01 見知らぬ森
遠くで、何かが鳴く音が耳朶を叩いた。
虫だろうか、鳥だろうか。それとも他の何かか、定かではない。
ただ音の余韻が鼓膜を震わせ、シュリは深海の底からゆっくりと意識を浮上させた。
身体が横たわっている。硬く、冷たい寝床。それが地面だと気付いたのは、強烈な青草の匂いが鼻腔に滑り込んでからだった。
「寒……」
肌が粟立っている。足や指が冷え切って、血が通っていない。
地震の影響で建物が倒壊して、外に放り出されでもしたのだろうか。しかしシュリは自分がそんなに運の良い人間だとは思えなかった。せいぜい、倒壊に巻き込まれてもかろうじて隙間に挟まれて生き残る悪運くらいが備わっているとしか思えない。
それに、この凄まじいまでの緑の匂いは? 校舎から放り出されたのならば、きっとここはグラウンドのはず。そして人工的に整備されたグラウンドには、隅に申し訳程度の草と植林された桜があるだけで、こんなにも強く緑の芳香を放っているわけがない。
疑問が内燃し、シュリはゆっくりと上肢をもたげた。
身体は動く。特に際立って痛い部位はないが、強いて言うなら頭が痛い。肩こりが極まった片頭痛に良く似ている。しかし幸いだ。あんなにも窓の傍にいて、傷がないだなんて……。いやもしかしたら、精神が高揚し過ぎて痛覚が麻痺しているんじゃないか……。
自分の体を把握すべく、全ての感覚を総動員して冷静に思考する。だが触覚や嗅覚での確認は限界があるものだ。シュリは確実な情報を得るべく、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……?」
自分の置かれている状況を、しかし、咄嗟には受け入れられなかった。
森。ぬば玉の夜に内包された、光りなき暗黒の木々の乱立。頭上には有り得ないほどの星が歓楽街のように輝き、眩しいまでの月明かりが危うい足元をやんわりと照らしている。
背後を振り仰いでも、校舎の残骸すら見当たらない。あるのは見渡す限りの樹木と草と、倒れた三人の人影だけだった。
「え……」
倒れている人間を助けなければという正常な思考すら出来なかった。
校舎がない、グラウンドではない。少なくとも学校ではないという許容しがたい情報が脳内を高速で駆け巡る。
やがて影が一つ、ぴくりと動き、間を空けて他の二人も起き上がり始めた。
「なにこれ……」
最初に呟いたのは女性だった。月明かりのお陰で顔が見える。
脱色し、きつくウェーブをかけた髪、黒いマスカラにびっしりと睫毛が補完された二重の目、四肢は女性らしい柔らかさを持ち合わせていながらも極限にまで細く、短いスカートから伸びる脚は日本人とは思えないほど長い。
二の宮苺。地震前、最初に《デジペ》の不調を訴えた女子生徒だ。
半年以上も前の四月のホームルームで『いちごと書いてまいと読みます』という自己紹介が強く印象に残っている。外見が外見なだけに教室では目立つ存在で、クラスメイトの半分は彼女の友達だ。男女の隔たりなく人好きする性格故か、身形に反して実は礼儀正しいせいか、彼女に悪態を吐く者を、少なくともシュリは知らない。
せっかく学校に通っているのだから、装いに対する情熱を勉強に向ければ……とは思うものの、シュリも彼女は嫌いではなかった。
「なんだこりゃ」
次に目を覚ましたのはシュリの左隣の席の男子生徒だった。グラウンドばかり眺めていた彼だ。
身長は百八十近くありクラスで一番高い。血色の良い頬と尖った顎、広い肩幅、全体的に痩躯だが手も足も筋肉で縁取られており、制服の上からでも鍛えられていると十分に分かる。
女子生徒と同じく開襟シャツの一番目のボタンを外し、だらしなくネクタイをぶら下げた様はシュリに良い印象を与えない。教室でも友達とふざけ合って花瓶を割ったり、周囲の迷惑も顧みず大声で笑ったりと、迷惑に感じたことが多々あった。体力が有り余ってやんちゃが過ぎる、そんな男だ。
ジン、あるいはジンギと気安く呼ばれているが、本名はさねとも、三好仁義。しかし学校で彼を「さねとも」と呼ぶ人間は誰一人としておらず、クラス替えの際の自己紹介がなければシュリは卒業してもずっと彼を『ジン』という名前なのだと思っていただろう。
そんな彼の傍で、呆然と絶句している男子生徒がひとり。
シュリの同列で前の席の、シュリを助けてくれたあの秀才君だった。
クラスで彼の名前を知らない者はいない。四道鷹嘴、学年一の成績を誇る生徒だ。
色白というよりも青白く、痩身というにはいささか華奢な体つきで、あどけなさが残るというよりも単にまだ成長しきれていないだけの印像だが、ひとたび口を開けば毒舌評論家も下してしまうだろう角のある幅ったい口調で相手を鋭角的に見下ろすきらいがあり、断言して人受けはよくない。クラス中の人気を博している前者の二人とは違って、人付き合いを好まず、よく言えば物静か、悪く言えば根暗な人柄をしている。
だから、地震が起きたあの場でシュリを助けてくれたのはとても意外だったのだ。ましてや名前を覚えてくれていたなんて。……いや、彼のことだから、クラス中の人間の名前くらいは一辺倒に覚えているだろうが、それでも十分驚愕に値する事件だった。
シュリも四道と同じく、クラスではあまり目立たない存在だ。興味のない話題に適当に相槌を打ったり、流れに話しを合わせたりすることが出来ず、そもそも誰かに話しかける勇気を奮い起すのも面倒で、結局友達も作れていない。クラスをシュリの名前を覚えている人、覚えていない人に分類すれば、間違いなく覚えている人の方が少数派だ。
つまり彼は、その少数派――あるいはクラスで唯一、自分の名前を覚えてくれている人間、ということになる。その事実は、この三人の中で、シュリを彼側に引き寄せる要因となった。
「なんだこりゃ……どうなってんだ……?」
状況を呑み込めていない顔で、三好仁義が呟いた。
勿論、答えられる者は誰もいない。それぞれがそれぞれに周囲を見回し、警戒している。
「とりあえず学校じゃなさそうだな」
「んなこたぁ、分かってるよ!!」
四道の発言に、三好が声を荒げた。
「こんな景色見りゃ、誰だって分かるだろう!!」
「だったらそんなに唾を飛ばさないでくれ。迷惑だ」
「なんだとぉ!?」
「ちょっとちょっと、二人とも落ち着いてよ!」
四道に掴みかかろうとする三好を、二の宮が体当たりで引き止めた。体格の良い三好を止めるには相応の腕力が必要だろうが、彼は意外にもあっさりと止まってしまう。二の宮の柔らかい部分が三好を動揺させたに違いない。
「ケンカしてる場合じゃないよ! 何とかしなきゃ……」
彼女の言葉尻がすぼむのも無理はなかった。
何とか、と言っても、具体的にどうという効果的な案は即座には出てこないだろう。
鬱蒼とした森の、おそらくここは真ん中で。時間帯は、これもまたおそらく夜の只中だ。しかも、まるで気候の変動があったかのように恐ろしく寒い。制服のジャケットをぴっちりと着込んでいるシュリですら震えているのだから、ジャケットを羽織っていない二の宮や三好は更に寒いだろう。
だが不安で気分が高揚した二人には寒波を患う間もないようで、議論は更に続いた。
「何とかっつっても、この状況じゃ……」
「先ず誰かを探すのが賢明だろうね」
「誰だよ、誰かって」
「誰かは誰かだよ。人を探して事情を聴けばいい」
「はっ、こんな森の奥に誰かいるってか?」
「だったら森を抜ければいいだろう」
「バカか、テメェ! どうやって森を抜けるんだよ。テメェ、この森がどこなのか分かってんのか? どっちの方向に行きゃ、人がいるのか分かってんのか!? 適当なこと言ってんじゃねぇよ!」
激昂する三好に、四道はため息をついてみせる。
それが三好の神経を逆撫でしたようで、彼は再び四道の胸倉をつかもうとした。
それを止めるのは勿論二の宮だ。三好の腕を引っ張り、制止を呼び掛ける。
既に形成されつつある役割分担に、シュリは口許を皮肉に歪めた。
「なんだよお前、なんか文句あんのか?」
三好に凄まれるが、シュリは何の威圧感も感じなかった。
彼はこの四人の中で一番パニックを起こしている。そのせいで怒りっぽくなっているだけだ。
「何もないよ」
一言告げて、視線を逸らした。
膝を抱えて小さくうずくまる。とにかく寒かった。
シュリの行動は三人の話し合いに水を差したようで、しばし森は静寂に包まれた。
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