26.アンの手紙
この手紙がいつ読まれるかは分からないけれど、これが1番しっくりくるから、まずはこう書くね。
おはよう、ベル。
今この瞬間、わたしがペンを握って白地の紙に言葉を綴っているのは、さっきの話の続きをするためなんだ。
わたしが変だって話と、わたしの宝物の話をね。
始めに言っておくと、わたしは変になったんじゃないの。昔に戻った、というのが正しい言い方。
ベルは気付いてないかもしれないけど、あの日から今日まで、わたしは貴方に本心を語ったことはないんだよ。
あの日。3年前のあの日。
ベルはカグヤ姉とアンデル先生を忘れてしまったよね。
わたしはそれが、とっても悲しかったんだ。
貴方も、『ドーワ』も、2人を初めから存在してないみたいに振る舞っていた。警察が施設に入る様子はなく、カグヤ姉の部屋を調べもしない。あの部屋にもグリム先生が来て、2人の影を塗りつぶしていく。
そう思ったら、途端に寒気がしたんだ。
わたしは『ドーワ』を飛び出した。
気持ち悪くて、とにかく外の空気を吸いたかったの。ずっとあの場にいたら、胃に入れた食べ物を床にぶちまけるか、誰かに八つ当たりしてしまいそうだった。
行く当てもなくひたすらに町を歩いて、わたしは思ったんだ。
『ドーワ』が愛でているのは、器としてのわたし達。星に敷かれたレールの上から外れてしまえば、同時に庇護下からも外れてしまう。『ドーワ』はわたしという人間を、認めてくれてはいないんだって。
もしかしたら、あの時すぐに戻っていれば、その気持ちはすぐに消えたのかな。石けんで油汚れでも洗い落とすみたいに、さっぱりと。
でもね、わたしはその気持ちを持ち続けてしまった。失望という、思春期の子供が口にするには大袈裟なものを、『彼ら』によってより深く掘り下げられる形で。
あの日、わたしは『彼ら』に自由について教えられた。
本当の自由とは、誰にも縛られないことなんだ。『ドーワ』から、星から、解放されることなんだ。これはカグヤ姉が求めたもので、けれど、手に入らなかったもの。その意思は君が継いであげなさいって。
その言葉は、ある種の甘い蜜だった。
わたしは今まで通り過ごす一方で、こうあるべきと定められたレールの上から抜け出して、甘い蜜の香る花畑へと足を運び始めた。
それが正しい道だと信じて疑わずに、心にある失望を肥大化させながら。
元から持っていた自由への欲求を、『彼ら』の言う本当の自由にすげ替えながら。
その密が毒だと気付かず、『ドーワ』憎しと心の中で唱いながら。
それが異常なことなんだって気付いたのは、つい最近のこと。『ドーワ』の中に同士が出来てからだった。
甘い蜜に誘われて、あの子も花畑に来ていたの。本当の自由を求めて、『ドーワ』憎しと詩を唱ってた。
だけど、あの子は完全に毒されてはいなくて、不安そうにわたしに尋ねてきたんだ。
本当にこれで良いんだよね、お姉ちゃんって。
わたしはその言葉を、ただ肯定するだけでよかった。首を縦に振るだけで、あの子も敷かれたレールの上から外れてこちらに来るんだから。
迷える家族の背中を押してあげるために、わたしは彼女の顔を見たんだ。
だけどその時、不安そうに佇むその子と、3年前のわたし自身が重なって見えたの。聞こえない筈の声が、聞こえたの。
ねぇ、カグヤ姉。これは貴方の望んだことなんだよねって。
それで、ようやく気付いたんだ。この道は、間違ってるって。
カグヤ姉は自由を望んでた。だけど、わたしに同じものを求めてはいなかった。彼女が本当に望んだのは自分で選んだ道を自分で歩くことで、わたしに道を継いでもらうことじゃ決してなかった。
同時に、元いた場所には戻れないことにも気が付いた。
花畑に長く居すぎたせいで、わたしの意思は、心は、毒なしでは生きていけなくなってたの。いくら昔に戻ることを望んでも、心のどこかで『ドーワ』憎しと唱ってしまう。
なら、やるべきことは1つだった。
わたしは、元いた場所には戻らない。代わりに、もう誰もこの道を歩ませはしない。そう決意した。
幸いにも、あの子は毒を吸ってから日が浅かった。後戻りできなくなる前に花畑を燃やしてしまえば、彼女が同じ道に来ることはない。そう思ったんだ。
手段は簡単だった。
カグヤ姉の時みたいに失踪したくらいじゃ誰も動かないなら、それ以上のことをすればいい。穢れたこの身を、この魂を、犠牲にすればいい。
たったそれだけのことで、わたしの望みは叶うんだ。
問題は、それを実行するまで毒の誘惑に負けないかどうか。そして、恐怖を懐かないかどうかだった。
1番の対策は、本を読むことだった。
物語に没入すれば、毒のことを忘れられた。彼らと会う機会を減らして、現実に最も近い虚実の中に浸る事で、『ドーワ』のことも、『彼ら』のことも忘れて別の人生を歩めた。
ドラゴンに騎乗する冒険家になれば、まだ見ぬ財宝を求めて旅ができた。
首切り殺人鬼を追い詰める探偵になれば、正義の名の下に悪を裁くことができた。
不思議の国に迷い込んだ少女になれば、元の世界へ戻るために苦難を乗り越えることができた。
彼らの世界はとても輝いていて、自由だった。
わたしとは正反対の人生。
虚実と現実の落差を知れば知るほど、わたしの心は揺れ動いた。そして、思ったんだ。
死にたくないって。
生きたいって。
心の支えだった本達に、わたしはいつしか依存しきってたの。
それじゃ、本末転倒だよね。だから、わたしは自分を殺めるギリギリのタイミングで、その本達を、宝物を燃やしたんだよ。
それが逆効果だとは思いもせずにね。
本が燃えた後の焼却炉には、黒ずんだ灰と恐怖しか残らなかった。今まで本にどれだけ支えられていたのかを、わたしは思い知らされた。
さようなら、わたしのもう1つの人生。
そう覚悟を決めて焼却炉に投げ捨てた最初の1冊が、急に惜しくなった。続けて燃やした2冊目、3冊目も、もう読めないのかと思ったら涙が出そうだった。彼らの物語が炎となって、揺らめいては消えていく。自分も同じように消えるのかと思うと、3年前のあの日のように寒気がして、身体が震えたんだ。
自分でも気付かない内に、わたしの心は3年前に戻ってた。
弱虫だよね、とっても。
子供だよね、とっても。
でもね、わたしには本の代わりに依存できる何かが必要だったんだ。一時的でいい。わたしが死ぬまで、この恐怖を忘れさせてくれる何かが。
そんなものは、絶対にないと思ってた。彼らの代わりになるようなものなんて、見つかりっこないって。
だけど、それはわたしの思い違いだった。わたしの1番身近なところに、彼ら以上の宝物はあったの。
わたしの家族。わたしの親友。
朝起きて1番最初に朝の挨拶を交わす、わたしの同居人。
そう、貴方だよ、ベル。
ついさっき、貴方はわたしの手を取ってくれたよね。
おまじないだって。1人じゃないって、言ってくれたよね。
うれしかった。
それ以外の言葉が出てこないくらい、うれしかった。
結局、失望なんて心の一部でしかなかったんだ。
確かに、わたしは『ドーワ』に失望していたし、貴方にも失望していた。でもね、それを補って余り余るほど、わたしは貴方達を愛していたし、愛されていた。
何の本を読んでいるの。
そう話しかけられたあの日から、ずっと。
いつもの6人で他愛ないお喋りをする時も、カグヤ姉とアンデル先生を失って『ドーワ』憎しと唱っている時も、グリム先生とわたし達の4人で話し合いをする時も、そして、今この瞬間も。
ずっと、ずっと、わたしを認めてくれる人達は側にいたんだね。
ありがとう、ベル。
わたしの家族になってくれて、ありがとう。
やっと、伝えられた。
心残りはない。恐怖だって、これっぽっちも。この苦しみを、わたしは誇って受け入れられる。
さようなら、ベル。
さようなら、わたしを認めてくれた家族達。
わたしはとっても幸せだったよ。
――アンより
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます