朱色の指揮者

ひつじ綿子

第一章 〈バイオスフィア〉

00 プロローグ

 机上の教科書デジタルペーパーが、表面の有機ELを淡く明滅させる。

 授業中にぼんやりしていたシュリは、紙と呼ぶにはいささか分厚い〈デジペ〉に注視を送った。


 ページを進めた覚えは一切ないのに、授業の始めから数えて二ページ分更新されている。勿論、シュリが無意識にボタンを押したわけではない。教師が教卓のタッチパネルから黒板デジタルボードの表示を改めた際に、生徒の教科書も自動更新されたのだ。


 ただし有線直結された〈ボード〉とは違い、〈デジペ〉は教室に張り巡らされた無線LANを介しているので反応速度がやや遅い。特に、後ろから二番目の席のシュリは教卓近くに設けられたアクセスポイントから離れており、前衛の生徒と比較すると僅かなタイムラグがある。


 正面の〈ボード〉では既に次項のタイトルが表示され、教師が滔々と日本史を語り始めているのに対し、シュリの〈デジペ〉はようやく表示が終わったばかり。


 シュリと同じ列、あるいは更に後ろの生徒の中には、家庭用WLANですらこんなラグは発生しないのに、と、苛立つ人も少なくはない。特にシュリの目の前の席に座る学年一の秀才君からは、背中から刺々しいオーラを迸らせており、面を見ずとも眉間にシワが寄っている苛々顔の想像は簡単だった。



 近代史に入って久しい日本史は、シュリが目を離していた数十分の間に昭和後期から平成へと進んで終わりへと差し掛かっていた。一九九〇年代から二〇二〇年代まで。グローバル化が急速に進み、一般家庭にもコンピュータとインターネットが浸透した時代だ。また、バブル崩壊からリーマンショックを経て、経済成長が停滞、減速した時代でもある。


「少子化問題やら雇用問題やら、今まで先延ばしにしてきた問題が表面化した時代でもある」


 神妙な声で教師が〈ボード〉を指し、真面目な生徒は〈デジペ〉に『少子化問題』と『雇用問題』の文字に光学マーカーで印をつけていた。


 しかし中には授業に興味を示さない生徒もいる。シュリの右隣、窓際の席に座る男子生徒がそうだ。

 熱心に授業に聞き入る秀才君とは違って、こちらは授業に一切身を入れる様子がない。シュリ以上に呆けた顔で、教師に憚ることなく外を眺めている。

 ここからではよく見えないが、どうやら窓の向こうのグラウンドで体育の授業が行われていようだ。窓の端に二年生を示す緑のラインが入った体操服を着た生徒がほんの一瞬だけ見えた。定期的に見える二年生の集団の動きから推測するに、授業内容はマラソンなのだろう。


 日本史よりも、机上の勉強よりも、体をめいっぱい動かせる体育を好む彼には外でマラソンをしている下級生が羨ましいらしく、シュリがほんの数秒で飽きた景色を、彼はいつまでも眺め続けていた。


「あとは――」


 独りごとに似た教師の声がし、再び教卓のタッチパネルが叩かれる。途端に、〈ボード〉の角に表示されていた一枚の画像が大きく引き伸ばされ、画面の八割を占めた。

 細かく上下にブレながらも、確実に右肩上がりを示す折れ線グラフだ。横軸には時系列、縦軸には年間平均気温が表示されており、グラフの題字を見ずともシュリにはそれが何を意味しているのか即座に分かった。


「先生ぇ」


 やや間延びした無粋な声が割り込む。

 声の主は否応なしにクラス中の非難の目を浴びせられた。

 一体、こんな間合いで何を質問するのか。質問する程授業は進んでいないだろう。


 怒りと疑問が綯い交ぜになった鋭い視線が全て、シュリの背後の席に飛んでいる。

 校則が緩いのをいいことに、髪を脱色し、開襟シャツの第一ボタンを外して、本来なら襟元に巻きついているリボンを放棄した女子生徒。当然と言わんばかりにスカート丈は短く、指先まで丁寧に手入れがなされている。自分の身形に対する情熱をもっと勉強に向ければいいのに、と思っている生徒はおそらくシュリばかりではない。


「どうした」


 他の生徒とは明らかに風貌の違う生徒でも、教師の態度に差別らしき変化はない。首を傾げて教員が問い返すと、女子生徒は自分の机の上を指さした。


「あたしのデジペ、なんかおかしいです」

「壊れたのか?」

「えー? でもさっきまでちゃんと写ってたのにー」


 壊れたのではなくおかしい、と、女子生徒が主張する。

 しかしおかしいのならば壊れたと考えるのが普通だ。何トンチンカンなことを言っているんだ。シュリは女子生徒を振り返った。


 そして、ノイズの走る彼女のデジペを見遣る。


「……?」


 ジジッと音を立てて細い切れ込みが入ったかと思うと、パッと暗転し、再び元通りの画面に戻る。それからまたノイズが混じり、今度はノイズが全面を支配し、また元に戻る。その動作に一定性は見受けられない。ただ何か異質な印象があり、シュリは眉をひそめた。


 壊れたと断言するには確かに何かおかしい。しかし……。


 逡巡していると、今度は別方向から、女子生徒のデジペと同じノイズ音が追加される。

 シュリのデジペだ。それから、窓際の体育好き男子生徒のデジペ。


 慌てて己の席に居直ったシュリは、ついさっきまで正常だった自分のデジペを見、眉間のしわを更に深めた。

 これもまた一定性のない動きをしていて、一体何が原因なのか見当もつかない。壊れたのではなくおかしい……。先程の女子生徒の主張がシュリの脳裏を高速で過ぎる。


 更に、


「うわっ」

「え?」

「うっそー!」


 教室中のそこかしこから驚愕の声が次々と発せられ、ノイズ音が更に増加した。

 もはや軽いパニックだ。焦る生徒の声は大きくなり、どうなっているんだよと喚きながら席を立つ生徒が目立ち始める。


「ちょっ……ちょっと待て、落ち着きなさい!」


 冷静になれと生徒を促しながらも、自らも恐慌に押し流されつつある教師が必死に叫ぶ。しかし生徒のざわめきが騒がしく、その声を聞いたものは彼の傍にいた数人の生徒のみだ。


 鎮まらない。


 シュリが教室内の状況を悟ったそのとき――。


 ドン!!


 音が、全てを支配した。

 ――いや、音ではない。

 衝撃。

 揺れ。


「地震だ!!」


 誰かが絶叫した。

 本物のパニックが、教室を丸ごと呑み込んでしまう。


「机の下に潜れ!! 早くっ」


 体を揺れに弄ばれながら、シュリは必死に机にしがみ付いていた。教師の指示を仰ぐまでもなく机の下に身を隠そうとしているのだが、足元どころか体全体が言う事をきかない。息つく間もない大地の動きに、なけなしの身体能力が平衡を保とうとしているのが分かる。立っているだけで精一杯だ。机の下に潜る、なんて動作が出来る筈もなく、ただ唯一の自分だけの安全地帯から吹き飛ばされないよう、机の角を握りしめるくらいしか出来ない。


 揺れは、それほどに大きかった。

 視界にはシュリと同じく翻弄されている人々の姿が映っているのだが、それをきちんと脳へ明確な映像として送られるのは、端々で捉えたほんの数人だけだ。何もかもが揺れ動いているせいで像が絵を結ばず、形にならないのだ。


 体だって、言う事をきかない。

 耐震構造の校舎が限界まで震えているのが伝わってくる。窓だって、建物の歪で限界が近い筈だ。いつ割れてしまうとも限らない……。


 そこまで思い至り、シュリは冷水を浴びせられたような感覚に総毛立たせた。

 窓が割れれば。――ここは窓際から二番目の列だ。窓に近い。未だ机の下に潜り込めていないシュリは、窓ガラスの破片を浴び、傷だらけになってしまう。


 自分が置かれている状況を悟り、シュリの胸中に焦燥の火が灯る。と、


「一木さん!!」


 高い所から物が落ちる音や、生徒たちの恐怖の悲鳴に混じり、シュリを他人行儀に呼ぶ声が聞こえた。

 シュリの前の席に座っている、あの秀才君だ。自分の机の下に身を隠しながら、シュリに向かって手を伸ばしている。


「手を! 早く隠れて!」


 手助けをしてくれるつもりらしい。

 シュリは迷わず彼の手を掴み、四苦八苦しながらも何とか机下に隠れられた。途中、机を離してしまって焦ったりもしたが、寸手のところで捕まえられたのは間違いなくシュリの手を握って彼女を留めてくれていた彼のお陰だった。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 席替えで互いの席が前後になるまでは同じ教室に居ても姿を見止めることすらしようとしなかった男子生徒と、シュリは今日、初めて言葉を交わした。

 ビシリ、ミシ、と、嫌な音が聴覚を叩いたのはその直後だ。そしてひと息の呼吸ほどの刹那が過ぎ、教室中の窓ガラスが割れた。

 窓際の生徒が身を固める。シュリもまた、幾許かの痛みを覚悟した。


 だが痛みは訪れなかった。

 かわりに、視界が白く塗り潰される。

 始めは何かが強烈に発光しているのだと思った。自分に近い所で――例えば天井の蛍光灯や、電気プラグなどが、地震による影響で何かしらの化学反応を起こしているのではないか、と。だがそれにしては妙に光源が近い。……気がする。


 もっと、近く。

 更に、近く。


 そう、まるで自分の眼の中で光が乱反射しているかのような、万華鏡をそのまま瞳の奥に埋め込んだかのような光だ。

 眩しく、目を瞑っても光は去らず、シュリは口の中で微かに唸った。

 太陽よりも明るいそれは、シュリの呻きを待ちかねていたかのように、更に強く勢力を増す。熱い、と感じたのは体ではない。脳へと繋がる神経だ。


 四肢が、獣に食らいつかれたような感覚が全身を包む。不思議と恐怖が浮かばないのは、ほんのりと淡く暖かだからなのか。

 やがて身体だけでなく、光の触手が脳へと及ぶ。



 シュリの意識すらも支配され、記憶はそこで途切れた。

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