29.星の器1
浮遊感がなくなると共に、全身を覆う蒼炎も徐々に消えていった。
わたしには意識があり、身体が灰になったような感覚もない。いつまでも目を瞑っているわけにはいかないので、おそるおそる目を開く。すると、わたしの目の前にはありえない光景が広がっていた。
地面の代わりに足下に広がる世界は、普く蝶々が羽ばたき輝く、神秘の闇と銀の河。
青空の代わりに頭上に広がる世界は、まだ色に染まることを知らない、純白の光と無色の雨粒。
驚くべき光景だ。しかし、それよりも驚くべきはわたしの精神の変化だろう。この光景を目の前にして、わたしは自分に不自然さを感じる程に、一切動揺してはいなかった。
これは、どういうこと?
わたしの心の内にある僅かな困惑。それに対して、さもありなんと唱えるような、この空間に澄み渡る猫なで声は良く聞こえた。
「それは、ベルおねーちゃんが使命を果たしたからだよ。星になるってことは、人間らしさを捨てるってことだからねぇ」
わたしの背後から、それは聞こえた。わたしがゆっくり振り返ると、楽しそうにスキップをしながら、1歩、また1歩と、彼女はわたしに近づいてきていた。その足で神秘の闇に触れる度に、表面に波紋が広がっていく。
「こうやって2人きりで話せるときを、ずっと待ってたんだぁ。おねーちゃんがここに来るのを、ずーっとね」
そう言った彼女は、黄色い瞳の寝ぼけ眼で、この景色に負けないくらいの存在感を放ちながらわたしを見詰めている。
見間違える筈もない。
彼女は『ドーワ』のお寝坊さんで、わたし達の隣部屋の隣人で、わたしよりも3つ年下の子で、わたしの家族で、親友で……。
「シラユキ、なんだね」
わたしの言葉を聞いて、彼女は嬉しそうに微笑む。
「シラユキっていうのはわたしの仮の名前。えっと、本当の名前は『慈愛の器』って言うんだぁ」
「『慈愛の器』……?」
「そ、わたしはこの世界の『星の器』。”星になる”っていうのはね、”星の
タタンッタタンッ、とシラユキは軽快にスキップする。
あまりにも普通だ。その姿も、声も、仕草も、現実離れした景色から浮きすぎる程に、シラユキは普通だった。12年前に”星の声”を聞いたときは、大人の慎ましさ、とでも言うべき上品さを含んだ口調だったのに。
説明が必要だよね、今のおねーちゃんには。
いつもの猫なで声でそう言うと、まるでわたしを眠りに誘うかのような語りで御伽話を話し始める。
「昔々、あるところに、1人の少女と1匹の虫がいました。1人と1匹は、仲が良くありません。毎日毎日、ケンカばかりをしています。
少女がお人形遊びをすれば、虫はそれを奪おうとします。
少女が砂のお城を作れば、虫はそれを踏み崩そうとします。
少女が世界を創れば、虫はそれを乗っ取ろうとします。
毎日毎日、1人と1匹はケンカばかり。少女が仲直りの手を差し伸べても、虫はその手を振り払い、いつものように意地悪します」
「そして、ケンカは今も続いてる。そう言いたいんでしょ」
話の先を予想して、わたしは静かに言う。
それを聞いた彼女は、クルリクルリとその場で回って、神秘の闇に波紋を広げる。
嬉しそうに、とても嬉しそうに。
「少女には、やらなければならないことがありました。それは、子孫を残すこと。少女の親がそうしたように、ここの絶対のルールに従って、少女は子を産んで育てなければなりません。
もちろん、虫はそれを邪魔してきます。密の香りで子を誘惑し、自分の物にしようとします。
とにかく、とにかく、悪い虫は少女に意地悪をするのです。
少女の親の世界もそうでした。
少女の子の世界でもそうなっています。
星から星へ感染する、悠久に続く負の連鎖。それを終わらせることが、少女の夢でした。
そして、その夢はたった今叶うのです。めでたし、めでたし」
「叶うって……」
「そのまんまの意味だよぉ。『慈愛の器』が生み出す最高傑作。『悪い虫』が寄生しない、わたし達が目指した奇跡のユートピア。それが貴方なんだよ、ベルおねーちゃん」
シラユキの言葉を聞いた瞬間、わたしは今回の騒動の真相をようやく理解した。
カグヤ姉が失踪してから今に至るまで、わたしの日常の裏で何が行われていたのかを。
全てを見通し、あまつさえ裏の星官達がいながら、『悪い虫』に対して何の対策もしなかった御星の思惑を。
「……つまり、シラユキは『星の器』という1つの生命の品種改良をしていたんだね」
「そう、その通り。そもそもね、『星の器』には資質がある子しかなれないんだよぉ。星の中でも、数えるほどしか生まれない奇跡の子達。その子達が”星誕の儀”を受けて星になったとき『悪い虫』に寄生されないように、わたしは色々な実験をしていたんだぁ」
思っていた通りの言葉を、彼女は口にする。わたしは驚くことなく、心の中にある気持ちを整理する。
多分、これはここに来た影響なんだろう。
星になるってことは、人間らしさを捨てるってこと。彼女がそう言うように、わたしの精神は変り始めていた。
1を知れば10を理解出来る。そして、今まで想像も出来なかった未知を知っても、驚きや衝撃は露ほども感じない。心が生むはずの感情の波が、殆ど起きないんだ。
だけど、ああ、わたしはまだ不完全な星だ。ちゃんと親友の死を悲しんで、泣いて、受け入れられないと喚く1人の人間のままだ。
……良かった。これなら、わたしの中に燻る
「その実験の結果、死ぬ必要のない人達が死んだ。アンも、カグヤ姉も、アンデル先生も、『リュウグウドウ』のおじさんも。みんな貴方に幸せを踏みにじられた」
「踏みにじったのは『悪い虫』だよ。わたしじゃない」
「いいえ、貴方がそう仕向けた。みんなの記憶を消しながら、貴方が”星繭の儀”の年を……15才の時を永遠に繰り返すことによってね」
それが、わたしが導き出した疑問の答えだった。
ピタリ、とスキップも回転も止めて、彼女は興味深そうにわたしを見る。面白いね、続きを聞かせてよ、おねーちゃん。そう挑発とも受け取れる言葉を発して、わたしに寝ぼけ眼を向ける。
「……保管室にあった、3年前の記録。あそこには、わたし、アン、ジャック、カグヤ姉と関わりのある誰かさんの名前が消えていた。紙に筆圧すら残らない程、不自然な消え方でね。わたしはそれに気を取られすぎて、本来ある筈の名前が記されていないことに気付かなかった。それが貴方よ、シラユキ」
「それが根拠?」
「まさか、根拠ならもっとある。アンの残した手紙と、わたしの妹がね」
少しも眉を動かすことなく、シラユキはわたしを見詰めている。
意図して相手の反応を伺うのは探偵ごっこ以来だな、なんてことを考えてしまう。誰かの筋書き通りに動いているとも知らずに、アンが自殺した理由を追っていた日のことは、まだ記憶に新しい。
「アンの手紙には、彼女が『虫憑き』になった過程が書かれていた。大雑把にまとめると、3年前に『ドーワ』から抜け出して『虫憑き』に勧誘された。……こんな所かな。だけど、そこには不可解な点が2つあったんだ」
わたしは人差し指を立てる。
「1つ、アンはなぜ旧市街に向かったのか? ……『虫憑き』は、旧市街でしか『虫憑き』について話せない。だから、アンが勧誘を受けたのは旧市街ってことになる」
続けて、中指を立てる。
「2つ、アンはどうやって『ドーワ』を抜け出したのか? ……手紙を読んだ感じだと、それはカグヤ姉が失踪してから間もない出来事だった。そして、今回の騒動と同じように、カグヤ姉の失踪から暫くの間は『ドーワ』は自由外出を禁止していたはずなんだよ」
わたしの記憶が確かなものなら、という条件付きではあるけれど。
わたしが忘れ、そして思い出した記憶の中には、カグヤ姉とアンデル先生がいなくなった直後の記憶もあった。
約1ヶ月の間は自由外出が禁止され、わたしは自分を騙すためにおかしくなっていた。そんなわたしを嫌悪したアンは、何らかの手段を使って『ドーワ』から抜け出したんだ。
「正門以外から『ドーワ』を抜け出すなら、あの裏口を使うしかない。なら、アンは誰かから裏口の在処を聞いてたってことになる」
「うーん、それならカグヤ姉が教えたんじゃないかなぁ?」
「それは無いよ、絶対に」
わたしは即答する。
カグヤ姉がジャックに秘密の裏口を教えたのは、カグヤ姉がジャックの思惑を見抜いていたからだ。自分に憧れている妹にではなく、外の世界で自由に生きたい、というハレンチな考えを共有できる同志にカグヤ姉は秘密の裏口を教えた。9年間一緒に暮らした家族だからこそ、その考えが理解出来た。
「アンは、カグヤ姉以外の誰かさんに秘密の裏口と『虫憑き』について教えてもらった。この1点に関してだけは、絶対の自信がある。誰かさんに唆されて、アンは『虫憑き』になったんだよ。……カグヤ姉も、記録から名前が消えていた誰かさんとよく町に行っていた。そして、その年に失踪した」
「でもぉ、それだとやぱり、わたしが名前の消えた子だって証拠にはならないよねぇ」
わざとらしく戯けて答えるシラユキ。この後に及んでしらを切るなんて、余程わたしの人間らしさが見たいらしい。
わたしは立てた2本の指を折り、強く拳を握る。
「今年『虫憑き』になった子がいた。その子とよく町に行っていたのは、3年前の記録に名前のない誰かさんだった。これでもまだ、自分は何もしてないって言える? 実験で、誰の命も犠牲にしてないって……?」
我ながら、上手く言えたものだ。自分に感心したくなるくらい、それは穏やかで棘のない言葉だった。
その言葉を聞き、シラユキは大袈裟に拍手を始める。柔らかな表情を顔に貼付けたまま、すごいすごいと、子供をあやすように淡泊な音を奏でる。
「ふふふ、大正解だよ、ベルおねーちゃん。そう、わたしが望んだ。わたしが仕組んだ。こうあるべきとレールを敷いて、最高の器を作るために多くの人に血を流させた」
彼女のけろりとした態度に、わたしは唖然とした。平然とそんなことを言える彼女の心が、何よりも理解出来なかった。
「……それだけのことをやって、貴方は何の罪悪感も感じないの?」
「そんなものは、とっくに捨てちゃってる。哀しいとか、苦しいとか、そういう人間らしさはもう持ち合わせていないよ。強いて言うなら、わたしの中にあるのは、『星の器』としての使命感だけ」
そう言って、タタンッタタンッ、と彼女は再びスキップを始める。この雄大な世界に『慈愛の器』の存在を知らしめるようにして、強く、強く、水溜まりの上で踊る子供のように波紋を広げてスキップする。
「誰にも無価値な人生は送らせない。誰も無意味に死なせはしない。この世界に生きる全ての人達を、わたしは輝かせてあげてるんだよ」
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