23.悲哀の連鎖2

 ガシャンガシャンと、パリンパリンと、物の割れる音がする。

 メラメラと、ボオボオと、家の燃える音がする。

 

 その連鎖の中で、大通りの方から瓶のような何かが飛来する。それはわたし達の近くに落下し、軽快な音を立てて割れると共に、周囲に熱を撒き散らした。

 わたし達の退路が、炎の壁によって塞がれる。

 フックはそれを眺め、コキリと首を鳴らした後、値踏みでもするようにわたし達を睨んだ。


「どこもかしこも、頭の沸いた異端者ばかり……。『ドーワ』のガキと裏切り者のクソがいるのはともかく、古本屋の店主がいるのはどういう了見だ、えぇ?」


 フックは血の付いたナイフの先端をわたし達に向ける。

 その血が誰の物なのか、すぐに分かった。分かってしまった。だって、それはアンデル先生の望んだことだから。

 また『虫憑き』に戻ってわたし達を追わないよう、自分からあそこに残った。そんな先生の結末が1つしかないことくらい、わたしにだって分かってた。


 なのに、それを見た瞬間、言い表しようのない絶望がわたしにのしかかってきた。

 表面だけ触って理解した気になるのと、奥深くまで理解するのとでは、価値が大きく異なる。3日前に聞いた先生の言葉の意味を、今ようやく理解した。


 チッ、とフックが舌打ちする。

「奴ら、もう嗅ぎ付けて来やがったか。……実験棟はもう保たないだろうが、最低限の仕事はしなくちゃならん。そういうわけで、落とし前としてガキは絶対に連れ帰らせてもらうぜ」

 

 もう後には引けない状況だからか、フックは異常なまでに興奮していた。鎖の外れた闘牛を連想させるような顔つきだ。

 おじさんがわたし達の前に立ち、フックと向き合う。


「もう止すんだ、フック。これ以上、大人のエゴに彼らを巻き込むんじゃない」

「違うなぁ。子供に躾をしてやるのは、いつだって大人の役割だ。えぇ、古本屋の店主さんよぉ」

「彼らは自分の足で未来に向かおうとしている。躾は要らない。これ以上、足枷になるようなことをしないでくれ!」

「飲み込みの遅いジジイだなぁ……こっちは端から、話を聞く気はねぇんだよ!」


 言うより早く、フックはおじさんに突進した。

 咄嗟の出来事で、『リュウグウドウ』のおじさんは反応できていない。フックは左手で持ったナイフを、何の躊躇いもなくおじさんの腹に突き刺した。


「うぐっ」

 おじさんの口から短く声が漏れる。わたし達『星の器』でもない限り、ナイフが胴体に刺さった時点で人は終わりだ。

 肉は裂け、血は溢れ、身体は地面に倒れゆく。例に漏れず、おじさんもそうなる筈だった。


 しかし、『リュウグウドウ』のおじさんは倒れない。


「てめぇッ!?」

「ありがちな方法だけどね……お腹周りに本を巻き付けておいたのさ。古本屋の店主というのも、捨てたものではないだろう」

 

 そう苦しそうに言って、おじさんは隠し持っていたナイフを腰から抜き、そのまま勢い良くフックの左腕に突き刺した。

 使い物にならなくなったのだろう。その左腕からは血が出て、ダラリと力無く垂れ下がった。


 巨人のように大きな身体をしているフック。彼に襲われた時点で、『リュウグウドウ』のおじさんは為す術もなく殺されてしまうと思っていた。だけど、おじさんは用意周到に防具を自作し、最悪の事態に備えていた。おじさんの覚悟が身を結んだんだ。


 だけど、そこには致命的な欠陥があった。


 それは、おじさんが優しすぎたこと。首や腹を狙わず、左腕を刺してフックを無力化しようとしたことに他ならない。


 その姿は、正に巨人のよう。

 驚くべきことに、フックはナイフが左腕に刺さっても動きを止めることなく、むしろ左手で握っていたナイフを反対の手に持ち替えて、今度はそれをおじさんの首に突き立てた。

 

「片腕を潰せば、オレが止まるとでも思ったか? 甘ぇよ、古本屋」


 グチュリ、とナイフを捻り、フックはおじさんの首から引き抜く。おじさんは血の噴水を首から吹き出し、驚愕した様子で地面に膝をつく。


 この時、わたしは完全に場の空気に飲み込まれていた。

 怖かった。フックという巨人のような男が怖くて、身体が言うことを聞かなくなっていた。


 わたしは思い知らされた。

 恐怖とは、時にどうしようもないくらい絶対的に、人の行動を縛り付けるものなんだと。


 『リュウグウドウ』のおじさんの血を浴びながら、フックは言う。


「あちら側の神が『肉体の変化』を『星の器』に与えるように、我らが神は『精神の変化』をオレ達に与える。特に、オレのような汚れ仕事を請け負う『猟犬』には特別な処置が施されててな。まぁ、簡単に言っちまえば、痛み止めと良心の抑制だ。傷を負っても痛みを感じねぇし、女子供を殺すのにだって躊躇いを感じなくなる。こんな風に……って、もう聞いてねぇか」


 力なく地面に倒れたおじさんを足で退かし、フックは左腕に刺さったナイフを道端に投げ捨てる。それは血を飛沫させながら、カランカランと近くに転がる。


「お前もナイフを隠し持ってるんだろ、ジャック。ほら、出せよ。オレの右目を潰したお前なら、あるいはオレを殺せるかもしれないぜ。……それとも、お姫様の前じゃ『猟犬』には戻れないってか?」

「……ジャックが『猟犬』?」


 言葉につられ、わたしはジャックを見た。

 ジャックは奥歯を強く噛みながら、地面に転がるナイフとにらめっこをしている。それはこの世で最も忌むべき物を見ているような、そんな様子だった。

 それを見てニヤリと笑い、フックは更に舌を回す。


「おいおい、知らないようだぜそこのお姫様はよぉ! ちゃんと教えてやれよ、自分は元『猟犬』で異端者狩りをしてましたってなぁ!」

「おい……やめろ」


 ジャックの表情が更に険しくなる。歯ぎしりをして、目でフックを睨んでいる。睨まれる側は、その視線をとても嬉しそうに受け止める。


「なんだよ、別に隠すことはないだろ? ……あぁ、そういやぁ、時計ってのは案外空洞が多いんだっけなぁ」

 突然、フックは脈絡のないことを語り始める。それを聞くジャックの顔が、みるみる青く染まっていく。

「やめろ。それ以上、何も……」

「時計は手紙や小物なんかを隠すには最適の箱だ。この古本屋の店主みてぇに、お前の父親は物渡しをしていたんだよなぁ! いや、それだけじゃねぇ。熱心だったお前の父親は、商売道具だけじゃ飽き足らず、自分の息子さえも組織に差し出したんだ! なぁ、教えてくれよ! 父親に売られるってのはよぉ、一体どういう気分がするんだぁ?」

「黙れぇぇぇぇぇッ!」


 獣のように吠え立てて、ジャックが走り出した。

 腰に隠してたナイフを抜き、僅かに差し込む月光を反射させながらフックに刃を向ける。その動作はどこか手慣れていて、淀みがなく、しかし獣のように愚直で直線的な動きだった。


 動きを予測していたのか、フックはひらりとナイフを躱す。軽快なステップで距離を取り、挑発でもするようにジャックを笑い、一瞬チラリとわたしを見る。


「オオォオォォォオォォッ!」

 

 吠える。野獣のように吠える。

 絶対に逃がすまいと、ジャックはフックとの距離を詰めた。先程以上の速さで突進し、今度は動きにしなやかさも加えながら、低い体勢でナイフを突き出す。狙いはフックの下腹部。鋭い突きがフックに迫っていた。


 だというのに。

 フックはうす汚い笑いを止めず、余裕を見せる。そして、ただ1言、右手で握ったナイフを突き出す代わりに口にする。

 

「いいのか、お姫様が見てるぜ?」


 瞬間、ジャックの身体が止まった。まるで鎖に縛られているかのように動かなくなり、顔を真っ青にしながらわたしを見た。

 何かに恐怖するように、あるいは何かに絶望するように、ジャックの瞳がわたしを直視していた。


 それは、あまりに大きな隙だった。

 フックは右の拳で裏拳を当て、ジャックを道端の壁に弾き飛ばした。同時に、ジャックの手からナイフが離れ、月光の届かぬ闇の中に転がっていった。肩にかけていたバックも、すぐ側に転がる。


「アッハッハッハッハァ! 分かりやすいなぁ、お前は! ま、おかげでスムーズにことを運べたわけだがなぁ」

 嗜虐心が満たされたのか、腹の底からフックは笑う。


 わたしは一体、何を勘違いしていたんだろう。

 小さき者は、ただ圧倒的な理不尽に押し潰されてすべてを奪われる。それは、グリム先生から聞かされた数々の物語で、唯一と言っていいほど共通する常識だったじゃないか。


 その常識は、御星の慈愛に満ちたこの世界でも変わらないんだ。

 子供がナイフを持ったところで、軽くあしらわれて、それでおしまい。誰も巨人には対抗できない。


 フックはゆっくりとジャックに近づき、馬乗りになって動きを止める。そして、首をぐるりと回してわたしを見る。


「たった今、我らが神のお告げが下った。お前かこいつ、どちらかを生かして連れて来い。傀儡は1人で良い、とな。まぁ、オレとしてはどっちを殺しても良かったんだが……決めたよ。オレはこの元『猟犬』を殺す。お前はそこで震えながら、こいつが死んでいく様を目に焼き付けろ。そしてぇ、無力感に、絶望に押し潰されてぇ! この星を呪いながら、壊れた心を我らが神の御手に差し出せぇ!」

 

 巨人は叫ぶ。フックは右手で掴んだナイフを大きく振り上げて、深々とジャックの胸に突き刺した。


 うっ、と小さいうめき声が上がる。ジャックの口元から血が溢れ出す。

 暴力的な、命の色だ。


 それを見て、フックはよりいっそう恍惚とした笑みを浮かべながら、1度ナイフを引き抜く。そして、先程の行動を再現するように高くナイフを掲げ、もう1度ジャックに――




 刺した。

 刺した。

 刺した。

 刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。




 ジャックを、助けなくちゃ……。

 そう思うのに、ぴくりとも身体が動かない。何かしなくてはと思うのに、これっぽっちも力が入らない。

 止まらない。震えが、止まらない。

 カタカタと、カチカチと、歯が音を立てる。

 しまいには足に力が入らなくなって、ペタンと地面に座り込んでしまう。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう、と言葉がグルグルと頭を回る。


「やめ……て……」

 かろうじて声を出すも、弱々しい、か細い声しか出せない。フックは何も気にすることなく、ジャックの胸をナイフで刺し続ける。

 

 ジャックの命が失われていく。

 アンの時のように、わたしが見ていない所で死ぬんじゃない。わたしの目の、手の届く範囲で、抵抗虚しくジャックは13回分の生を散らしていく。


 次第に、わたしはふわりと身体が浮くような感覚を覚える。

 自分の意識と身体が離れていくような、不思議な感覚。ああ、これは事情聴取の時に感じたもの。わたしの脳が現実逃避しようとしている証だ。


 これは夢だ。そう頭が思い込もうとしている。

 心が、折れかけている。

 場違いにも1匹の蝶が路地に迷い込み、本当に、この地獄こうけいは夢なんじゃないかとさえ思えてくる。いっそのこと忘れられたら、どれだけ楽なんだろうって……。


「――………ッ」


 許さない。そんなの、わたしが許さない。

 ジャックが死ぬことも、この地獄こうけいからわたしの頭が、心が逃げることも、わたし自身が許さない。

 

 フックは、震えながらジャックの死を待てと言った。まったく、何も分かっていない。

 そんなことを言われたら、わたしは絶対に抵抗してしまうというのに。


 てこだろうと、スピア先生だろうと、親友の死だろうと、ナイフを持った巨人がいようと動じない。動じちゃ、いけない。わたしは今こそ、自分勝手でわがままな意地を張らなきゃいけないんだ。


 わたしは目を閉じる。

 思い出せ、あの時何があったのかを。記憶の流れのその先で、何を見たのかを。


 母親に捨てられたわたしは、貧民街をさまよい、倒れ、空を覆う暗雲を見上げながら母親のことを忘れたいと思った。願ったんだ。そして、誰に届く筈もなかったわたし願いは、


 この世界を始めた誰かに、

 『悪い虫』と敵対する者に、

 つまり、御星にだけは届いたんだ。

 

 わたしは目を開く。あとは願うだけ。

 

 図々しい頼みだということは分かってる。でも、もしこの声を聞いているのなら、どうか救いの手を差し伸べて欲しい。

 ジャックを助けてくれるのなら、わたしは何だって差し出せる。この身体も、魂も、自由も、何だって差し出せる。

 

 だから、お願い。

 

「――助けて……」

 

 切に願って、わたしは声を絞り出す。その小さくか細い声は、風に吹き消され闇の中に消えていく。


 当然、わたしの声でフックが動きを止めることはなく、ジャックは虚ろな瞳で夜空を見上げていた。

 もう、終わりが近かった。ジャックはうめき声すら上げなくなり、血は水溜まりになって彼の周りを濡らしている。13回分の生が、ジャックの身体から抜けきろうとしていた。

  

 フックも、ジャックの生死に確信を持ったのだろう。荒い息を整えながらナイフを振り上げて、空中でタメをつくった。


「これで、ようやく右目の借りを返せる……じゃあな、裏切り者。理解なき異端に解放を」


 そして、最後の一振りを振り下ろそうとした瞬間――フックの顔に動揺が走った。


 彼が余力を残していたのか、はたまた、わたしの願いが届いたのか。

 ジャックは瞳に精気を取り戻し、巨人を見上げていた。


 2人は目を合わせる。身に迫る危機を察知し、醜悪な笑みを更に醜く引きつらせ、慢心を焦燥で掻き消しながら、フックは力任せにナイフを振り下ろした。


 もう、何もかも手遅れだというのに。


 古本屋の店主というのも、捨てたものではないだろう。

 そう代弁するかのように、ジャックは道端に転がっていた『リュウグウドウ』のおじさんのナイフを掴み取る。そして、巨人がナイフを振り下ろすよりも速く、おじさんが傷を負わせた左腕の方から、その首めがけてナイフを振り抜いた。


 同時に、ジャックはもう片方の手の平でフックの一撃を受け止める。フックのナイフはジャックの手の甲を突き破りはしたものの、身体までは届かず静止した。


 目を丸くし、フックはナイフから手を離す。ジャックの胸にポッカリ空いた穴よりも、小さく浅い致命傷を、自由になった右手で抑える。

 信じられない。そう言いたげな表情を浮かべながら、ジャックの横に倒れ込む。


 当然、フックは”星の加護”を受けていない。

 急速に傷が癒えるはずはなく、指の隙間からは血が絶えず漏れ出る。赤々とした、暴力的な命の色。それはジャックが流した血と混ざり合い、暗がりの路地をねっとりと赤く染め上げる。


 そこで地を這い、死に恐怖し、口内へとせり上がる血に溺れながら足をジタバタと動かす様は、まるで死にかけの寄生虫のよう。


 もがいて、もがいて、もがいて、もがききって、1回分の生を使い切ったその先で、遂に『虫憑き』は動きを止める。


 たった1人の男の子の手によって、巨人はその人生に幕を閉じたのだった。

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