02 エンカウント

 フクロウの鳴き声と、虫の声が聞こえる。三人は特に感慨もないようだが、シュリはそれが不思議で仕方ない。


 ――どうしてフクロウなのか。いや、夜に鳴く鳥と言えばフクロウに決まっているが、日本で暮らして十八年、民家から羽ばたくコウモリは目撃した経験があるものの、シュリは今まで一度もフクロウの鳴き声を聞いたことがない。


 そもそも日本にフクロウなんているんだろうか……。

 そんなことを黙考する。


「――星の位置から考えて」


 呟いたのは四道だった。


「日本であることは間違いないんじゃないかな」


 いかにも秀才らしい結論だ。あくまでも推測の域を出ていないのは、現在の時間がはっきりせず、星を見ても現在地を的確に把握出来ないからだろう。


「でも、ここすごく寒いよ? 日本ってこんなに寒かったっけ?」


 二の宮の吐く息が白い。

 秀才は、端的に述べた。


「昔はね」


 昔……。

 誰もがその単語を反芻する。


 昔とはどれくらい過去なのか、言葉なき目線会話で二の宮と三好が互いに問い掛けている。


 シュリは考えるのも無駄だと、反芻しただけで思考を即座に放棄した。何かをどうと決定付けるには圧倒的に情報が少ない。四道の最初の提案が現実的に思えてくる。考えても結果の見えないこの状況では、とにかく人を探して話しを聞くのが一番手っ取り早いだろう。


「じゃあ、何だ? テメェはここが大昔の日本だって言ってるのかよ」


 寒さのせいか、あるいは自分が考えて出した結論に青褪めているのか、三好の顔は強張っていた。

 隣の二の宮の顔も芳しくない。どうやら彼女も同じ結論に至っているようだ。


「そんな非現実的なことは言っていない」


 四道は首を横に降った。


「あぁ? テメェ、ついさっき昔はって言ったじゃねぇか」

「確かに言ったけど、誰もタイムスリップしたなんて言ってないよ。これだから短絡的な人間は嫌いなんだ」

「てんめ……」

「ジンくん、やめなって」


 二の宮が三好を親しげに呼び、シュリはそう言えばこの二人、教室でもよく喋っていたな、と思い起こす。クラスの人気者同士、気が合うのだろう。


「僕が言いたいのは、地震の影響で何らかの気候の変動があったんじゃないかってことだ」

「なんらかってなんだよ」

「見ていないから断言出来ない」


 三好の目尻が怒りに反応する。しかし今度は言葉も、手も出なかった。彼の右腕を、二の宮がしっかり握っていた。


「……でも、そうだな。――例えば、地震で気圧が変化して、それがシベリア高気圧に影響を及ぼした、とか。シベリア高気圧はブロッキングにも影響されてる。偏西風で寒気が発達して、上空五千メートルから寒波を出しているんだよ」


 そのうち雪でも降ってくるんじゃないかな。

 四道の顔が歪んだように見えたのは、シュリの気のせいではない。これは彼流の冗談だ。


 それに空は雲一つない星空。放射冷却はしているとしても雪が降るような空ではない。


「な……!」


 しかし二の宮や三好には効果覿面だったようで、二人は顔を強張らせた。雪が降れば更に寒くなる。これ以上の寒天に晒されては、ジャケットを羽織っていない二人には死活問題だ。


「冗談だよ」


 だから四道の訂正に、三好が憤りを覚えるのも無理はない。

 今度こそ制止の効かない怒気を噴出させた三好は、二の宮を引き摺って、四道ににじり寄った。


「ジンくん、ダメだってば!!」

「うるせー! 一発殴らねぇと、気が済まねぇ!」

「自分の無知を棚上げして、殴るだって? まさに原始人らしい発想だ」

「ざけんな!」

「もう! 四道くんもやめなよ!!」


 激憤と二の宮の間で鬩ぎ合う三好、三好と四道を宥める二の宮、構わず挑発する四道。と、既に乱戦模様だ。


 どうせならここで一発、三好が四道に拳を見舞ってやれば、三好の気も収まり、四道も少し懲りるだろうが、三好よりも四道に恩義のあるシュリはこの場を止める義務を感じた。


「で、結局行くの? 残るの?」


 ぴたり、と三人が動作を止める。

 そう、問題は何一つ解決していない。


「私はどっちでもいいよ」


 四道の提案――自力で森を脱出するというのは前向きな方針だ。人と会えれば状況が把握出来るし、より良い解決案も立てられるだろう。


 しかし迷子はその場を動いてはいけない、というのが古来からの鉄則である。この場に留まって救出の手を待つという選択肢もある。

 より確実に生き残るために、双方の意見を折衷し、水場を探してそこに逗留する、という案も捨てたものではない。


 いずれにしろ、四人が置かれている状況によっては下手すると生死を分ける選択になるだろう。

話しがあちこちに飛び火しいまいち纏まりきれない会議だが、その重要性は推して知るべしだ。


「……どーすんだよ」


 三好の低い声に、やはり答える者はいなかった。

 決定打を穿つ情報もなければ、話し合いを適度に誘導し取り纏める進行役もいないこの場では、今後の身の振り方を即断するなどほぼ不可能なのだ。


 四道は提案するものの情報不足故に意見が及び腰になっているし、三好は疑心が過ぎて四道の意見をことごとく訝っている。二の宮は二人を取り持つので精一杯で、シュリにはそもそも適案を導き出そうという意思がない。

 結論を出すには時間がかかるだろう。


 シュリは意図せず、浅からぬため息を吐いた。


 ――…ふと。


 視界の右隅に、小さな明かりが見えたような――気がした。焚き火やネオンの光などではない。もっと小さいもの……丁度、メールの着信を知らせる携帯電話の点滅の様な。


「……?」


 首を駆動させ、光が灯ったと思われる場所を視界の中央部に持っていく。

 果たして、シュリが見た光は確かにそこに存在した。

 ルビーの色によく似た赤い色が生物の眼だと気付いたのは、息を吸い、吐く、ひと呼吸分の間の後だ。


 位置が低い。シュリの膝辺りだろうか。一つに見えた眼は実は二つで、シュリが気付いたと察したのか、のそり、のそり、と緩慢な足取りで前に歩み出た。


 オオカミだ。


 犬に良く似た出で立ち、濃茶色の毛に深く覆われた背中と、肋骨が浮き出た裏腹。突き出た口から尖った犬歯を見せつけ、こちらを威嚇している。地を踏み締める四つ足には、それぞれに三つずつ、まるで砥ぎたてのような鋭さで鉤爪がついており、一歩進むごとに土に深く足跡を穿っている。尻尾は三本、同じ所から同じ長さで生えている。


 ……尻尾が三本のオオカミなんていただろうか。


「なんでオオカミがこんなとこに……」

「オオカミじゃない」


 三好の驚愕は、しかし冷淡な一言に邪魔されてしまった。まるで場をまぜっかえすのは自分の役目と言わんばかりに四道が割り込んでくる。三好は声の主を忌々しげに横目で見、少しも怒りを隠そうとはしなかった。


「あれはオオカミじゃないよ。鉤爪が長過ぎるし、尻尾が三本もあるオオカミなんて聞いたこともない。ニホンオオカミはもう絶滅してるし、外国種だってサイテスにリストアップされているから輸入も輸出も制限されているんだ。日本にいるわけないだろ」

「サイテス、って?」


 首を傾げたのは二の宮だった。


「……ワシントン条約だよ」

「え? じゃあ、ここって日本じゃないの?」


 そのまま二の宮に切り返され、四道が嫌味代わりの盛大なため息をつく。

 もしその直線的な思考が三好の発したものだったら、四道は間違いなく、懲りずに「単純バカ」などとのたまっただろう。しかし、幸か不幸かそれを言ったのは二の宮で、眼前には三好とオオカミもどきが対峙を繰り返している。


 言い争いをしている場合ではないと悟ったのか、四道は頑なに断言した。


「有り得ない。ここは日本だ」


 先程から気候や生物やらと、日本ではお目にかかれないであろうものばかり体感し、持ち前の二つのまなこで目撃し続けている。二の宮や三好がそれに動揺して、有り得ない状況を有り得ない場所へと結びつけるのも無理はないが、それ以前に、四道が星図を用いてここが日本である事実を証明しているのだ。ここは日本だと、繰り返し断言する頑固なまでの四道の否定も当然だった。


「でもオオカミがいるじゃなねぇか」

「あれはオオカミじゃない」

「はあ? どう見たってオオカミだろ!」

「いい加減、頭が悪いな! オオカミがあんな尻尾をしているわけないじゃないか!」

「じゃあ、オオカミじゃなきゃ何だってんだよ!」

「それは――」


「ちょ、ちょっとちょっとちょっと! 言い争っている場合じゃないよ!!」


 一触即発、空気を剣呑に尖らせていく二人に、二の宮が待ったをかける。


 その向こうで、加工済みのルビーに似た二対の紅玉が爛々と光を帯びた。

 彼女の背後だけではない。シュリの後ろも、四道の背後も三好の後ろですら、オオカミもどきの赤い目が光っている。


「……囲まれた……」


 誰かが呟いた声が、残酷に響いた。

 一つ、二つと増えたオオカミもどきは今やその数を八体にまで増やし、均等な隙間を空けて全方向に満遍なく広がっている。三百六十度を八等分して一匹当たり四十五度。数字で見ると広く感じるが、実際はそう広いわけではない。せいぜい、大人二人が窮屈に通れる程度で、もし強引に横切ろうものなら、すかさずオオカミの口が開き襲って来そうな雰囲気だ。


 おいそれとは動けず、シュリを含めた四人は棒立ちになって周囲を厳重に警戒した。


 一瞬でも気を抜こうものなら襲われる。

 本能がシュリに眼を逸らすなと厳命する。

 必然的に四人は背中を互いに預け合うよう円陣を組んでいた。シュリの背中が誰かの背中にぶつかり、反射的にビクッと体を強張らせる。素早く背後に目をやって確認すると、右は二の宮、左が四道だった。となると対角線上の後ろは三好だ。


「……おい、四道」


 不満の混じる声で仇敵を呼び、三好がオオカミもどきを警戒したまま屈伸した気配が窺えた。

 そういえば、さっきから足元に太い木の枝が転がっていることを思い出す。おそらく、彼はそれを手に掴んだのだ。


「その二人を頼む。オレが何とか道をこじ開けるから、お前ら隙を見て逃げろ」


 殊勝な提案に、シュリは心底感心していた。

 この状況下にありながら何という攻撃性だろう。普通なら、敵に囲まれた時点で逃げる気が失せたり、大なり小なり心が萎える筈だ。しかし三好は諦めていない。前向きに、そして貪欲に、可能性を追って立ち向かい続ける。


「てめーに頼むのは癪だが……頼んだぞ」


 再度強く言い残し、彼は疾駆した。

 聞く耳によっては、その言葉は遺言にも捉えられるだろう。しかしシュリの耳にはそうは聞こえなかった。純粋な想いで、友人を、友人に託したのだ。


「うおおおおおお!!」


 腹の底から吠え、木の棒という頼りない武器を片手に立ち向かう。

 その背中を赤い光が包んだように見えたのは、この場を遥かな高みから見守る神からの守護の証なのだろうか。


「ジンくん!!」


 二の宮が叫ぶも、三好の足は止まらない。いちぶの迷いもなく突き進んでいく。


 勢いに乗って三好の後を追いかけようとする二の宮を、四道が辛うじて手を掴み、引き止めた。


 シュリは素早く周囲に眼を配る。


 三好が突撃し、二の宮が飛び出したことによって防衛の円陣が崩れ、オオカミもどき達がにじり寄ってきていた。

 数の上でも状況的にも、圧倒的にこちらが不利だ。

 唯一の頼みの綱は、三好。彼が退路を拓いてくれれば、何とか光明が見出せるかもしれない。


 二の宮や四道の分までオオカミもどきを視線で牽制しつつ、シュリは三好の動きに注意を向けた。

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