21.狂気の選択2
この世から意識が消える瞬間は、一体どういう感覚を味わうのだろう。
”星誕の儀”が近づくにつれて、そんなことを考える機会が増えた。
健やかな眠りのように、温かさを感じながら意識を失うのだろうか。それとも、じわじわと締め付けられるように苦しみを感じながら事切れるのか。今のわたしは、そのどちらも感じてはいなかった。
……あれ……痛く、ない?
いつまで経ってもナイフがこの身を傷つけないことに違和感を覚え、目を開いた。
すると、どうだろうか。目の前には、ありえない光景が広がっていた。
床に倒れている巨人のような男、フック。その周囲に散らばる、先程までイスだった木片の数々。そして、それを男に振り下ろしたであろうアンデル先生が、額に汗を浮かべながら立っていた。
「もう、大丈夫だよ……ベル」
苦しそうな声でアンデル先生が言う。小窓から差し込む白い光は、先程までとは明らかに異なる彼の姿を浮かび上がらせていた。
なぜ、と思う。先生はわたしの言葉を、しっかりと聞いていたはずなのに。
「なんで、こんな……」
先生は力無くその場に座り込むと、再び優しい瞳でわたしを見る。それは卑しい『虫憑き』のものではなく、紛れもない在りし日の先生の瞳だった。
「自分に、暗示をかけておいた。もしも君がここに来て僕達の誘いを断った場合は、正気に戻るように、とね……」
「暗示……? 正気……?」
状況が整理できず、浮かんだ疑問をそのまま口にする。
さっきまで激情を顕わにしていた先生が、今は優しい瞳でわたしを見ている。あの一瞬で心変わりした、とは考えにくい。では、一体何が先生の考えを変えたというのだろう。
「ここは、そういう場所、なんだ。はぁ、はぁ……ッ、どんな些細なことでも、1度だって疑問を懐けば、洗脳は始まっていく。『ドーワ』は歪んでいて、それを正そうとする行いにこそ正義があると、無意識下に刷り込まれていく……。ここにッ、長く居れば居るほどに……まるで、怒りで我を見失うように、自分が自分ではなくなっていく……。それに気付いたのは……スパイとしてここに潜入してから1年経った頃だった……」
アンデル先生は、そこで唇を噛んだ。苦しそうに、悔しそうに、自分で自分を罰するかのように。
それは、子供に絵本を読み聞かせるような優しい口調ではなく、何が何でも自分の意思を伝えようとする重々しい口調。自らが犯した罪への償いを欲する、魂の叫びだった。
「初めは、カグヤを連れ戻そうという、星官としての意思があったんだ。……だが、うぅ……ッ、組織の中枢に入り込み、僕が彼女の居場所を突き止めた頃には、全てが手遅れだった……。ここの空気に長くあてられていた僕は……ッ、自由を夢見た少女の成れの果てを見て、内に懐いた怒りの矛先を『ドーワ』に向けてしまったんだ……。思えば、その時点で、僕は終わっていたんだろう。星官としての意思よりも、『虫憑き』としての志が、日に日に強くなっていった……。そして、愚かにも……僕は2度目の過ちを犯すことになった……」
先生に聞くまでもなく、先の話を想像できた。
2度目の過ち。つまり、それは――
「アンの救うことができなかった。……先生は、そう言いたいんだね?」
取り繕うことなく、先生は深く頷いた。
「……大きな罪だ。許してくれ、とは、言わない。……そもそも、許しを請う資格すら、今の僕にはないのだからね」
「…………」
何も、言えなかった。
先生の置かれていた状況が、全て分かったわけじゃない。それでも、苦痛に塗れた先生の言葉と姿を見れば、今までの行動が本心じゃなかったことくらいは分かった。
洗脳、とアンデル先生は言った。まるで、怒りで我を見失うように、自分が自分ではなくなっていく、と。
それは、星がわたし達に与えた”星の加護”のように、人の身では抗えない神秘的な祝福(のろい)ではないだろうか。
思い返してみれば、わたしもこの部屋でアンデル先生と言葉を交したあたりから、まともな思考が出来なくなり始めていた。
3日間しかここに居ないわたしですら、これだけの影響を受けたんだ。あれが3年も続いたとしたら、正気じゃなくなったとしても不思議じゃない。むしろ、こうして真面に話ができる状況は奇跡とすら言えるだろう。
先生はわたしを助けるために、昔の先生に戻ってくれた。できることなら、そんなことないよって、優しく言ってあげたい。
だけど、先生はわたしの許しを受け取ってはくれないんだろう。
あのアンデル先生の言葉は、決意の表れに他ならないから。誰にも許されなくていい。ただ自分の罪を償うために、僕は君を助けるんだよ、と。
「償い切れるかは、分からないが……はぁ、はぁ……ッ、それでも……この身を賭して、やれることがあるのなら……やらなければならない。それが、君達の父としての責務だ」
そう言い終えた所で、忙しない足音と共に、2人の人影が部屋に入ってきた。
1人は、見覚えのないカバンを抱えたジャック。そしてもう1人は、『古本屋・リュウグウドウ』のおじさんだった。
「すまない。少し遅れた」
『リュウグウドウ』のおじさんは言う。アンデル先生は視線を返して、
「大丈夫、ですよ。危なかったですが、こちらも何とかなりました……。後は、頼みます……」
分かった、と『リュウグウドウ』のおじさんは呟く。ジャックも、何かをグッと堪えるように顔を伏せている。
突然の出来事で、わたしは未だに状況を飲み込めてはいない。だけど、この2人のやりとりはまるで……。
「そんな、自分だけここに残るみたいな言い方しないでよ……。正気に戻れたんでしょ? なら、一緒に行こうよ……」
いつの間にか、わたしの口調は3年前のあの日に戻っていた。
それを聞いた先生は優しく笑うだけで、頷きはしない。その笑顔に余裕が無いのは明らかで、それでもなお、わたしを安心させようとしてくれている。それが一層、わたしの胸を締め付ける。
「何とか、抑えられてはいるが、それも、一時的な……ッ、ものだ。事実、君を見殺しに、しかけた……。君達と、行動を共に、するには、危険すぎる……」
「嫌だ……嫌だよ、先生! やっと――」
――あの頃の先生に会えたのに。
そう、続く言葉を言おうとした時だった。
先生はわたしに近づいて、片手でぎゅっとわたしの手を握り、もう片方の手でそっとわたしの頭を撫でた。
それは、ずっと昔に先生が教えてくれたおまじない。
1人じゃないって実感させてくれる。ついでに怖さも消えて、寒さも忘れさせてくれる。そういう、おまじない。
忘れようとしても、ずっと心に残り続けた。わたしに勇気を与えてくれる、おまじないだった。
優しい薄緑色の先生の瞳は、ただ真っ直ぐにわたしとジャックを見詰める。
末永く生きろとは言わない。ただ、強く生きて欲しい。そう静かに、わたし達に告げていた。
「ずるいよ……先生……」
ここは、アンに毒を持たせて『ドーワ』を壊滅させようとする組織だ。裏切りがバレたらどうなるかは、想像に難くない。
なのに、許しを請おうともせず、最後は父としてここに残ろうだなんて……。
ジャックはわたしに歩み寄り、わたしの手を取る。その間際に、悲しみを僅かに滲ませながら先生を見る。
「悪い、センセ」
「……謝る必要はない。これは、僕が望んでやっていることだ」
「それでも、直接言っておきたかった。……ありがとな」
「ああ。こちらこそ、ありがとう」
そう言うと、先生はわたしの手と頭から手を離した。ジャックはわたしの手を引いて、アンデル先生の元から離れていく。重い足取りでジャックに引っ張られ、部屋から出て扉を閉めるその時まで、わたしは先生を見詰めていた。
♧
「……行ったか」
足音が遠退き、完全に消える。最早この部屋には、自分と床に倒れている男の2人しかいない。静寂だけが、僕の耳に届く。
頭が割れそうだ。気を抜けば、一瞬で意識が飛んでしまいそうな程に。しかし、これはカグヤとアンを救えなかった自分への罰でもある。少しでも贖罪になるのなら、この身で全てを受け入れようと決めていた。
……それにしても、と思う。
なぜ、こうも破綻しているのだろう。彼の計画も、僕自身の幻想も。
彼から話を持ちかけられた時、不思議とこの光景が頭に浮かんだ。
ベルは『星の器』として生きる道を選び、僕ら『虫憑き』を拒絶する。そう思ったから、適切なタイミングで正気に戻れるよう、予め暗示をかけておくことができた。そうでもしなければ、彼の計画は成り立たなかった。
しかし、悲しいかな。ベルがそちらの道を選ぶのなら、彼の計画は根本から破綻していることになる。
彼も、それが分からないわけじゃない筈だ。それでもこうするしかなかったのは、単に他の手段が思いつかなかっただけか、それとも、全てを知った上でついてきて欲しかったのか。
あの子の夢の先にあるものを憂い、胸が痛んだ。
「ああぁあぁ、やってくれたなぁあぁぁあ、アンデルゥゥ!」
哮りながら巨人が立つ。見ると、醜く顔を歪めながら、フックは床に転がったナイフを再び手中に収めていた。
「……悲しいやつだよ、お前は」
せめてもの哀れみを男に向ける。
カグヤやアンを犠牲者だと言うのなら、彼もまたそうなのだろう。『悪い虫』に精神を弄られ、思考を支配され、こうあるべきと人生を定められてしまった。
人としての営みを捨て、『ドーワ』を崩壊させるためだけに心血を注ぐ人生など、痛々しいにも程がある。
自分もその一員だったのだと考えると、ぞっとしないな。
フックは誰もいない筈の場所を見詰め、目を見開き、それからナイフを僕に向けた。
「たった今、我らが神からお告げが下った。お前を殺せ、だとさ」
「だろうな。……君らの神は、裏切りを、許さない……」
「それ以前にオレが許さねぇ。オレを殴りやがったお前も、6年前に右目を潰した裏切り者も」
「君だって、ベルの頭を、殴ったじゃないか。その……細やかな、お返しさ……」
「はっ、口数の減らない野郎だ。こういう時はガキ共と同じ場所に逝けるように、御星に願うってのが筋ってもんだぜ」
「それは……無理な話、だな。『星の器』に、あの世は……ない。はぁ、はぁ……ッ、彼らの魂は、繭に包まれたまま……肉体と共に、滅ぶか……御星の力で羽化を果たし、上位の存在になるか……その、どちらかだ。……僕は彼らと、同じ場所には……行けない」
「そうかよ」
心底興味なさそうに答えて、フックはナイフを振り上げる。それを見て、自分の中に恐怖はなく、むしろ満たされていることに気が付く。
悔いしか残らない人生だったが、最後の最後で悔いのない道を選べた。『虫憑き』としてではなく、あの子等の父として死ねることがこれ程までに誇らしいとは。
こんな愚かな人間にも、最後に救いはあるものなのだな。薄れる意識の中で、そう思う。
……思えば、ずっと幻想を懐いて生きてきた。
あの子等が人として健やかに育ち、それを温かく見守れたのなら、それはどれだけ良いことなのだろうか、と。
その幻想に捕らわれ、『悪い虫』に付け入る隙を与えた。
救えたはずの命すら、愚鈍にも見落とした。
もはや御星にも見放され、授かった祝福すら遠い過去に捨ててしまったこの身では、出来ることなど限られている。それでも、こう願わずにはいられない。
どうか、あの子達の歩む道が、暖かな光で照らされていますように。
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