第07話
「いまさらなんですけど……イデアがなくなってしまうって、すごく大変な問題なんですね」
「まあね。もっともアイ──いや、マイガスに言わせれば、これはこれで世界のひとつの形らしいけど」
「ひとつの……かたち?」
「こんな状態になっても世界は在る。存在が許されている。あまたの次元に世界があるというのならば、その中のひとつにこんな世界があってもおかしくはない」
「そんな無責任な!」
己の過ちを正当化したいのだろうか。だがマイガスのやったことは、どんな理由があっても許されるようなものではない。
世界を壊し、人々から平和を奪い、安らぎを蹂躙した男。法的な手続きを踏まえず謀殺されてしまったのはたしかに気の毒だが、どんな死に様であっても彼の暴挙をは比ぶべくもない。
「だって……いまだってたくさんの人がホールに呑まれて亡くなって……遺された家族だって、友だちだって……!!」
「オレに言われても」
眉根を寄せた少年にいなされて、ミントは口をつぐんだ。少年に訴えても仕方のないことだ。分かっている。責めるべきはマイガス当人であるべきだ。けれど彼はすでに故人だ。
悔しさや、憤り、心を占有するいたたまれない感情のはけ口を失ったミントは、それらを理性で必死に制御した。もしこの激情を、かつてマイガスの助手だったアイにぶつければ、少しは晴れるのだろうか──そんなことを考えて、すぐにそんな自分を拒否する。
たしかに、アイは世界中のだれよりもマイガスに近い人物だった。だけどやはりマイガス本人でないのだ。ならば、感情で責め立てるのはよくない。
「……すみません」
「いや、いいよ。ミントがそう思うのは当たり前だし、責められたらオレは文句言えない。世界が壊れた責任の一端はオレにもあるから、正直耳が痛いし」
「……? あなたが……?」
「そう。──なんかようやく本題に入ったな」
本題、と聞いて、ミントはどうしてこんな話しに転じてしまったのか、それを順序立てて回想した。そう言えば元々はアイが話題の中心だったはず。それがいつの間にイデア理論の講釈にすり替わったのだろう。
「まったく、ミントがイデアを『世界を構成する』とか言い出すから」
「す、すみません……」
そういえば自分が原因だった。
「っていうか、そんな中途半端な知識のまま魔法をあつかわせる協会にも問題あると思うんだけどね。……ともかく」
声音を切りかえた少年は、背もたれに預けていた胸板を離し、居ずまいをただした。
こうして改めて観察すると、十歳と呼ぶには大人びた顔立ちをしていることに気づく。体格だって筋肉質だし、腕力はミントと同じくらいか、へたするとそれ以上にありそうだ。
少年よりも年上になるミントの弟だって、協会の雑用仕事でずいぶん鍛えられたが、少年と比較すると見劣りするのは否めない。
そこの差はやはり、都会と田舎では基本的な育ち方がちがうせいだろうか。あるいはアイの教育方針の問題なのかもしれない。……後者はかなりあり得る。
そんな黙考をしていると、ミントはふと、脳裏にアイの冷やかで居たたまれない視線を思い出した。
アイはいつもミントをそんな目で見つめる。はじめはその原因が、かつての上司マイガスを謀殺され、研究所を追われた恨みがあるから、協会に所属しているミントをそんな風に見るのだと思っていた。協会の協力要請をにべももなく断ったのも、それの因縁のせいだろう、と。
しかし少年によると、アイは世界の秩序の回復を願っているとらしい。ミントと同じように平和な世界に戻って欲しいと、願っていると……。
そこにあるアイの行動の矛盾はなんなのだろうか。いったい彼女は、世界を壊したままにしたいのか、元に戻したいのか……どっちなのだろう。
「アイさんの守りたいものって、大切なものなんですか?」
「アイにとってはね」
答えた少年の言葉はひどく淡白で、どこか侮蔑的な響きがあった。ミントの予想とは温度差が感じられ、ここにも垣間見える矛盾に首をかしげる。
少年はその問題をひとまず置き去りにし、穏やかに先を続けた。
「マイガスは、イデア界から奪った三つのイデアを物質界にとどめるため、それぞれに肉体を用意して幽体の中に閉じこめてしまった。それが〈アーティフィシャル・チャイルド〉」
「……造られた……ひと……?」
言葉の意味を呟き、ミントは愕然とした。
知らなかった。
マイガスがイデアを奪ったことは有名だが、具体的にその後どうなったのかは語り継がれていない。協会でも奪われたイデアのその後は知られていないはずだ。
……いや、マイガスの研究所を襲撃し、マイガスを殺害してその研究書をあさった協会が、なにも知らない、なんてあり得るのだろうか。もしかして……もしかしなくても、イデア協会の上層部で秘匿された情報なのでは?
「知らないの? それとも、知らされていない?」
「それは……」
「まあ、あんまり外聞のいい話でもないしね。人が人を作った、なんて」
たしかにその通りだ。倫理的な問題も多い。あるいは協会は、これ以上マイガスの名を貶めぬために、あえてその事実を伏せたのかもしれない。
「とにかくその〈アーティフィシャル・チャイルド〉──〈眠らぬもの〉とも呼ばれる彼らは、研究所の地下に拘束されて研究対象にされていた。マイガスの助手だったアイは彼らに接する機会は多くて……だから、しかたがなかったのかもしれない」
「しかたない?」
「……アイはその中のひとりに恋をしたんだ」
ぱちくり、と、ミントはしばしば瞠目した。
恋? ──恋? と、何度も何度も繰り返す。
そのほのかな温かさとほろ苦さは、ミントよりもはるかに大人である彼女に、あまりにも似つかわしくない。
「え? えっと………………アイさんが…………ですか?」
「他の誰かの話しをしてたっけ?」
していない。間々、話題がそれてしまうことはあったが、少なくとも今の会話には直前にアイが、と言及されていた。つまり恋をしたのはアイで、恋をされたのは造られた人間〈アーティフィシャル・チャイルド〉、というわけだ。
「そ、想像力が追いつかない……」
「そこは軽くスルーしてやってよ」
ぐるぐると悩むミントに助言を贈り、少年は背もたれを両手で握ってぐっと背中をそらした。天井を仰ぎ、
「でも十年前……」
言葉を足して、再び姿勢を戻す。
「例の事件が起きた。マイガスが殺されたあの日、〈チャイルド〉たちも一緒に襲われた」
「……十年前の暗殺事件の目的は、マイガスさんひとりではなかったんですね……」
「だね。〈チャイルド〉が持つ魂はイデアが変換されたものだ。だから肉体を滅ぼし魂を解放すれば、イデア界にイデアが戻る。むしろ協会の本命は〈チャイルド〉のほうだったはずだ」
「でも、失敗した?」
世界は依然壊れたまま。つまり協会の目的は完璧には果たされなかった、ということだ。
しかし少年の回答には肯定も否定もなかった。
「どうだろう。ただ……
まぶたを伏せた。
それは、つまり。
「……どういう……」
意味なのかと。
声にする前に、少年は口を開いた。
「アイが恋をした〈チャイルド〉は、死んだ。でもアイはそれを許さなかった。だから生き返らせた。自分の体に〈チャイルド〉の遺伝情報を移した受精卵を宿し妊娠したんだ。そこから先は普通の出産と変わりない。十ヶ月後、オレはもう一度生まれた」
「…………え……」
何を言われたのか分からなかった。いや、言葉は理解できても、思考が追い付かないのだ。
「……そんな……だって……」
少年の言葉が正しければ、彼は〈チャイルド〉だと、イデアを宿した魂を持っていることになる。一度死んで生き返った、彼はそう言っているのだ。
「……嘘……」
こんな少年が?
「だって、君は、アイさんの息子さんでしょう……?」
「生物学上じゃ、そう言えなくもないかもしれない」
少年の声はあくまでも淡白で、淀みなく、嘘の欠片もなかった。
「〈チャイルド〉の魂が、まだこの三次元世界に留まっていたからできた方法だよ。なにせもとがイデアそのものだから、〈チャイルド〉の魂は普通の人間よりも結束力が強くて壊れにくいんだ。おまけに死の間際に、アイは〈チャイルド〉の未練を引きだしたし。……いま思えば、あれは確信犯だったんだろうな」
かすみを帯びる少年の目がなにを回顧しているのか、ミントには察せられない。ただその双眸は井戸の底をのぞくように深く、とても十歳の少年の目とは思えなかった。
「オレが〈チャイルド〉だから、世界は壊れたままなんだ。協会がオレのことを知れば、十年前と同じことになるだろう。アイはそれを避けたがってる。だから協会には協力しない。──オレが生きている限りね」
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