第03話
アイの声が聞こえた気がして、少年は玄関へ向かった。そこで彼が見たのは、土砂降りの雨の中、倒れる少女をアイが辛うじて受け止めている姿だった。
決して逞しいとは言いがたいアイの腕に、少女の体がもたれかかる。一見すると華奢ではあるが、それなりに重いのだろう、受け止めたアイの顔が歪んだ。
アイは身をかがめ、彼女を横抱きにして抱えた。女の細腕で少女を抱えられるのは、アイが
その隣で、村唯一の医者でありこの家の家主が、少女の物とおぼしき荷物を回収してアイに二言三言、指示を飛ばした。アイはそれにうなずき、ぬれねずみの三人は家屋内へと進んだ。
「トワ、扉を閉めて」
アイの指示に従うと、雨音が遠ざかる。
小屋の中は広くはない。玄関と直結している部屋はダイニングとリビングを兼ねており、間仕切りもない奥はキッチンになっている。脇の扉は寝室につながっていて奥には寝台が二つ用意されているが、それは誰のものというわけでもなく、アイと少年そして医者、二つの寝台に、眠りたい者が眠る。それがこの家の規則だ。残りの部屋もまた三人共同で使っている部屋ばかりで、小屋の中はおおよそプライベートというものがない。
しかし三人の誰かがそれに不満をもらすことはいままで一度もなかった。そもそもこの家はじいさんのものだから、アイや少年が口をはさむ権利はなかった。
リビング兼ダイニングの、床に敷いた絨毯の手前まで少女が運ばれる。
玄関からそこまで、短い距離ではあるが、たっぷりと水の尾が引かれたのを見やり、少年は眉をしかめた。果たしてこの水拭きやら掃除やらは、いったい誰がやるのか。
「ほれトワ、さっさとタオルを持ってこんか。それから水を火にかけぃ」
「どうしてオレが」
不愉快だ。少年は顔をしかめて翁に反抗した。
「だいたい、どうして助ける? 放っておけばいい」
「ワシとアイの命の恩人じゃぞ」
「ちょ、私は別に」「見捨てられるか」
なにか言いかけたアイを完全に無視し、祖父は手早く雨よけのコートをぬいで診察にとりかかった。
「アイ、おぬしは着替えを持ってこい」
医者らしい真剣な眼差しを荒い息づかいの少女の首筋に向け、脈をとる。
その背中を見たアイは大仰にため息を吐きながら、やれやれ始まったと言わんばかりに首を横に振った。
「オレは歓迎しない」
「それは私も同感よ」
それはそうだろう。そうでなければ五日も家の外に締めだしたりしなかったはずだ。生来情に弱いアイが──本人に自覚はないが──、ひとり奮闘する少女を心配しつつも決して家に入れようとしなかったのだから、よほど気に食わなかったと思われる。──ミントと名乗った少女が持ちだした「マイガス」なるものが。
「でもこうなって私たちの話しを聞いてくれたことがあった? なに言っても通じやしないわ、このじーさんには」
肩をすくめて、女は
「どこに」
「シャワー。このままじゃ私も風邪をひくでしょ」
手をひょいひょい、といいかげんに振り、すぐに戻るわと言い残して女は足早に去っていった。その背中を見送りながら、少年はいまいち釈然としない状況を分析する。
なんだか、初めからこうなる予定だった気がするのだ。アイがどれだけミントを拒否しようとも、じいさんが隣町──といってもかなり遠いが──の診察から帰宅すれば放っておくはずがない。
アイだって、そのあたりは分かっていたはずだ。彼女は翁の孫娘で、十年前まではずっと離れて暮らしていたけれど、血縁のよしみというか、互いに性格は熟知している。そんな彼女が翁の帰宅とその後の展開を予想していなかった、とは思えない。
アイはそれでも先延ばしにした。
(よっぽど嫌われてんな)
もともとアイは協会にもあまり友好的ではない。イデア協会は、イデアが欠けた不安定な世界、つまりこの世界で生きることを強いられた人々を救済する目的で組織されていて、その始まりは「世界を変質させた張本人」の殺害から数えている。アイが一番いけ好いていないのは、すでに故人となったその「張本人」だが、かといって彼を嫌っている風でもなく、一方で彼を闇にほうむったイデア協会のやり方も
(わがままな女)
そういえば食べ物もあれこれと好き嫌いが多いことを思い返していると、翁に「ぼうっとするな」とせつかれ、思考の打ち止めをよぎなくされた。少年はおざなりに返事をすると、すぐに頭を切りかえ、アイとのやりとりの前に指示されたタオルとお湯の準備を始めた。
タオルを取りにバスルームへ入ると、ちょうどアイがぬれた衣服をぬぎすてている最中だったが、少年は顕わになった上半身を歯牙にもかけず、わきの棚から洗濯済みのタオルを多めに取りだした。母と息子、いまさら恥じらうような仲ではない。
トワが戻ると祖父は簡単な診察を終えたところで、そこに追随してきたアイが祖父の指示を受けて少女の着替えを始めた。
雨でぬれた服をはぎとり、体をふきあげて着替えさせ、寝台に横たえて、水枕を敷き、濡布をに乗せる。
アイが風邪を引くことは間々あったが、少年も翁もこれまで体調を崩した事が一度もなく、彼女が病人を介護する姿を見たのはこれが初めてだった。意外にまめまめしい。そして思う。
「病人の介護って面倒」
「それが楽しい、という人間もいるわね。じーさんがいい例でしょう」
「信じられない。人間ってどうかしてるよ」
「だから適材適所という言葉が生まれたのよ。……これでいいわね」
キルト生地の上掛けを三枚重ねて病人の体をおおう。
氷枕と濡布にはさまれた少女の顔は特別美人というわけではないが、熱にうかされて全体的に赤っぽく、艶っぽさが割り増されているようだった。目鼻立ちはそれなりに整っているので、人によっては可愛さを覚えたりもするのだろう。
直毛のアイとは違って髪がくるくると渦巻いているのは生来のものだろうか。それがまた彼女に愛らしい印象を加味している。
「で、アイはどこで寝る気?」
「………………ソファ、かな」
この家にベッドは二つしかない。一つは少女が、もう一つは走り疲れたじいさんが陣取っている。
リビング兼ダイニングにはダイニングテーブルなどなく、木製のテーブルが一つとセットの椅子が一脚、それからカウチソファが一つだけだ。他に体を横たえられるような家具はない。寝台が二つとも使えない以上、ソファに御鉢が回るのは自然だったが、少年にとってそれは更に機嫌を損ねられる結論だった。
「冗談だろ、オレの特等席だ」
「しかたないじゃない。しばらくは、本を読むのときは椅子を使ってね」
「しばらく!?」
「あの様子じゃ彼女、しばらく目を覚まさないわよ」
お願いね、と言い置き、アイは寝室を後にした。
少女の世話が終わっても、未だ後片付けが残っている。少女のぬれた衣服、使用済みのタオル。それからびしょぬれの床の掃除。それらの整理へと向かったであろうアイの背中を見送り、次いで、彼は寝台の上のミントと名乗った少女へと視線を移すと、この恨みを誰へぶつけるべきか、真剣に考えた。
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