24.美女と野獣

 自分の身体からいっぱいの血が出る。胸から、口から、鼻から、ドロドロと。

 その血で素肌を真っ赤に濡らすと、なんだか毛布に包まれてる気分になる。優しい温もりが、たまらなく眠気を誘ってくるんだ。

 

 この感覚は、前にも感じたことがある。

 あれは、そう。オレが『虫憑き』を辞めた日のことだ。


 何があったかは、ぼんやりとしか覚えていない。ただ、気付いたら血に染まったナイフを握っていて、目の前には首から血を流す親父が倒れていた。


 オレは頭から親父の血を被っていたんだ。


 傑作だな、と隣で男の声がした。

「自分でガキを差し出しておいて、今更返せだなんてよ。その子供に殺されるってんだから、世話のない野郎だぜ」


 その時、ようやく自分が何をしたのか理解した。取り返しのつかないことをしたんだな、と。


 同時に、自分の中で何かが変わった。


 隣で半腰になっていた男の右目を切り裂き、逃げ出すようにその場を離れた。怒りの声が背後から聞こえたけれど、振り返らずに走った。

 血も拭わず、ただひたすらに暗闇を進んだ。息が切れて、身体が悲鳴を上げても、走るのを止めなかった。

 そのうち足がもつれて、地面に倒れた。それで膝が擦り剥けても、地面に頭を打ち付けても、痛みは感じなかった。ただ、どれだけ待っても呼吸が落ち着かなくて、地平線が針金みたいにグニャグニャ歪んで見えた。胸が締め付けられて、苦しかった。

 

 昔に戻りたい、と思った。

 自分が何者でもなかった頃に戻りたい。親父と……お父さんと普通にお喋りをして、普通に暮らしていた頃に戻りたい。そう思った。

 オレに”星の声”が届いたのは、それからすぐ後のことだった。




 もう、あの時のような奇跡は起きないだろう。

 より正確に言うなら、誰もここには助けに来ない。こんな路地裏に誰が来るってのか。通りすがりの狩人も、白馬の王子様も現れはしないんだ。


 なら、話はとっても単純。この場でベルを守れるのは、とどのつまりオレしかいないんだ。

 幻滅されるかもしれない。嫌われるかもしれない。それはとっても嫌なことで、身が竦んでしまうくらい怖いことだ。


 でも、それしかないと言うのなら、オレが最も嫌悪する方法で彼女を守ろう。


 歯を食いしばろうとして、顎に力が入らないことに気付く。

 身体にムチを打っても、指先しか動かないことに気付く。


 それでも、目の前の女の子を守るために、霧散していた気力を振り絞って――


『わたしが力を貸すよ、ジャック。一緒にベルを守ろう』


 心地良い、透き通った声が聞こえた。




   ♠ ♡ 




 フックが倒れてからも、自分の身体が動くまでには時間がかかった。むしろ、ジャックの身体の具合がよく見えるようになった今の方が、恐怖はより強く身体を縛った。

 足に力が入らないので、四つん這いになって彼に近づく。ぷるぷると震える両腕は、生まれたての子鹿のように弱々しかった。


 やっとの思いで彼の元まで近づき、傷口を避けるように彼の肩に触れる。

 

「ジャック? ねぇ、返事してよ、ジャック……」


 彼の名前を呼ぶ。その度に、塞き止めていた涙が溢れてきた。

 目を閉じて、青白い肌を血で赤く染めるジャック。生きているのが不思議なくらい、ジャックの周りには彼の命が流れ出ていた。


「……平気、じゃ……ないな……」

 わたしの声に呼応するように、ジャックは小さく声を漏らす。弱々しくも、確かにわたしの顔を見て口角を上げていた。

 

「……バカ」

 それじゃ分からないって、3日前に言ったばかりなのに。


 生きていたことが嬉しくて、ついジャックの肩に強く触れてしまう。ジャックは痛みで顔を歪めることなく、近くに転がっているバックを地面に垂れた手で指差した。


「なかに、ある……瓶を……。あおい、方……」


 言われた通り、バックの中にあった青い瓶を手に取る。その中には白色の液体が入っていて、手頃な大きさも相まってか、薬というよりかは牛乳みたいだった。

 すぐに手渡そうとジャックを見る。しかし、片方の手にはナイフが刺さり、もう片方の手も地面にだらりと垂れている。とても瓶を持てるような状態ではない。


「……わりぃ……力、はいらなくて…………飲ませて……ねぇか?」

「分かった」


 得たいの知れない薬だったけれど、何もしないよりかは飲ませるべきだと思った。

 瓶の栓を抜く。白い液体をゆっくりとジャックの口に流し込むと、口元から少し溢しながら、ジャックはそれを全て飲み干した。


 すると、不思議なことが起こった。

 急にジャックの身体が白い光に包まれて、傷口がみるみるうちに塞がっていった。肌の色も赤みが増していく。不規則だった呼吸も一定のリズムに戻り、太く、長い息をするようになった。

 

 白い光が薄れる。容態が安定し始めたのか、ジャックは何度も深呼吸を繰り返し、意を決したように呼吸を止めて自分の手に刺さったナイフを引き抜いた。

 その手には切れ込みがつくられ、間髪入れずに血が噴き出す。しかし、それも一瞬だ。すぐに白い光が活発になり、傷口は10秒と経たず塞がった。


 また、深呼吸を繰り返す。それからジャックは口元の血を拭って、道端の壁を指差す。

 あっちに座ろうぜ。そう提案され、2人で地面を這いながら壁際まで移動した。


 血だまりの中、2人一緒に息を吐く。

 わたし達は無意識の内に手を繋ぎ、肩を寄せ合っていた。お互いが生きている証を、お互いに証明していた。


「……怒ってないのか?」

 しばらくして、叱られることを察知した子供みたいに俯きながらジャックは言った。

「何に?」

「お前を騙してたこととか、危険に晒したこととか……いろいろ」

 そう言われ、わたしは自分の心情を客観的に観察する。

「……分からない」

「分からないって、なんだよ」

「多分、怒ってる。ちゃんと怒っては、いるんだ。でも、いろんなことがありすぎて、まだ心の整理ができてない、のかな」

「そっか……そうだよな。オレも、グチャグチャだよ」


 そう言って、ジャックは自分の胸に触れる。

 傷は塞がっているけれど、中の方はまだ治ってないのだろう。胸の部分だけ、まだ薄く光を発していた。


「そういえば、さっきの瓶って……?」

「『星の器』の研究成果。もちろん、奴らのな。……『星の器』を人に戻す薬を作る過程で、逆に”星の加護”の効果を増幅させる薬ができちまったんだと。その他にも、身体の成長だけ戻す薬とか、”星の加護”だけ取り除く薬があった。役に立たなそうなのばっかりだったけど、この薬だけは盗んどいて正解だったな」


 自慢というよりは、開き直って話している様子だった。自分が何をやっていたか隠そうとしていない。いや、もう隠す必要がなくなったんだ。

 

「『星の器』を人に戻す薬も、盗んだの?」

「ああ」


 核心に迫る質問をしても、さらりと答える。全身血まみれのジャックは、穏やかな表情で僅かに光る胸を見ていた。

  

「お前と逃げたかった」

「え?」

「質問の答え。どうしてお前を巻き込んだのか、答えてなかっただろ」


 フックに襲われたせいで、わたし自身忘れていた質問だった。そういうことを律儀に答えてくれるあたり、やっぱりいつものジャックとは違うな、と思った。

 

 でも、そっか。わたしと逃げたかったのか。

 嬉しいような、悲しいような。永遠に満たされることのない飢えと向き合っている、そんな気分だった。


「ごめん、ジャック。わたしは――」

「いいよ、言わなくて。つーか言うな。言ったこっちが惨めになるっての」

「……ごめん」


 自分のルーツを知る前のわたしなら、あるいはジャックの誘いに乗っていたかもしれない。

 だけど、わたしはもう決めていた。自分の意思で、『ドーワ』に残ろうって。

 ジャックの誘いであっても、それを曲げることはできない。むしろ、ジャックが自分で決めた道を歩もうとしているのに、わたしがブレるわけにはいかない、という気持ちの方が強かった。

 

 大人になるってことは、苦しみを受け入れるってこと。

 自分の歩く道を自分で選んで、そのリスクや責任を自分1人で背負うということ。


 大人になろうとしているわたし達は、決別の苦しみを受け入れなくてはいけなかった。

 

「あーあ、になっちまうよな。センセの目を見たときから、こうなることは分かってたんだ。だから、せめて昔を知られる前に別れたかったのにさ」


 元『虫憑き』で、元『猟犬』。フックの言っていた通りなら、一般市民や『ドーワ』の関係者をジャックは殺めている。


 わたしには、ジャックの歩んできた道を想像出来ない。

 誰かが人を刺す場面を見ただけで動けなくなったわたしと、躊躇なくフックにナイフを向けたジャック。


 わたし達の間にある溝は、深く、大きい。


「フックが言ってたことは本当だよ。オレは人殺しだ」


 吹っ切れて投げやりになったのか、ジャックは言う。

「親父に売られて、『悪い虫』に頭弄られて、1人、また1人って罪のない人達を殺してきた。5人殺した辺りからかな、世間がオレを首切り殺人鬼(ジャック)って呼び始めたんだ。他の『猟犬』共は勲章だって羨ましがってたけど、オレは逆に虚しくなったんだ。ああ、そうか。オレは人ですらなくなっちまったのかって思ったよ。……殺人鬼の『猟犬』。人でなしの野獣になった気分だった」

「でも、ジャックはアンデル先生みたいに洗脳されてたんでしょ? だったら、」

「だったら、オレに罪はないのか? 背負うべき十字架はないのか? ……違うだろ。例え望んだ殺しじゃなかったとしても、それはオレが背負う苦しみなんだ。そうじゃなきゃいけない。だって、この身体で他人の血を浴びた事実は、どうやったって消えてはくれないんだから」


 ジャックの声が暗くなる。こんな葛藤を抱えたまま、ジャックは『ドーワ』で6年も暮らしていただろうか。

 朝、わたしの背中を叩いているとき、グリム先生の部屋で話し合いをしているとき、食堂でアラジンに弄られているとき、ジャックの心にはその罪悪感があったのだろうか。


 想像すると、胸が痛くなった。止まりかけていたものがまた溢れてきて、涙の粒が頬をつたった。


 悔しかった。

 ジャックの罪を一緒に背負ってあげられないことが。

 そして、こうやってジャックと話しているように、あの日の夜にもアンの悩みを聞いてあげられなかったことが。


 わたしは口元に力を込めて、嗚咽を噛み殺す。

 自分で背負うべき罪。ジャックがそう決めているなら、わたしが口を挟むのはお門違いだ。わたしにジャックの罪は背負えない。それなら、他に言うべきことがあると思った。

 

 わたしは鼻を啜り、一拍空けてから言った。


「ありがとう」


 知られたくない過去ルーツを、話してくれてありがとう。

 そう思わずには、いられなかった。

 

 ふと投げかけられた言葉に、ジャックは目を丸くする。それから、なんでお前が礼を言うんだよ、とジャックは笑う。

「やっぱおかしいよ、お前」

「おかしいって、どこが?」

「そういうとこだよ。普通引くだろ、こんな話したら。初めて会った時だって、話しかけんなって言ったのに、逆にまとわりついてきてさ。あの時から、おかしな奴だとは思ってたんだ」

「あの時は、変に意地を張ってただけで……。ていうか、わたしだってあの時、普通に傷付いたんだからね」

「悪かったよ」

「許さない」

「なんだよ。さっきは怒らなかったのに、昔のことは怒るのか?」

「それとこれとは別。無遠慮すぎるんだよ、ジャックは」

「だから、悪かったって」

「聞かない。別の形で誠意を見せて」

 

 こんな状況なのに、わたしはいつものように下らない意地を張る。

 これが最後の会話だと自覚しているからこそ、逆に取り繕って、いつも通りでいようとしてしまう。


 涙で顔が崩れているというのに、今更取り繕うなんておかしな話だ。こういう時に気の利いた言葉を選べないあたり、実にわたしらしい返答だった。

 わたしの心情を知ってか知らずか、くすりとジャックは笑う。


「分かったよ」


 何を分かったのか、ジャックは手を伸ばして軽くわたしの頬に触れる。涙を拭うこともせず、かといってすぐに離すわけでもない。ただ、軽く触れるだけ。


 ……変なの。何してるんだろう、ジャックは。


 そう疑問に思って、顔を横に向けた。その時、なぜかジャックの顔がとても近くにあって――気付いたら、わたし達は唇を重ねていた。


 思考が停止した。時間が止まったような感覚だった。


 それは、アンが持っていた本の中で、あるいはグリム先生が話す物語の中で語られていたもの。

 『ドーワ』が規則で禁止するハレンチなもの。

 愛していますと、言葉を使わず相手に伝える、大人のおまじないだった。


 そっと唇を離して、ジャックは言う。

「お前が……お前達がいたからオレは幸せだった。『ドーワ』で過ごす日々が、とても、とても。お前達といると、まるで普通だった頃に戻れたみたいで、ほんの少しだけ罪の意識も和らいで……そんな『ドーワ』での生活は、オレの宝物だった」


 わたしの考えてたことと同じことを、ジャックが口にする。

 『ドーワ』で過ごした日々が、わたしの全て。忘れてしまいたいと思うほど、重くて大切な宝物。


 だからこそ、みんなと一緒に……。


「だからこそ、しわくちゃの爺婆になるまで、みんなと一緒に生きたかった。例え『ドーワ』から抜け出してでも……」

「それが、ジャックの夢なんだね」

「ああ、分かってはいたんだ。それは手の届かない夢で、人殺しのオレには不釣り合いなものなんだって。そんなの初めから分かりきったことだったのに……なんで、望んじまったのかな」


 そう言って、ジャックは微笑んだ。哀しそうに、寂しそうに。

 『虫憑き』を辞めて『ドーワ』に身を置いても、罪の意識は消えることはなかった。なら、この先どのようなことがあっても、それは変わらないのだろう。


 楽しく笑っていても、それが不釣り合いだと感じてしまう。

 幸せを喜んでいても、次の瞬間には薄れ消えてしまう。

 

 これまでがそうだったように、これからも、ジャックは罪の意識に苛まれ続けるのだろう。明日も、明後日も、何年経っても、色褪せはしない十字架として。

 これ以上ないくらい明確に、わたしはその様を想像できた。


 だったら、わたしは言わなくちゃいけないと思った。

 わたしに幸せを与えてくれた1人の家族に、親友に、わたしの口からそれを伝えなくちゃいけないと思った。


「不釣り合いなんかじゃ、ないよ」


 確かな口調で、わたしは言う。


「叶わないどころか、センセも、『リュウグウドウ』のおっさんも巻き込んじまったのにか?」

「2人とも望んでジャックの力になってた。巻き込んだなんて言う方が、2人に対して失礼だよ」

「……そう、なるのかな」

「うん。少なくとも、ジャックの幸せを願っていたことは確かだと思う」


 でなければ、2人ともここまでのことはしなかっただろう。教え子が、アンの親友が、これ以上手を汚さなくてもいいようにと、彼らは身を挺したのだ。


「それにね、ジャックが人殺しだったとしても、わたし達と同じ施設で育ったことに変わりはないんだよ。あの日々の先を見たいって思うのは、わたし達の特権。それが不釣り合いだなんてことは、絶対にないんだよ」

「絶対?」

「うん、それは貴方の親友で、家族で――相棒のわたしが保証してあげる」


 わたしの言葉は、ちゃんと彼に届いただろうか。


「……ししっ。そっか、相棒か」


 ジャックは一筋の涙を流し、それに気付いて目を閉じて、壁で身体を支えながら立ち上がる。胸の光はすでに消えていた。地面に落ちたバックを手に取り、ジャックは再び肩にかける。


「救われたのは、これで2度目だな」


 満足そうな笑みを浮かべながら、ジャックがわたしに手を伸ばす。わたしがそれに掴まると、ジャックは力強く引っ張り上げた。

 もう、恐怖はない。震えもすっかり収まった。


 自分の道を自分の意思で歩むために、わたしは足に力を入れる。


 ここから先は分かれ道。お互い違う地図を持って、別々の道を歩む。その2つの道が交差することは永遠になく、けれどお互いの距離が離れることは永遠にない。

 この別れの苦しみを、わたし達は誇って受け入れていた。


「そうだ、1つ頼み事があったんだ」


 ジャックは血まみれになった腕の裾を、わたしに見せてくる。そこにはひっそりと、くっつき虫の1種である赤靴草が付着していた。


「アンの他にも、『悪い虫』の影響を受けてる奴がいた。探りを入れた感じたと、『虫憑き』になってまだ日が浅いっぽい。そいつを救ってやって欲しいんだ」


 それは確かに、わたしがやらなければならないことだ。

 アンのような犠牲者を、これ以上出してはいけない。それはアンデル先生と『リュウグウドウ』のおじさんが願ったことで、わたしも願うことだから。


「……分かった。”星誕の儀”まで時間はないけど、やれるだけのことはやってみる」

「悪いな、最後まで」

「ううん、まかせて」

「……頼んだ」


 その言葉を最後に、わたし達は口を噤んだ。交すべき言葉は交した。これ以上、言葉は不要だった。

 わたし達はお互いに背を向け、前に一歩を踏出す。ジャックは月光も届かぬ暗がりへ、わたしは広がる炎の中へ。

 

 炎を超えた先では、警察と『虫憑き』が衝突している。物騒な叫び声よりも勇ましく統率のとれた声が勝っていたので、警察が優勢なのはすぐに分かった。保護して貰うなら、そちらへ向かうべきだろう。


 炎がわたしの素肌を、足を焼いていく。その度に、”星の加護”がわたしの身体を治していく。


 人の身では超えられない試練の道。それを人ならざる身で、1歩ずつ歩いていった。

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