第06話
「ミントは、どうして世界がこうなったのか、知っているよね」
あきらかに年下の少年に前触れもなく呼び捨てにされて、けれどそれがあまりにも自然でなんの違和感もなく、おまけに子どもでも答えを知っているような質問で唐突に話題を切りかえられて──と、さまざまな事柄が重なり、ミントはとっさに答えられなかった。
「……イデア界から、イデアが奪われたから、ですよね」
「うん、まあ要はそういうことだよね。マイガスがイデア界の存在を証明するために、イデア界の要素であるイデアを奪う実験を行った。イデア界は三次元世界より上位に当たるから、イデア界の変質はこの世界にも影響がおよんで、結果的に三次元世界も変容させてしまった」
空間の歪みであるイデアホール、そして魔法。生命の歪みであるモンスターと能力者キューブナー。これらは世界が変質した結果に起きた事象だ。
当然、マイガスは問責されたが、当時彼が籍を置いていた国の法律では彼を裁くことはできず(責任の所在の証明がむずかしかったらしい)、公的な糾弾はされなかった。しかし世論の強い後押しを受けて、マイガスは刑戮された。具体的には、暗殺されたのだ。それを成したのが現在のイデア協会だ。
協会はその後、民心を得てまたたくまに一大組織となり、イデアホールによって倒壊していく国々の後釜を引き取って世界を統治した。遺された子どもたちを保護し、モンスターと戦える自衛組織を形成して、マイガスが残した研究資料からイデアホールを閉じる方法を編み出した。
これが、この十年間のできごとだ。
「じゃあ、そもそもの原因になったそれ──イデアって、イデア界って、なに?」
「え? ──えーっと……」
少年の新たな質問に解答すべく、ミントは必死に協会の学校で履修した授業を思い出そうと頭をひねる。
「イデアとは……『世界を構成する真実の姿であり、この世界はイデア界の影である』……でしたっけ」
「…………」
答えたとたん、少年がいかにも残念そうな──というよりも、「本気で言ってるの?」と顔に書きなぐったので、ミントは冷や汗をかいた。
「あ、あれ? ちがう?」
「ちがうってほどではないけれど、微妙なニュアンスの差異が伝わってこないというか、伝わっていないというか……。なにそれ、もしかして協会って、イデアのことをそんな風に教えているの?」
「ええと……たぶん」
自分が教わったはずなのに語尾が消え入りがちになってしまうのは、あまり自信が持てないからだ。
ミントは魔法の潜在能力が高く、
「協会って……」
「あ、でもわたし成績良くなくて! だからわたしの理解が間違っているんじゃないかと!」
あわてて擁護したのは、あきれ果てる少年に協会という組織を誤解して欲しくなかったからだった。少年はアイの息子で、アイは協会に謀殺されたマイガスの助手だ。そのつながりを思うと、少年に余計な先入観を持って欲しくはないというエゴが働いた。
ミントは協会に恩義を感じている。自分のせいでマイナス性を増長させてしまうのは気が引けてしまうのだ。
「……まあ、そもそもイデアの概念イメージを言葉で表現するのは難しいし、専門家でも解釈にちがいがあったりするからな……」
少年のひとり言に、ほっと、胸をなでおろしたのもつかの間。
「でもミントは魔法を使うんだろ? 魔法の源泉はイデアなんだから、ちゃんと理解していたほうがいい」
と説教され、ミントは「はい……」とうな垂れた。
イデアとはなにか。
その問いに、少年は「
「たとえばさ、楽しい、ってなに?」
「え? えぇっと……こう、楽しいときに感じる気持ちで……」
わきわき、にぎにぎ、と奇怪に動くミントの両手の指を一瞥し、少年は冷静に「うん、言葉で表現できないことは分かった」とうなずく。
「とまあ、世の中には別の言葉に言いかえて具体的に示すことのできないものがあるよね。簡単に言うと、そういった〈形容がむずかしいもの〉の本体がイデアで、ミントたちが感じているいるのは上位世界から下位世界に落ちているイデアの影なんだ」
もちろん、これは簡単にたとえているんだけれども。
少年はそう言葉を足し、さらに詳細に続けた。
世界とは、ガラスの板を何枚も重ねたようなものだ。
たとえばイデア界が二枚目のガラス板だとして。そこに物を置けば、以下の世界──三枚目、四枚目といったガラス板に影が落ちる。上位世界の影響を受けるとは、つまりそういうことだ。
下から上に影響を与えることはない。影は常に上から下へとのみ投影される。
「だからミントがなにかを楽しいと感じたら、それは〈楽のイデア〉の、悲しければ〈哀のイデア〉が、ミントに反映されたってことになる」
「…………」
「この場合の〈反映〉とは、ミントの感情が一定の周波数に振れることによって特定のイデアの影が投影されやすい状態にあることを示す。周波数によって集まりやすいイデアの影が異なっているってことだね。
本来、各イデアの影は世界全体に蔓延しているけれど、部分的に濃かったり薄かったりする場合があって、土着の民族や生物に一貫した傾向が生まれる原因にもなっているんだ。
「…………」
「……聞いてる?」
「うあ、はい! 聞いてます! でも、まだ消化できないというか。学校の先生よりすごく分かりやすいんですけど……」
「まあ、なんとなくイメージを持ってくれればいいよ」
理解とは、多角的な見解や形容をたくさん見聞きすることによって多方面から深めていくものなんだから。
少年の、協会の講師も舌を巻くような論説に、ミントは声を失って心底から感服していた。
外見はせいぜい十歳前後の少年だが、もし彼が協会に籍を置いていたなら〈カズムホール〉あるいはその他のイデアホールを、もっと効率良く閉じるための研究チームに諸手を挙げて迎え入れられただろう。あるいは少年自身が研究者を名乗っていてもおかしくはないのでは?
これほど明晰な頭脳ならば、きっと今からでも遅くはない……。──そう、彼を協会に紹介して……もしかすると、協力を断られたアイの代役になり得るのでは……。
そんなよこしまな代替案を浮かべつつ、少年のイデア論をひとつひとつ思い返しながら復習する。
不変で、上位。
「ひとつ質問なんですけど、どうしてイデアは〈形がないもの〉だけなんですか? ええと、たとえばその本とかにイデアがあったとしたら……「本」という形の、つまり本というイデアがあるとも考えられるのでは?」
形があるものとないもの、その差はいったい何なのだろうか。湧いた素朴な疑問を口にすると、少年は好意的な反応を見せてくれた。
「それ、けっこういい質問。じゃあ逆に聞くけど、形がある、つまり存在する、って、なに?」
「ええ? えーっと……」
首をひねり、ミントはしばし思索をめぐらせる。だが幸い、先ほどの問いかけとは異なって、今度は具体的な答えが見つかった。
「存在とは……つまり、ここにいること、ですよね」
「うん、そうだね。ここに
どうやら正解らしい。ミントはほっと胸をなでおろすも、少年の講釈はまだまだ続いており、すぐにそれに聞き入らなければならなかった。
「つまり物質とは、三次元世界だけの、いわば特産品なんだよ。世界をガラス板に例えるなら、イデア界の下のガラス板に物を置いているってことだね。
だから物質が三次元世界より下位の世界に影を落とすことはあっても、イデア界に影響することはない。ちゃんと法則があるんだ」
「なるほど」
世界はガラスの板のようなものだ、という例えは、ここでより理解することができた。
重なるガラス板。それぞれの層に置かれた「物」。光源は常に上にあるため、「影」は下のガラスにのみ落とされる。
「じゃあ、わたしたちが感じている楽しいとか悲しいとか、全部イデアのせいってことなんですか?」
それはそれで薄ら寒いものを感じる。自分という存在の証明書を一枚、はぎ取られてしまったかのような、そんな残念さ、悔しさ。そして不服。こんな気持ちすらもイデア界から与えられたものだというのか。
「
そういえばそんなことも習ったような、とミントは考える。
「幽体には個人差があるから性格もちがってくる。生まれたばかりの赤ん坊だって、のんびり屋だったりすぐ泣いたり、いろいろちがうだろ。それは幽体を構成するイデアに多少の差異があるからだ。
もちろん幽体を持っているのは人間だけじゃない。動物も、植物も、大地そのものにも幽体はある」
そこでいったん言葉を区切り、少年はわずかばかりの自嘲を表情に変えた。
「だから、イデア界から五つのイデアが奪われた影響をみんな受けている。幽体のバランスが崩れた動植物はモンスターになるし、人間の中にはクリスタルキューブを宿した
それに、と少年は続ける。
「世界そのものもイデア界に感化されているから、安定性を失った空間にはイデアホールが発現する。魔法だって、空間がきしむエネルギーを変換したものだ。……これらはすべて、十年前の実験から始まったんだ」
ミントはうつむき、しばしば沈潜した。
十年前、マイガスがイデア界からイデアを奪い、この世界に奪ったイデアを閉じこめてしまった。
結果、イデアホールやモンスターといった綻びが発生して、世界を混乱させている。当人はもう死んでしまったというのに。
「もし三次元世界よりもさらに下の世界があるとしたら、それらの世界も同じ影響を受けているだろうね。もっとも、それがどんな形で下位世界に現れているのか調べる術はないけれども……」
イデアがなくなったから、世界は壊れた。さらにまた別の世界も壊れているのかもしれない。
判っていたこととはいえ、ミントの両腕にはとても抱えきれないほど大きな問題を前に、怖気づいている自分を自覚した。
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