19.ベルの世界2
目を覚ますと、腕や鼻の穴に透明な管が繋がれていた。わたしは暢気に、天国って変な場所なんだな、と思った。
だけど、そこは天国じゃなくて、地獄でもなくて、ちゃんと貧民街から地続きにある1番大きな町の、1番大きな病院のベッドの上だった。
わたしが目を覚ましたことに看護師さんが気付いて、白装束を纏った女の人を部屋に呼んだ。綺麗な銀髪を短くまとめていて、切れ長の鋭い目は凜々しい。近くにいるだけでお花の香りがする大人の女性だった。
彼女の話の内容は、半分も分からなかった。”星の声”がどうだとか、『ドーワ』がなんだとか。唯一わたしが理解したことといえば、目の前の女性の名前が”スピア”だってことくらいだった。
それからしばらくは、ベッドの上で生活した。
だっすいしょうじょう。えいようしっちょう。きおくしょうがい。しっせいしょう。
そんな呪文のような言葉をお医者さんは口にしていた。何を言ってるの、と質問しようとしたけれど、急に恐怖が込み上げてきて声を出せなかった。
声をかけても、無視されるんじゃないか。居ないものとして、扱われるんじゃないか。
何故かは分からないけれど、そんな考えが頭によぎってしまった。
わたしが退院したのは、ベッドの上の生活を始めてから1週間後のことだった。
その日もスピアさんがわたしを迎えに来て、町外れにある丘の上に連れて行かれた。そこに建っていたのは、見たこともない立派な建物。お姫様や王子様が住んでいるお城のようだとわたしは思った。
「『星養成機関・ドーワ』。今日からここが、貴方の家です」
家、という単語を聞いた瞬間、割れてしまいそうなくらい頭が痛んだ。地面にしゃがんで額に触れると、飴色の髪が前に垂れてきた。それを見て、同じ髪色の女の人が頭に浮かんだ。急に鼓動が跳ね上がって、上手く息ができなくなった。
肩を上下させるわたしを見て、スピアさんがわたしを抱きしめる。わたしはそのまま、スピアさんの胸の中で意識を失った。
♧
目を覚ますと、わたしはベットの上にいた。内装が大きく違っていたので、病室でないことは分かった。
大小のテーブルが1つずつに、大きなソファが2つ。奥には台所があって、そこには白装束を着た白髪の男の人が立っている。男の人はわたしに気付いて、薄緑色の瞳でわたしを見た。
「やあ、初めまして。僕の名前はアンデル。ここではみんなにアンデル先生、なんて呼ばれている」
そう言って、アンデル先生はお水の入ったマグカップをわたしの元に運んできた。
「さ、飲むと良い。生憎とコーヒーは切らしていてね……って、君にはまだ早いか。はははっ」
優しそうにアンデル先生は笑った。わたしはマグカップを受け取って、1口飲む。特段美味しくもなかったけれど、普通の水であることに大きな安心感を覚えた。
♧
アンデル先生は熱心に、口を閉ざすわたしに話しかけてくれた。だけど、わたしは俯くばかりで、声を出せないままだった。
この人ならわたしを無視したりしない。それが分かっていても、言葉が喉に引っ掛かって出てこない。口をぱくぱくと動かすたびに、声を出す勇気が無くなっていった。
♡ ♧
アンデル先生の部屋には、黒髪を伸ばした女の子がよく遊びにきた。
ふりょうしょうじょ、とアンデル先生は呼んでいた。
ふりょうしょうじょは、わたしが声を出せないと知った上で、アンデル先生と同じように話しかけてくれた。飽きもせず、なんども、なんども。
その内、アンデル先生とふりょうしょうじょがわたしを囲むようにして座って、一緒にお話をするようになった。その時になって、ふりょうしょうじょの名前は”カグヤ”なんだって分かった。
最初の頃は俯いてばかりだったけれど、段々と顔を上げて話を聞くようになった。次第に、相づちやジェスチャーなんかもするようになった。
無視される怖さよりも、誰かに構ってもらえる嬉しさが勝っていった。わたしが声を出せるようになるまで、そう時間はかからなかった。
♡ ♧
声を出せるようになって初めてお願いしたことは、髪を切ってもらうことだった。
肩まで伸びた飴色の髪を見ていると、なんだか苦しくなる。だからスピア先生の所に行って、スピア先生と同じ髪型にして欲しいと頼んだ。スピア先生は一瞬だけ目を丸くしてから、構いませんよと凜々しく答えた。
♢ ♡ ♧
4年の月日が流れても、わたしとアンデル先生とカグヤの関係は変わらなかった。『ドーワ』の1番奥にあるアンデル先生の部屋に集まって、一緒にお喋りをする。
唯一変わったことがあるとすれば、わたし達の集まりにアンが加わったことくらいだった。
アンはカグヤのことを”カグヤ姉”と呼んでいた。なんでそう呼ぶのか聞いてみると、
「家族って、そういうものでしょ? 父、母、姉、弟。みんな別々の呼び方がある。わたしには弟しかいなかったから、誰かをお姉ちゃんって呼ぶの、なんだか新鮮だな」
そう嬉しそうに答えていた。それから、わたしもカグヤのことを”カグヤ姉”と呼ぶようになった。アンデル先生をお父さんのように感じ始めたのも、その頃から。
時々、スピア先生はお母さんかな、なんて考えることもあったけど、”お母さん”という言葉を考えると頭が痛くなったので、それ以上考えるのは止めておいた。
♠ ♢ ♡ ♧
6年の月日が流れて、同年代の男の子が『ドーワ』にやって来た。
男の子は少し変わった雰囲気の子で、みんな近寄り難さを感じていた。彼は、意図的に周りと距離をおいてるみたいだった。アンと初めて会った時のことを反省していたわたしは、今度は自分から話しかけるんだと決意して、自分から男の子の元に向かった。
「わたし、ベル。貴方の名前は?」
わたしがそう言うと、男の子はあからさまに視線を逸らした。
「……うるせぇ。話しかけんなよ」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。その後すぐに、拒絶されたという実感がじわじわと沸いてきて、少し傷付いた。
だけど、わたしはこの世の誰よりも、他人に構ってもらうことの嬉しさを知っていた。誰かがすぐ側にいて、一緒にお喋りが出来るってことは、とても良いことなんだと知っていた。
だからわたしは、ジャックに話しかけるのを止めなかった。うるせぇと言われようと、うざいと罵られようと、わたしは男の子に関わり続けた。
こうなったわたしは、てこだろうと、スピア先生だろうと動じない。そのことを、男の子は思い知ることになった。
結局、2週間を過ぎたあたりで男の子が根負けして、白状するように”ジャック”という自分の名前を告げた。
ジャックがわたし達の集まりに加わったのは、それからすぐのこと。周囲と距離を置いていた姿が嘘だったみたいに、ジャックは明るく無遠慮になっていった。背中を叩かれるようになったのは戴けないけれど、ししっ、と歯を見せて笑うしぐさが、わたしは好ましかった。
ただ、ジャックと入れ替わるようにしてカグヤ姉の元気がなくなっていくことが気がかりで……。
ある日、わたしが1人でいつもの部屋に行くと、扉の前でカグヤ姉のすすり泣く声が聞こえた。
「ねぇ、どうして後3年しか生きられないの? どうして……私は大人になれないの? 私、星になりたくない。怖いよ、センセ……」
♠ ♢ ♡ ♧
9年の月日が流れて、わたしとアンとジャック、 は”星繭の儀”を受けた。
朝から金の刺繍が施された白装束を着せられ、『ドーワ』の最神秘部である『星蝶の間』へと連れて行かれたわたし達は、五芒星の描かれた石室の中央に立ち、スピア先生の合図で目を閉じた。
目を閉じる。ただ、それだけ。
神々しい光を浴びるだとか、身体に何かを刻むだとか、そういった特別な事は何もしなかった。不思議なことがあったとすれば、それは一瞬に感じた目を閉じている時間が、実際には3時間も経っていたこと。不思議と言えば不思議だけど、本当に、ただそれだけだった。
その後、器の命名式が執り行われ、1人に1つずつ『星の器』としての名を与えられた所で儀式は終了した。もっと仰々しいものを想像していただけに、なんだか拍子抜けだった。
3人も同じことを思ったみたいで、なんか変な感じだったな、これで身体の成長が止まるなんて信じられないなぁ、といった具合に喋りながら、いつものようにアンデル先生の部屋に向かった。
部屋には既にカグヤ姉が来ていた。どうやらわたし達が来るのをグリム先生と2人で待っていたみたいで、テーブルには人数分のコーヒーが用意されていた。
ジャックは大人ぶって何も入れなかったけれど、わたしとアン、 はミルクをたっぷりとコーヒーに入れた。カグヤ姉はお水を好んで飲んでいて、この時も1人だけ白湯だった。先生が、君達が『星の器』になった記念日だと言って、それを合図にみんなでマグカップを突き合わせた。
「ねぇねぇ、君達はどんな名前を貰ったの? 聞かせてよ」
カグヤ姉が興味津々に聞いてくる。ジャックがあー、と苦笑いして、
「オレは『悲哀の器』。なーんか、貰ったこっちがヒステリックになっちまうような名前だよな。もっとマシなのは無かったのかよ、って感じ」
アンもそれにうんうんと頷いて、
「そうだよね。『狂気の器』なんて、まるでわたしがマトモじゃないみたい」
「 」
「わたしなんて『混沌の器』だよ? もっと平和そうな名前が良かったなぁ」
に同意するように、わたしは言う。すると、ジャックとアンがすかさず反応する。
「良いじゃん。”悲哀”よりも”混沌”の方がカッコイイんだからよ」
「カッコイイかどうかは別として、”狂気”より”混沌”の方が全然マシだよ」
「えー、嘘だー」
「 」
みんなで笑って、それからコーヒーを1口飲む。アンデル先生はその様子を微笑ましそうに眺めて、1度カグヤ姉に視線を送った後、こほん、と咳払いをした。
「知っているかい? 『星の器』の名前に負のイメージが含まれるのは、『悪い虫』が近寄らないようにするためなんだ。1種の安全祈願、もしくはおまじないのようなものと考えれば良い。どうか無事に使命を果たせますように。そんな願いが、君達の名前には込められているんだよ」
優しい声で、アンデル先生はそう言った。カグヤ姉は腰の辺りまで伸びた黒髪を弄りながら、アンデル先生を見る。
「まぁ、前向きに考えて行こうぜって話だよね。センセ」
「はははっ。流石にもうすぐ星になるだけあって、カグヤは言うことが違うな。不良少女の面影はどこへやら」
「あ、ちょっと、昔の話は止めてってば!」
楽しそうに笑い合う2人。それにつられて、ついついわたしも笑ってしまう。
ああ、なんて幸せなんだろう。
わたしの居場所。わたしの家。わたしの家族。
『ドーワ』に来る前のことは、正直よく覚えていない。だけど、あの頃よりも今の方が温かくて、とっても幸せだということは分かる。
それに、流石に恥ずかしくて皆の前じゃ言えないけど、1つだけ夢もできた。ここでの生活はわたしの宝物だ。
カグヤ姉はもうすぐ”星誕の儀”を受けて星になる。
さようならをするのは寂しいけれど、家族の門出だ。笑って送りだしてあげよう。今日みたいに皆でここに集まって、マグカップを突き合わせてお別れ会をしよう。プレゼントをあげるのも良いかもしれない。ぬいぐるみや本だと向こうに持って行けないから、食べ物なんかが良いかな。
わたしが頭の中で考えを巡らせていると、アンデル先生はパチンと手を合わせる。
「そうだ、今日という日を祝して記念写真を撮らないかい。忘れてはならない思い出として、形に残しておきたいんだ」
みんな先生の言葉に賛同し、どこで撮ろうかと話し合う。結局、写真はこの部屋で撮ることになって、ソファを移動させてスペースをつくり、スピア先生を呼んで撮ってもらうことになった。
スピア先生を待つ間、わたしは隣にいるアンの耳に手を当てて、小さな声で話す。
「ねぇ、アン。1週間後ってわたし達の外出日だよね。ここの4人で、カグヤ姉のプレゼントを買いに行こうよ」
わたしがそう言うと、アンは少し複雑な顔をして、わたしの耳に手を当てる。
「良いけど……それは意味ないと思うよ」
「え、なんで?」
「だって、カグヤ姉はここからいなくなるんだから」
♠ ♡ ♣
気が付くと、わたしの周りはアンだけになっていた。何もない、真っ暗な世界。目の前にいるアンは、どこか悲しそうに笑っている。
「……これが、わたしの忘れてた過去。わたしのルーツなんだね」
アンはこくりと頷く。
『この記憶は、ベルにとっての宝物。だからこそ、カグヤ姉やアンデル先生が『ドーワ』から居なくなった時、貴方は全部忘れてしまった。宝物で、重りだから。幸せすぎて、苦しすぎて、背負いきれなくなったから……』
「正直、今でも背負える自信はないよ」
わたしは本音を漏らす。
『ドーワ』に来る前の記憶は、ただ辛いだけの記憶だった。いない者として扱われて、構ってすら貰えなくて。最終的には母親に捨てられて、希望なんて何もなかった。
『ドーワ』に来た後の記憶は、ただ幸せなだけの記憶だった。わたしには居場所があって、新しい家族がいた。でも、最終的には辛いだけの記憶に変わってしまった。
今では全てが辛い記憶で、重りに感じる。だけど、その中には捨てて良いものなんて何1つなくて、ちゃんとわたしが受け止めなきゃいけない宝物なんだって、ようやく思い出せた。
『ドーワ』に来る前があったから、『ドーワ』に来た後を幸せと感じることが出来る。カグヤ姉とアンデル先生がいたから、今のわたしがいる。声を出して、家族とお喋りをして、それを幸せだって感じられる。
『わたしに出来るのはここまで』
アンは言う。心地の良い透き通った声で、肩まで伸びた赤髪の末端を軽く弄りながら、ゆっくりと語りかける。
『ベルの歩く道は、ベルが決めなくちゃいけない。それは辛くて、苦しいこと。だけど、自分で選んだ苦しみを誇って受け入れられたなら、それはとっても良いことだって思うんだ』
カグヤ姉が捻れ木の下で語った言葉、カグヤ姉が『ドーワ』から居なくなる前日に語った言葉をアンは口にする。
『だから、逃げずに頑張ろう。わたしも頑張るからさ』
周りの景色が元に戻っていく。記憶の流れが意識を現実に連れ戻す。
いつの間にか洗面台の鏡が目の前にあって、もうそこにアンは写っていない。ありのままのわたしが、わたしを見詰めているだけだった。
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