったように感じた。なら、俺は……?
俺ならどう感じる?
視線を教科書に落とし、ゆっくりと感じたことを口に出す。
「俺は2人とも愚かだと思う。先生に好きだと告白したのは、きっと協力して欲しかったからだ。1人で悩むより、2人で考えた方がいい」
海斗先輩や綾人さんに、昨日相談出来たから、俺は今ここに居れる。もし、誰にも相談出来ていない状態だったら、何もかもがぐちゃぐちゃで、訳わかんなくて、まともな精神状態でいれる自信が無い。
「そこまでは分かる。でも、結婚が決まったからって自殺する意味がわからない。当時は今の結婚と重さが違うのかもしれないけど、本当に好きならば、そこからお嬢さんにぶつかっていけたと思う」
言いながら思う。もし、夢叶先生に恋人が居たとしたら?
俺は諦めずに、攻めることができるだろうか。
無理だろうな。年齢が違うだの、立場が違うだの。ダサい言い訳ばかりで、自分を言い聞かせて諦めるだろう。自殺こそしないが、手を引くのは目に見えている。
「先生も、好きならばKに正面切って言うべきだと思う。裏でコソコソやるなんて、卑怯者のやることだ」
もし夢叶先生を好きと言う人が現れ、その相手がスポーツ万能のイケメンだったり、博識のイケメンだったりしたらどうだ?
俺は正面切って、そいつらと戦うことができるか?
無理だろう。少しでも、自分に靡いてくれるように、裏でコソコソやるだろう。
「結局、人間は愚かなんだろうか」
自分の好きなモノを手に入れるためならば、何だってする。きっとそれが愚かなのだろう。
「そうだね。結局みんなが自分勝手に動くから狡くなる。それを第三者から見ると、みんな愚かになるのかな」
顎に手を当てながら、夢叶先生はぽつりと言った。
少し真剣な表情で、こころについて考え直しているようだ。
「まぁでも、それが人間のこころなのかもしれないね」
「そうかもしれませんね」
問題は1問も解けてない。だけど、俺は夏目漱石のこころ、という作品について分かったような気がした。
「それにしても。稜くん、ちゃんと勉強できるじゃない。いつもそういう風にしていればいいのに」
先程とは打って変わって、夢叶先生はにっこりと微笑むような笑顔を浮かべ、俺に告げた。
「え、あっ。あはは」
夢叶先生の前で寝顔なんて晒せるわけが無い!
その一心で問題に向かって、こころを理解ていたのだ。
そこを褒められると、嬉しいような、気恥ずかしいような。そんな気分になった。
そして同時に、今日の放課後。夢叶先生と学校からみなが荘までという短い時間ではあるが、デートができるということに胸を踊らせていた。
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